6.待ち望んだ安眠妨害(天恵9年4月中旬)
財前凛太郎は、自身の教室で、いつものように机に突っ伏して、授業の始まりを待っていた。
眠い。眠いのだ。いつだって。起きているほうが有意義だと思ったことは、生まれてこの方、ほとんどない。教科書をなぞるばかりの授業は退屈で、起きている価値など感じられなかった。そんな授業に四苦八苦しているクラスメイト達とは、話が合うはずもない。
次の授業は、凛太郎が所属している陸上競技部の顧問、六連昴の担当する生物の初回だ。だが、だからといって、いつものスタンスを曲げるつもりは、凛太郎にはなかった。つまらないなら寝る――それだけだ。
ぱさり。
突っ伏した頭の上に、軽い何かが触れる感触がして、凛太郎は身体を起した。
「……?」
「おはようございます、凛太郎さん」
「……先生」
視界に影が差していた。凛太郎が視線を上へと向けると、穏やかに微笑む六連の姿があった。凛太郎は、ぽつりとその名前を呼んだけれど、六連は何も言わずに教卓の方へと、踵を返した。
その意図するところが判らず、凛太郎は首を傾げた。相手の意図が読めない――それは、凛太郎にとって珍しい経験だった。
「……なに、コレ」
ふと、下に目をやると、一枚の紙が落ちていた。拾い上げると、手書きの問題――生物の問題だった。そして、右上に、走り書き。
――――"授業内容は変えてあげられませんので。解けたら、寝てもいいですよ"。
問題の筆跡とは明らかに違うそれは、今、まさに黒板に書かれている文字と同じだった。状況と併せてみれば、これは、六連の言葉ということになる。思わず、笑ってしまった。とても教師の言葉とは思えないが。凛太郎の想いを、あの先生はいつの間に知ったのだろうか? 誰にも話したことがないそれを、知り得る機会などないだろうに。
知れず口角を吊り上げて、凛太郎は、その紙と向き合っていた。
*
「アンタが寝てなかったの、珍しいわね」
六連の授業が終わり、立ち上がろうとした凛太郎は、憮然とした水越由希に声をかけられた。
この同期は、同じ部活だからという理由だけで、凛太郎を起す係に任命――勿論、暗黙の了解、というやつだ――されてしまっている。それを心底嫌だと思っているにも関わらず、こうして気にかけてくれているのは、ありがたい話だ。もう、寝てばかりの凛太郎のことを気にする人間は、この学年には居ないというのに。
「んー。ま、そんな時もあるよ」
「いっつもそうしてなさいよ」
由希の苦言にひらひらと手を振ると、凛太郎は今度こそ立ち上がった。今まさに教室を後にした、顧問の後を追うためだ。
*
「先生」
北側の廊下は、昼間だというのに薄暗い。追いかける生徒の気配に気が付いているだろうに、気にすることなくつかつかと歩き続けるその背中に、凛太郎は声をかけた。
「楽しめましたか?」
穏やかに笑う目の前の青年に、凛太郎は答えず、ただ紙を突き返した。六連は受け取ると、細められている瞳を僅かに見開いて、そして苦笑した。
「流石ですね。入試問題などより、余程難しいはずですが」
「……出典はだれですか」
「僕が高校二年のとき、他校の後輩が渡してきたんです。まだまだありますから。暫く退屈はしないと思いますよ」
「……」
六連が渡してきた問題を解くのに、授業時間一杯かかってしまった。たしかに六連の言う通り、退屈とは程遠い五十分だったけれど。六連にこれを渡してきたという後輩も、それを渡される程の六連も。相当に優れた頭脳の持ち主に違いない。そう、もしかしたら、凛太郎よりも――。
いずれにせよ、これで、生物の時間は楽しいものになりそうだった。感謝の意を込めて、凛太郎はぺこりと頭を下げる。
「……今の貴方は、」
「え?」
ふ、と。思い出して、凛太郎は口を開いた。不自然に言葉を切った凛太郎に、六連は首を傾げている。
昨日の、颯太と恭輔のいざこざ。その時に、六連のことでいやに口ごもる颯太に、凛太郎は違和感を覚えたのだ。そして、その後の六連の挑発――。材料がそれだけ揃えば、答えは自ずと見えてきた。
「今の貴方は、脱け殻ですか?」
「――っ、」
しっかりと六連を見据えて発した言葉に、息を呑む音が聞こえてきた。凛太郎は目を細める。それは、つまり――。
六連にとっては、酷い追撃かもしれないと解っていながら、凛太郎は言葉を続けた。
「恭輔先輩のためを思えばこそ、あんなことを言ったんでしょうけど。貴方は、どうなんです」
*
職員室に戻ってきた後輩の姿を見て、丹羽雄翔は唖然とした。一見いつも通りに見えるその表情は、雄翔からは一目でそうと分かるほどに落ち込んでいたからだ。
「よ、お疲れ。ちょっと顔貸せよ」
「? ……ええ」
ほとんど何でもできると言っても過言ではないこの青年が、落ち込む姿を、こんなにも早く実際に目の当たりにすることになろうとは。いつもの余裕綽々とした姿からは想像できない、どこか上の空の昴を引きずって、雄翔は昼休憩へと抜け出した。
*
「なるほど、"抜け殻"――ねぇ」
雄翔は大きく溜息を吐きながら、呟いた。昼飯を食べながらに話を聴くと、どうやら昴は、陸上部の生徒にそんなことを言われたようだった。
「……その通り、かもしれません。今の僕には――」
「当然だ。それだけ大切なものだったんだろ」
「未練がましいでしょう」
らしくもなく落ち込んで、弱気な言葉を吐き出すその姿を見ると、どうにも調子が狂う。出会ってまだそう時間が経っていないが、この後輩は、少しこちらをナメてかかってくるくらいが丁度いい。いつもの不敵な澄まし顔がよく似合うのだ。
「馬鹿。当たり前の感情だよ。抜け殻で当然。これからそこを、別のもので満たしていく最中なんだからな」
昴の事情は、実はよく知っている。雄翔自身は帝都体育大学出身だが、高校時代に勉強をよく教えてくれていた親友が、青谷学院大の陸上部に入っていたからだ。当時から、何度か昴の話を聞いていた。
「それに……目を背けでばかりじゃ、何も解決しないこともあるもんな。だからこそ、お前は蒼桜に来たんだろ、――昴」
「……なん、で」
「一条葵、わかるか? 高校時代から、親友なんだよ」
「なるほど……」
教えていないはずの事情を雄翔が詳細に知っているらしいことに、昴は驚きを露にした。けれど、親友の名前を――昴からしたら、部活の先輩の名前を――口にすれば、即座に納得の表情を浮かべた。
将来を嘱望されていた、というのも大きいだろうが、なまじ頭が回るからこそ、余計なことまで考え過ぎてしまうのかもしれない。雄翔とて、大学のころ、わりと酷い挫折を経験し、わりと悩んでいた時期もあった。そうしていきついた答えは、"それでも、バスケが好きだ"――。昴も、そう思ったからこそ、蒼桜にいるのだろう。
「明日、恭輔さんと走ることになりました」
「は? いきなりだな。……大丈夫なのか?」
「たった千五百メートルですから、なんとかなるでしょう」
半ばセンチメンタルな思考に意識を飛ばしていた雄翔は、昴の爆弾発言に頓狂な声を上げてしまった。視界には、いくらかすっきりした澄まし顔を浮かべている後輩の姿。
昴がそう言うなら大丈夫、なのだろうが。どこか危うく見えるその姿に、雄翔は肩を竦めた。




