5.不穏な空気(天恵9年4月中旬)
「え、ビラ? 僕がですか?」
昴が部活に顔を出しはじめて三日目、木曜日。颯太から、ビラ作りを手伝って欲しい、と声をかけられた昴は、頓狂な声を上げてしまった。
「今まで、顧問の先生が絵を書いてくれていたんですよ。……いけませんか?」
「ああ、そういう……。いえ、構わないのですが。あー、いや、構う……かな?」
去年までいた顧問の先生が、絵が上手だったらしく、ビラのイラスト部分は顧問の役割、という暗黙の了解があるらしい。昴の反応に、颯太は恐々と補足を入れてきた。驚いた理由を、勘違いさせてしまったようだ。
昴は、困った、と苦笑した。歯切れの悪い返事に、颯太が目を見開いて首を傾げている。別に、絵を書くのは構わないのだ。けれど、問題はそれが、見るに堪えないものだということだ。それがこの部では顧問の役割だ、と言われると少し困る。
昴の絵を見たことがある流風ならば、止めてくれるのではないか。昴は助け舟を求めて、流風の方へと視線をやった。少し離れた所にいた流風は、ビラ、の言葉が出た時点で、こちらのことを気にしていたらしい。昴の視線に気付いて、慌ててこちらに駆け寄ってきた。
「あ、あの……! イラストなら、ボクが書きます。六連先生の絵は……、その……ちょっと、ヤバいです」
なかなか酷い言われようだと思ったが、事実なので黙っておく。幼気な新入生たちに自分の絵を見せてしまっては、新入部員は集まらないかもしれない。
流風の言葉を疑うように、颯太がこちらを見ていたので、昴は肩を竦めて、颯太が手渡してきた紙に、ペンを走らせ始めた。
*
ビラのイラストの話を持ち掛けたところ、やたらと歯切れの悪い六連に、颯太は首を傾げた。その理由を告げた流風の言葉も、いまいち信じられない。別に流風が嘘を吐いていると思っているわけではないのだが――ただ、言う程酷いのか? という疑問だ。
そんなことを考えていると、六連が、颯太の手から紙を受け取って、さらさらとペンを走らせ始めた。覗き込んだ颯太は唖然とする。迷いなく引かれた線は、何か四角いものを形取って――。
「と……豆腐……?」
「酷いですね……ハードルですよ」
「ハー、ドル……?」
颯太がぽかんと呟いたとき、流風が六連の手を止めた。苦笑して首を振る流風に、六連が顔を上げてそちらを見る。小さく見開かれた瞳に、流風の様子が映った――途端、がっくりと肩を落とす六連。
確かに、流風の言う通りだった。必死に止める理由も分かる。これは、紛れもなく画伯だ。視線を上げた六連と目が合った。こっちを見ないでくれ、と颯太は思った。これは、とてもフォローできない――する気もないけれど。颯太は、そっと視線を反らした。
「言い分は分かった……。だが流風、君は絵が描けるのか?」
「ええと……先生よりは……?」
問題は、そこだ。絵に関して六連を笑えないレベルの颯太としては、描ける人間がいれば問題ない。
自信なさげに答えた流風は、六連の豆腐もどきの横にペンを走らせる。すると、みるみるうちに、誰が見てもそうと分かるハードルが描き加えられた。
「よし、採用」
異論の余地はなかった。
*
ビラは無事完成した。ビラの効果か否かは定かではないが、あれから新入部員がさらに二人やってきた。そんな、順調に見えた陸上部に不穏な空気が流れたのは、その週末、日曜日のことだった。
もうすぐ、六連が様子を見る、と言った一週間の期限が終わりを迎える。その最後の練習日である今日、練習開始前のパート別集合が終わったタイミングで、流風たち中長距離パートのところへ、険しい顔をした主将・風祭颯太がやってきた。
「お前ら、……それでいいのか?」
「あ?」
詰られたその言葉に食って掛かったのは、江間だ。ただでさえ鋭い瞳を細めて、風祭を睨みつけている。
その言葉の意味するところは、流風にはよく解らなかった。ただ、険しい表情で眉を寄せ、怒気を滲ませている主将の姿に、流風は不安を募らせた。
「折角、昴……先生が、指導をしてくれるっていうのに……」
「はぁ? なんだよ、それ。顧問が居ようと居まいと、関係ねぇだろ。……それに、アイツだって、ただ見てるだけじゃねぇか」
「お前、本気で言ってんのか? ……それでも長距離選手か?」
「はぁ? じゃなかったら何だってんだよ? ……そんなにアイツの肩を持つのかよ?」
風祭は、六連のことを口に出した。六連が何だというのだろう。陸上初心者の流風には解らない何かだろうか。そう思った流風だったが、江間も風祭の言わんとすることを察していない様子だった。八須に視線を投げると、ゆっくりと首を振られた。
尚も食って掛かった風祭の襟首を、江間が掴んで捻り上げる。怖い。流風は震え上がった。
「当然だろ。だって、あの人は……、……っ」
江間の鋭い緯線をものともせずに、風祭は言葉を返し――そして言葉の途中で口を噤んだ。悔しそうに眉を寄せた主将の姿に、流風は首を傾げた。口ごもった風祭に、江間はますます怒りを募らせている。
「ま、俺には関係にねぇよ。これからも、好きにやらせてもらうぜ」
「ざけんな、お前……!」
「――おや。仲違い、ですか?」
まさに、一触即発。そんなところまで高まった緊張感に、流風は涙目になった。怖すぎれ逃げ出したいけれど、脚が震えてそれすらも出来ない。
そんな流風の鼓膜を、静かな声が揺らした。熱くなった場の空気を冷ます、冷静な声。振り返った流風の瞳には、緩く笑みを浮かべた頼もしい青年の姿が映った――。
*
江間恭輔は、酷く憤っていた。ぎりり、と感情に任せて、目の前の同期の襟首を捻り上げる。
知った風な口を利くこの主将が、どうして六連の存在をそこまで気にするのかは、恭輔には良く解らなかった。それでも、恭輔の取り組み方に口を出される謂れはないのだ――たとえ、颯太が主将であっても――。
「――おや。仲違い、ですか?」
突然、静かな声が響いた。それは、件の新しい顧問、六連昴の声だった。緩く笑みを浮かべたその態度に、恭輔は苛立ちを募らせた。
「なんだよ、アンタは引っ込んでろよ。……口出ししないんだろ?」
「うーん。そのつもりだったのですが……」
六連は、そこで言葉を切って、ちらりと、恭輔の奥――颯太の方を見た。颯太は静かに肩を竦めた。何のアイコンタクトだ? と恭輔が疑問を浮かべたちょうどそのとき、六連が口を開いた。
「……あと一日は見守る約束でしたが、少しだけ、口を挟ませていただきましょう。……恭輔さん、僕と勝負しませんか?」
「……あ?」
「好きにしたい、といいましたよね? 僕に勝ったら、君のやることに、今後一切口を出しません。ただし、僕に負けたら――次の勝負まで、僕に従ってもらいます」
「……は?」
その口から零れ落ちたのは、信じがたい言葉だった。恭輔自身、全国屈指の天才たちに、正面からぶつかって勝てるような力はないが。それでも、日本の北の果て――極北大の大学院からやってきたというこの青年に、負ける気はしないのだ。
「怖いですか? 負けるのが」
「!! な、わけねぇ……やってやる!」
「では、一度目の勝負は、次の練習日――火曜日でいかがでしょう。距離は、恭輔さんが決めてくれて構いません。君の得意な距離でどうぞ」
「はっ。なら、千五百、だな。……後で吠え面かくなよ?」
「得意な種目で負けたとあっては、言い逃れも出来ないでしょう」
恭輔は、募る苛立ちに任せて目の前の教師を睨みつけた。それでも、六連はどこ吹く風、とばかりに恭輔を煽っている、その自信がどこから湧くのか、解らない。
こうなったら、返り討ちにして、完膚なきまでにその鼻っ柱をへし折るまでだ。




