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青天を翔ける  作者: 灰猫
【第2章】氷解。そして、ある"春"の終わり
33/35

30.さらば"あの日の二人"(天恵9年7月上旬)

「ひゅ、っ、ぜっ……ごほっ」

「すば、――っ!?」


 乱れた呼吸に、喘鳴が混じる。それすらも遠く、昴の意識は、今しがた終えたばかりの勝負の中に取り残されたままだった。酸欠に霞んだ視界の先で、僅か前に佇んでいた久蓮が、こちらに一歩踏み出して、そのまま崩れ落ちたのが見えた。

 持てる全てを――今昴の両手にある全てを出し切った。そんな、十三分余りの「永遠」。それを至福と感じていたのは、確かに自分だけではなかった。自身と同じく情けなく地面に這いつくばっている久蓮の表情にも、咲き誇る歓喜が浮かんでいた。


「ふふ、あはは! っ……オレ、も、死んでもいい」

「蒼が泣くぞ」

「……そりゃダメだね」


 どんな言葉も、この瞬間を前にしては色褪せてしまう。それを解っているからこそ、久蓮は冗談めかした本気だけを零したのだ。あの日、あの場所で出会った二人は、――交わしたその約束は。今ここに、成就したのだから。


「オレはもう少しだけ先へ行くよ、昴サン」

「ああ」


 あの日、色を失くして蹲ったこの青年に、苦し紛れに取り付けた約束――「また走ろう、あの一瞬の永遠を共に」。果たせなかったことを悔い続けたそれは、今、ようやく「思い出」となった。いつものようにからりと笑った久蓮の進むその先へ、自身も共に往けないことには、不思議と、哀しさはなかった。


「……ったく。なにやってんだよ、こんなとこで。何のための休暇だよ、休んでろ――って言いたいのに」

「まーそれは大目に見てやるけどな。……呼べよ! 見逃すところだっただろ」

「――!!」

「蓮介サン、誠司サン……!」


 呆れ混じりの乱入。ムーンベルクのコーチと主将の登場に誰よりも驚いているのは、きっと目の前の後輩(久蓮)だろう。まさか彼らに黙って来ていたとは。その背後に目を向ければ、片手にビデオカメラを携えてひらひらと手を振る夜の姿があった。なるほど、彼が情報源、というわけだ。


「積もる話もあるだろうがな、今日はお開きだ。またいつでも会えばいいさ。――もうわだかまりは、無いんだろ?」

「! ……ええ」

「ま、気が向いたらまた構ってやってくれ。こいつ、めちゃくちゃ寂しがってたぜ」

「ちょ、誠司サン!」


 蓮介と誠司は嵐のように畳みかけて、ぐったりとされるがままの久蓮を引き摺って去っていった。相変わらずの彼らに苦笑した昴は、怒涛の展開に置き去りにしてしまった生徒に詫びるために口を開いた。


   *


「伝説」と呼んでも決して誇張ではないであろう、名勝負。そして、そのすぐ後には、ムーンベルクの現主将・深松誠司、そして蒼桜高校の伝説の主将・雪沢蓮介の登場。短期間で怒涛の出来事に、最早キャパオーバーだ。そう思っているのは、もちろん颯太だけではない。

 昴と視線で会話して、去っていった篠崎たちを追っていった凛太郎を見送って、颯太は未だ座り込んでいる己の顧問に視線を向けた。


「お付き合いくださって、ありがとうございました。……これが、僕の抱えていた未練の全てです」


 そう言って微笑む昴の晴れやか表情に、颯太は複雑な気持ちになった。昴は、数年越しの想いをついに果たした。それが二人にとってどんな意味を持つのかは、颯太には解らない。それでも、一つ確かなことがある。六連昴という一人のランナーが、今この時、真にその競技人生に幕を引いた、ということだ。それを淋しいと思うことくらいは、赦してほしい。


「……」

「どうした、恭輔?」


 先ほどから何を告げるでもなく黙り込んだままの恭輔に、颯太はそう問いかけた。覗き込んだ瞳は、何事か思案に揺れている。それは、先ほどの勝負についてか、それとも――。

 遠く望む瞳は、あの勝負から居ても立っても居られないというように走り始めた雄大を見つめていた。

 

「ちょっと、走ってくる」


 言葉少なに駆けだした恭輔を見て、さわり、と胸が踊るのを感じた。それは、きっと――。


   *


 甘やかな響きで囁かれた言葉が、耳を離れない。「後悔するよ、」と。酷く実感の籠った声色で諭すように告げられたのは、どこか後悔の滲んだ――。

 あの夕暮れの公園で。篠崎の紡いだ言葉は、今もまだ雄大の心に突き刺さったまま抜けない。

 

『こうして今、同じ時を過ごしているのに。本気で隣を駆けられなかったこと、きっと後悔する。だから――』

『なんで、そんな。……それじゃ、まるで貴方が……』

『――してる。あのときからずっと、持てる力を尽くして駆け抜けてきたのに。それでも、後悔してる――ずっと。だからこそ、オレは長野(ココ)へ来たんだよ』


 篠崎の言うそれが、六連との何事かだということは、彼らの事情を知らない雄大にも察せられた。それは、作り話というにはあまりに実感が籠っていて――。

 そして、今日、彼の「後悔」はこの名勝負に昇華した。その瞬間を目の当たりにして、たまらなくなった雄大は、皆の元を離れ、こうして独りジョグをしている。


『キミは、まだ()()を、失ってないんでしょ?』

『――!!』

『だったら、離すな。昴サンも、そう願ってる』

『――っ、』


 その言葉に浮かぶのは、己を貫く真摯な昴の瞳だ。


『……がむしゃらに頑張るのが嫌ならば、無理強いはしない! だが、後悔して欲しくないんだ! ……ただ、俺は――』


 本当は解っていた。あのひたむきな新任教師が、生徒たちを馬鹿にするはずがない。それを素直に認められなかったのは、ただ自分が卑屈になっているだけだ、と。

 後悔、するのだろうか――するのだろう。このままあと一年を過ごした雄大は、きっと後悔をする。あのとき、もっと真摯になっていれば―がむしゃらになっていれば、と。そう、解っているではないか。結局、後は勇気を出すだけだ。みっともなくとも、情けなくとも、一歩を踏み出しる勇気が。


「なあ」

「――!」


 思考に沈んだ雄大の鼓膜に、憧れてやまなかった存在の声が大きく響いた。

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