29.そして、時は来る(天恵9年7月上旬)
「ええ!? 篠崎久蓮に会った!?」
「……それで雄大の奴、あんな調子なのか」
八須と六連とのいざこざは、存外にあっさりと終わりを迎えた。あの翌日、恭輔と連れ立って部に戻ってきた八須は、六連に非礼を詫びると、今まで通り真剣に練習に取り組んでいた。どこか上の空にも感じるその様子は、何か思案しているようでもあった。その理由を問うた部員たちに江間の語った事実は、こうだ。曰く、「清崎夜と篠崎久蓮に出くわしたのだ」、と。
そうしてそれから一週間がたった今日、蒼桜高校陸上部の面々は、近くの市営陸上競技場へと足を運んでいた。目的は、もちろん練習のため。そして、六連の「我が儘」のためだ。
「……こうも頻繁に出くわすと、ありがたみがねぇ気がすんぜ」
目を輝かせつつも半目になった江間が呟く。驚きと嬉しさを隠すようなその視線の先には、花が咲くような笑顔を湛えた日本一のランナー・篠崎久蓮が、テレビの中と全く同じ空気を纏って立っていた。
ふらりと立ち寄った、といった緩いパーカー姿の出で立ちで飄々と笑むその瞳には、隠す気もない期待の色が浮かんでいた。
「もっと時間かけても、良かったですケド」
「待ちきれないだろう。もう、お互いに」
「ははっ。……オマタセ」
「ああ……!」
囁くように告げる篠崎も、応える六連の声も。聞いたこともないほどに歓喜に打ち震えていて、二人にとってこの瞬間がどれだけ大切なのかが、事情を知らない流風にも痛いほどに解った。
「さ、昴サン。ドーピングだって大歓迎。だから、万全の体調で――アンタの人生で、イチバンの色彩を、オレに頂戴」
「ああ。くれてやるさ、いくらでもな」
瞬間――ばちりと、激しい火花が散った。
*
バックストレートの終着点――五千メートルのスタートラインに並んだ二人を見つめて、恭輔はごくりと息を呑んだ。張り詰めた静寂。さわり、と風が吹き抜け――次の瞬間、どちらからともなく、あっさりと勝負は幕を開けた。
日本の頂点に立つ篠崎と、そんな彼に心からの勝負を望まれる昴。そんな二人は、美しくも力強いフォームで風を切って駆け抜けていく。その姿はまるで――。
「す、ご……」
「……美しいな」
「もしかしなくても俺ら、とんでもねーもの見てる……よな?」
「ええ」
先日、画面越しに見た篠崎と如月の勝負は、激しい中にもどこか温かみのある勝負だった。待ちわびた瞬間を心ゆくまで味わうような、お互いを迎え共に高みへと引っ張り合うような。あのレースも、二人にとっては――そして昴にとっても、思い入れ深いものなのだろう。
そして、今己の目の前で繰り広げられているこの勝負は。一切の甘さを削ぎ落して、ただ鋭さだけがあった。お互いを潰し合い、喰い合うような激しさ――研ぎ澄まされた白刃の鍔迫り合い。息吐く間もない攻防には、「このくらいで潰れるはずがない」という、確かな信頼があった。
「よく見てなよ、流風。これが、最後――だから」
「は、い……!」
ぽつりと落とされて恭輔の鼓膜にも届いた、凛太郎の言葉。恭輔よりも余程彼らの事情を察しているその声色には、寂寥が揺れていた。
「これ、……だったんだ」
「あ? 何がだよ」
「昴先生の求めていたものは、ずっと――これだったんだよ」
「……」
「こんなの、悩むだけ無駄だ。凛太郎の言った通り。俺らに出来ることなんてなかった――せいぜい、見ていることくらいだ」
熱に浮かされたような颯太の呟きを拾って、恭輔は小さく眉を顰めた。凛太郎といい、颯太といい、どうも昴に感情移入をし過ぎているきらいがある。何かと生徒に真摯なこの教師が、幸せになればいいとは恭輔も思う。けれど、それでこちらが心を潰すのは違う。そんなこと、昴とて望んでいないだろう。
それに。目の前で繰り広げられている、目映いばかりの光飛び散る勝負を見ていて、思う。こんなもの、――。
「馬鹿かよ、十分だろ。こんなの、望んだってそうそう見られねぇよ」
「――! はは、……そうだな」
圧倒的な才能に直面して、感じる思いは絶望ばかりかと思っていたが。いま、彼らの勝負を目の当たりにして恭輔の胸に去来するのは、希望と期待ばかりだった。無理かもしれない――無駄かもしれない。それでも、彼らをここまで熱くさせる何かが、そこにはある。それを求めてがむしゃらになることが情けないことだとは、恭輔には思えなかった。例え、その片鱗すらも、掴めなかったとしても――。
「っ……俺、も――」
浮されるように手を伸ばした先、激しいまでの煌めきが、弾けた。
*
まさか、ここまでとは。目の前の光景に、颯太はただ息を呑んだ。彼らの凄さは、知っている筈だった。彼らの高校・大学時代の活躍も、創り上げた伝説も、そこらの長距離選手よりは余程知っている――それほどまでに、颯太は彼らのファンだった。だからこそ、「六連昴」が自分たちの顧問に甘んじるなど、認めたくはなかったのだから。
昴高校二年の夏。当時一年生だった篠崎とのインハイ五千メートルは、今や知る人ぞ知る、伝説の名勝負だ。過去の映像としてそれを見た颯太は、自身の中の「長距離」という概念を、根本から打ち崩された思いに駆られたものだ。けれど、これは、さらにその上を行く――。
「"人生で、イチバンの色彩"――、か」
遠くでただ見ている自分たちでさえ感じる、極彩色の閃光。ならば、その中心に身を投じている彼らには、一体どんな景色が見えているのか。きっとそれは、一度味わえば「もう一度」と求め続けざるを得ない、そんな甘美な「呪い」だ。
ぞくぞくと背筋に走るのは、畏怖と、憧れと、羨望と、そして。ちらりと視界の端で動く何かを見留め、流し見た隣――彼らに手を伸ばしていた恭輔の浮かべている表情に、颯太は息を呑んだ。その「場所」を求めて輝く瞳には、彼らと違わぬ焔が燃え盛っていた。




