26.頂からの"ラブコール"(天恵9年6月下旬)
全く、そんな表情をして――よくもまあ、そこまでの闘志を隠して教師などできたものだ。自身の向かい側で画面をのぞき込む昴の表情には、別人かと見紛うほどの好戦的な光が揺れていた。そんな己の顧問に、凛太郎はひっそりと溜息を吐いた。
正直、昴の気持ちも解らなくはない。陸上に対して何の執着も無かった自分でさえもそう考えてしまうほどには、画面の中に広がる光景は鮮烈だった。ただ、凛太郎には良く解っているだけだ。そこまでの光景の中に身を投じることができるのは、所謂「選ばれた人間」だけだ。そして凛太郎は、そうではない。僻むでも悲観するでもなく、事実としてそう考えている。だからこそ――。
「……嫌だ」
この天才が、その路を諦めなければならないこの現実が、何故だか凛太郎はとても哀しかった。今まで、他人にこんな想いを抱いたことなどなかったのに。それは、閉塞感溢れる日々に風穴を開けてくれた張本人だったから、なのだろうか。凛太郎には、良く解らなかったけれど。そんな考えに至った自分は、そう嫌いではなかった。
*
「えげつねぇな……」
ぽつりと落とした呟きは、無意識の本音だ。
篠崎久蓮と如月蒼の勝負を目の当たりにして、恭輔はただただ感嘆した。不思議とそこに、かつてのような絶望はない。それが何故だか、恭輔には判然としなかった。彼らが心の底から喜びを体現して駆けていたからかもしれないし、六連が彼らと同じように瞳を輝かせていたからかもしれない。自分の才能では、そこまでは至れないかもしれない。けれど、自分も。その片鱗だけでも感じてみたい――それくらいは許されるのではないか。
あっという間の一万メートル。至高の勝負を制したのは、黒紅のユニフォーム――"至宝" と称された実業団・ムーンベルクの篠崎久蓮だ。早速とインタビューを受けるその姿は、堂々としたものだ。
『お帰りなさい。篠崎選手――堂々の走りでしたね』
『ありがとうございます。ようやく、でした。多くの人に助けられて、オレはまた――この舞台に立てました』
ふにゃり、と笑うその表情は、酷く好戦的な焔を携えていた先ほどまでとは、まるで別人だった。それなのに、その柔らかさもまたしっくりくる――篠崎久蓮は、とても不思議な雰囲気を纏った人物だった。
『ラストはかつての後輩――如月選手との一騎打ちでしたね』
『はい。蒼はとても強くなりました。でも、まだまだ。だよね、蒼?』
『当然です。――絶対に、追いついて……追い越して見せます』
篠崎の言葉に、至極嬉しそうに頷くのは、隣に並び立つ如月だ。鋭く意思の強そうな瞳で、そう宣言する後輩に、篠崎は花の綻ぶような、甘い甘い笑みを浮かべた。
『あとは……僕は、ここに六連選手が居ないのが心残り、ですね』
『ふ、ホントに。あの、ちょっと――十秒だけ、電波をお借りしてもいいですか?』
『え?』
どこかで聞き覚えのある「言葉」に、恭輔が耳を疑ったその時、篠崎が、バツが悪そうに苦笑しながら、そんな言葉を発した。聞き返すインタビュアーを余所に咳払いをした彼は、衝撃的な言葉を告げたのだった。
『えー……。どこぞの陸上部顧問に告ぐ。どうせ、捨てきれなくて揺れてるんでしょ。オレは戻ってきた。だから――人生最後のレースをしよう』
*
執着していたのはお互い様……ってか。篠崎久蓮からの熱烈なラブコールに、颯太はそんな感想を抱いた。公共の電波を介したラブコールを送られた当の本人は、ぽかんと放心している。そんな表情を見たのは初めてだ。これも、あの青年の策略なのだろうか。
あっさりと締めくくられて、次の競技を映し出した画面を余所に、常翔の清崎監督が昴を小突いた。はっとした昴は、自身の携帯を取り出して――。
『はいはーい』
「おい久蓮。何だ、アレは」
『え~。だって昴サン、ああでもしないと意地でも反応しないでしょ』
「……」
『ホラホラ、図星! オレ、寂しかったんですケド』
「……。全く……敵わないな」
「っ、え、ええ~~!!!」
軽快なテンポで交わされる会話。携帯から漏れ聞こえるその声の主が誰だか思い至った面々が、驚きの声を上げている。それも無理もないのだろう。その声は、先ほどまでインタビューを受けていたあの日本選手権一万メートルの覇者――篠崎久蓮その人だったのだから。
「し、篠崎久蓮……! 篠崎久蓮が、先生の後輩!?」
「如月蒼の方かと思ってたんだが。極北だろ? それでも凄いけどな!!」
「久蓮も極北出身だぞ。蒼だけじゃなくな。二人が共に在学していた一年間に、昴も陸上部の部員だったんだ」
「それ、当時の極北大チートだろ」
「その年の全日本大学駅伝は、極北大が獲ったな」
驚きを露にする面々に、清崎が淡々と解説を入れている。その光景はなんだかちぐはぐで笑えてくる。そんな騒動を余所に、昴は篠崎との会話を続けている。予想通りの混乱。これが部にとって吉と出るか否か――絶対に、悪い結果にはさせない。颯太は静かに心に誓った。
*
懐かしい声が鼓膜を揺らした途端、昴の心に溢れたのは歓喜だった。その走りを目の当たりにし、その声を聴いて抱くのが、およそ幸福ばかりだというのに、どうして逃れられると思ったのか――浅はかにも程がある。「寂しかったんですケド」の言葉に怒りと本心の色を感じ取った昴は、自ら遠ざけておきながら、こうまでして追いかけてきてくれたことに歓びを感じて苦笑した。
『猶予、あげるから。思う存分準備して。で、――人生最高のレースをしよう。アンタの未練なんて吹き飛ばすほどに、最高のレースを』
「やっと、果たせるのか……」
『そだよ。も、待てないでしょ? これ以上、お互いに』
「ああ。……ああ!」
身体に歓喜が駆け巡る。一体、何年越しの想いなのか。何度も諦めかけては振り切れなかった、あの約束が――遂に、果たされる時が来るのだ。




