23.時間なら、かけていい(天恵9年6月上旬)
「なんで、それを俺に?」
いつもは、例の問題用紙を黙って渡してくるだけの六連が、珍しく話しかけてきたと思ったら。あまりに唐突なその内容に、凛太郎は困惑の声を上げたのだった。それは、凛太郎にしては珍しいことで、どこか遠くで感心する自身を、首を振って振り払わなければならなかった。
けれど、見上げた六連の表情は真剣で、凛太郎は小さく溜息を吐いて肩を竦めた。
「ま。別にいいですけど」
「君ならそう言ってくれると思っていましたよ」
曰く。一年生二人の勉強会に、付き合ってほしい、とのことだ。それ自体はまあ、別に構わない。今日、部活はオフのうえ、べつに課題に切羽詰まっているわけでもない――要するに、暇なのだ。
そこでふと、凛太郎は悪戯心にかられた。ちょっとした意地悪と、そして、ある種の願いを込めて、口を開いた。
「いいですけど、条件があります」
「え……?」
「この問題、あと五問くださいよ。それから、出題者に会わせてください」
そう告げた瞬間、六連が大きく目を見開いて固まった。あまりに珍しいその変化に、凛太郎は内心でほくそ笑んだ。やはり、自分の予想は当たっていたようだ。かつてこの問題を六連に渡したという彼の後輩は――。
「どうして、……皆……逃げさせてくれないんだ」
「それは、貴方が逃げたくないと、解っているからでしょう」
それは、六連の敗北宣言だった。
*
「と、いうわけで。勉強会、始めましょうか」
「はーい」
放課後。そんな六連の言葉で、勉強会は始まった。――どういうわけだよ、などと突っ込む人間は、この場にはいない。この場にいるのは、六連、流風と慎悟。そして、何故か財前もいる。首を傾げた流風は、六連に視線を投げた。ぱちり、と目が合い、頷き一つ。
「流風さんも課題、やりましょうか」
結論から言うと、財前の先生役は、非常にハマり役だったといえる。自身の課題に取り組みながら、ちらりと二人の姿に視線をやった流風は、驚きに目を見開いたのだった。財前は、慎悟が考えるのを、急かすでもなく待っている。慎悟は、そんな先生に見守られ、時には助け舟を出されながら、ゆっくりと確実に課題を進めていた。
「流風さん。手が止まっていますよ」
「え、あっ。は、はい」
ぼーっとしていたのを六連に指摘され、流風は慌てて自身の課題に戻った。あんなにたくさんあった課題も、いつの間にかあと少しだ。この時間は、流風にとっても有意義な時間だった。
そして何より、慎悟が嬉しそうなのが――。
「本当に、よかったです」
「はい。慎悟がやめるなんて、ダメ、です」
心から安堵の色を浮かべている六連に、流風も微笑んだ。
*
「どう? ちょっとは、解ったでしょ」
「はい!」
財前の問いかけに、慎悟は勢いよく頷いた。財前は、今までの先生たちとは違い、慎悟が理解するまで、ゆっくりと待ってくれている。最初はいつ呆れられるのかとびくびくしていた慎悟だが、ゆっくりと見守る構えを見せた財前に、いつしか安心してじっくり課題に取り組むことができていた。
「ほかの人がどう言うかは知らないけど。俺は、べつにゆっくり考えたらいいと思うよ」
「でも……」
「大丈夫。俺からしたら、大体皆ゆっくりだし」
財前の言葉は、慎悟には、新鮮だった。今まで、そんなことを言ってくれる人はいなかった。恐る恐る周りを見回すと、流風と六連が、笑みを浮かべて頷いた。
――――考えても、いい……んだ。
慎悟は、嬉しくなって、次の問題に取り組んだ。相変わらずすぐには答えが解らないけれど、もう、怖くはなかった。じっと問題を見つめていると、なんとなく、解き方が解る――気がした。そして――。
「できた!!」
「ん。よくできました」
頷いた財前にぱっと笑いかけて、慎悟はもう一度問題集に向かい合った。
*
「やめ」
「ぜ……全然できなかった……」
板宮の声で問題を解く手を止めた慎悟は、ガタガタと震えた。あれだけ皆と一緒に勉強してきたけれど、やっぱり自分はダメなのか。
無情にも回収された解答用紙を眺めて、慎悟は俯いた。板宮が走らせる採点のペンの音が、死刑宣告のように慎悟に迫ってくるようだった。やがて――。
「相変わらずの赤点、だな。城」
「うぅ……」
「だがな。……努力の跡は見える」
「えっ?」
ここも、ここも。あと少しで正解だろう。そういって、板宮は慎悟の解答用紙をかざして見せた。見せられた紙には、赤ペンで答えのヒントが書き込まれていた。
「もう一度、解いてみろ」
「……。……、……! 解ける……!」
「……もとより、お前が今回、急激に伸びるなど、思っていない。勉強はそんなに甘くはないし、仮に急に伸びるとして、それには下地がいる」
板宮の言葉の意図がわからず、慎悟は困惑して首を傾げた。
「だが、お前は今まで諦めていただろう。もっとも、そうさせてしまっている環境も問題だが」
「つ……つまり、……?」
諦めていた。そう、図星を指された慎悟は眉を下げて頷いた。けれど、続いた言葉には、思ったようなマイナスの響きはない。その事に拍子抜けした慎悟は、恐る恐る続きを促した。
「次の期末は、まず赤点を取らないように頑張りなさい」
「っ、はい!!」
まだ、部活を続けてもいいんだ。その事実は、慎悟の胸を躍らせた。それに、これからは。テストも今までのようには怖くない。
慎悟は、板宮にお礼を告げて、廊下を走る。背中から、危ないから走るな、という板宮の声が追いかけてきたが、慎悟の耳には届かなかった。今は、少しでも早く、慎悟に勉強は怖くないと思わせてくれた皆に、結果を報告しなければならない。そして、この感謝を、どうやって伝えようか。慎悟の頭には、そればかりが巡った。




