15.はじめの一歩(天恵9年5月中旬)
「お疲れ様です、流風さん」
「せ、先生……」
「頑張りましたね」
膝に手をついて荒い息を零した流風を、六連が穏やかに出迎えた。やっとの思いで見上げたその顔には、確かな喜色が浮かんでいて、流風はへとへとながらに嬉しくなったのだった。
*
江間と六連の二度目の勝負があった、その翌週。蒼桜高校陸上競技部の面々は、高校総体の地区大会に臨んでいた。
今回、五千メートルに出場した流風は、ダウンを終えてベンチへと戻ったところだ。ベンチには、六連のほか、出番を終えた部員たち、出番を控えた選手たちがトラックを見つめていた。
「お疲れ、流風。速くなったよね!」
「そ、そうかな……?」
流風の姿を見つけた慎悟が、嬉しそうに手を振ってきた。まるで自分のことのように喜んでくれる慎悟の言葉が、どこか照れくさくも嬉しい。確かに、四月の記録会よりも、少しは走れるようになっている――気がする。他校の選手たちの背中は、まだまだ遠いけれど。
同じく五千メートルに出場したのは、八須と財前だ。二人とも、流風よりも、そして、たくさんの他校の選手たちよりも速くゴールしていた。それでも、県大会へは出られないというのだから、壁は恐ろしく高いようだ。
「あ! そろそろ千五百メートル、始まるよ!」
慎悟の声に、トラックへと視線を向けると、スタート地点に並んでいる選手たちが、流風の視界に飛び込んできた。
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「いつぶりかな」
「知らねーよ」
「ったくも~。相変わらず、つれないなぁ」
並んだスタートライン。隣で嬉々として話しかけてくる佳人に素気無い返事を投げながら、恭輔はレース前の高揚感に身を任せていた。このかつてのチームメイトにも、恭輔の感情は伝わっているらしい。唇を尖らせながらも、喜びの交じった声色に、恭輔は肩を竦めた。
佳人に相対して、もはやマイナスの感情は欠片も湧かないことに、恭輔は驚いていた。どうやら本当に、いつの間にやら吹っ切れていたらしい。そして、そうさせたのは、あの六連との勝負だ、ということを、もう認めざるを得ないだろう。
「感謝するしかねぇよな、これは」
「え~? どしたの、恭ちゃん」
「なんでもねぇよ。……待たせて、悪かった」
「!! ……うん!」
恭輔の謝罪に、佳人が目を見開いて、そして酷く嬉しそうに破顔した。もっと早く、こうしていればよかったのかもしれない。変な意地や、プライドや、いろいろなものが邪魔をして、いつしか踏み出せなくなった道。この道の先は、明るく輝いているのだと、今になって気付いた。
コールがかかり、乾いた音が、空気を揺らした。その瞬間、一斉に飛び出していく選手たち。恭輔も負けじと、地を蹴った。
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「お疲れ」
「……おう」
肩で息をして、ぐったりと地面に座り込んでいる恭輔に、颯太は短く声をかけた。ぶっきらぼうな返事の中に、確かな興奮と焦熱を感じ取った颯太は、これでこそ恭輔だ、と思った。恭輔の隣で楽しそうに笑っている芳賀も、きっと同じ思いなのだろう。
二年間のツケは、まだまだ大きいようだが。それでも、県大会への切符を掴んだこの同期は、やはり才能がある、ということなのだろう。
「次はお前、だろ」
「当然。誰かさんとは違うさ」
素直ではない恭輔の応援に、からりと笑って、颯太はジャージを脱いだ。こんな見栄を張っておいて、負けるわけにはいかないだろう。程よいプレッシャーに、にやりと笑んだその時、四百メートルのコールがかかった。
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筋肉が千切れるかのように痛む感覚も、乳酸が巡る痺れるような感覚も、颯太はいっとう好きだった。隣でへたり込んでいる、後輩・進藤努武へと視線を走らせる。
「やっぱ、颯太さん……すごいんですけど……」
「何言ってる。お前だって県いけるだろ」
今回、二人そろって出場したこの四百メートル決勝。そして、晴れて二人とも県大会への出場切符を掴んだのだ。
昨年、颯太に憧れていると言って、入部してきたこの後輩は、一年間でかなりの実力をつけた。眩しい程の憧憬も、それで終わらせないひたむきさも、颯太にとって好ましいものだ。
「何言ってるんです。まだまだ、颯太さんにはほど遠いです」
「はは、本当に楽しみだね、お前は」
走り終えたばかりだというのに、メラメラと闘志を燃やしている頼もしい後輩に、颯太は笑った。
こうして後ろを追いかけてきてくれるというのは、嬉しい。だが。努武は決して首を縦に振らないけれど、本当は。
――――お前は、もう少し長い距離の方が、伸びると思うぜ。
*
パァン!
スターターピストルの音が鳴り響き、慎悟のレースが始まった。今日の慎悟の出番は、男子八百メートル。先ほど行われた予選を何とか通過して、今行われている決勝で、慎悟は走っていた。
――――おれもやるよ! だって、皆、凄かった!!
恭輔も、颯太も、努武も。県大会への切符を掴んだ。それに、ほかの先輩たちだって、凄くかっこよかった。そして、なんといっても、流風だ。初めての五千メートル、きっちりしっかり走り切って、浮かべていたあの嬉しそうな表情。
「おれも!」
八百メートルは、トラックをたったの二周。あっという間に、気付けばレースはあと二百メートルだ。必死に腕を振って、身体を前へと運ぶ。あと一人だ。あと一人抜けば、自分も――。
*
「凄い、慎悟……!」
最後の最後。あと数メートルでゴールというところで、慎悟が一人を抜かして、県大会の出場権を掴んだのだ。途端に沸くベンチの雰囲気に負けじと、流風も大きく拍手をした。
入部して、初めての公式戦。勝てば上につながるこの大会で、蒼桜の立ち位置と、他校のレベルの高さを知った。練習をしていけば、あの選手たちと、競り合えるようになるのだろうか。そして、いつかそうなったとき――その時はきっと、今よりも楽しい景色が見えるのだろう。瞳に焔を燃やして競り合う彼らを見ていて、流風はそう思った。




