11.夜の落とした波紋(天恵9年4月下旬)
「もうすぐ始まるね」
「江間先輩、二本も走るなんて……凄い……」
「大丈夫、君も走れるようになりますよ――慎悟くん」
「……なんか、笑みが黒く見えるのは、俺だけか?」
トラックには、男子五千メートルに出場する選手たちが並んでいる。流風は、新たな勝負の始まりの気配に、胸を躍らせて呟いた。
蒼桜高校からは、八須と財前のほか、先ほど流風たちと共に千五百メートルを走った江間も出場するのだ。心底そう思う、といった様子で慎悟が呟けば、すかさず六連が笑った。その笑みに、近くに立っていた風祭が顔を顰めている。
「変わらんな、お前は……」
「夜さん! 貴方もお代わりないようで」
そんな会話をしていた流風たちのところへ、聞き覚えのない声が割り込んできた。驚いて振り返ると、先ほどの千五百メートルの際に恭輔の元へとやってきた彼と同じジャージ――常翔高校のチームジャージに身を包んだ長身の青年が立っていた。六連と目線が同じ――とても背が高く、そして、同じように走るのが速そうな体型だった。
六連は、どこか親しげにその名前を呼んだ。対する青年は、呆れたように肩を竦めるのみだ。一体、どんな関係なのだろうか――そんな流風の疑問は、即座に解決した。
「えーと、こちらは常翔高校の監督――」
「清崎夜です。よろしく」
「よ、よろしくお願いします!!」
「――そうか、清崎さんも、極北大……」
疑問符を飛ばしている流風たちの方を向いて、六連は苦笑した。六連の言葉を引き取って、清崎が自己紹介をする。彼が頭を下げたので、流風も慌てて頭を下げた。
清崎の登場に驚いていなかった風祭が、一人納得したように呟いた。三年生の彼は、清崎が常翔高校の監督だと知っていたのだろう。
「ん? よく知っているな。ウチの奴らから聞いたのか」
「まあ僕は他大から極北の院に進学したので、夜さんが部に在籍していた時のことは知らないのですが」
清崎は六連の二学年上になるとのこと。清崎も院まで進んだが、六連とはちょうど入れ違いだった、と、少し残念そうに六連が説明してくれた。と、いうことは。清崎も、まだ二十五歳くらい――どおりで若いはずだ。
「そろそろだぞ」
六連の説明に再度肩を竦めた清崎が、トラックの方を向いてそう告げた途端――スターターピストルの音が、場内に鳴り響いた。
流風は、目の前で始まったレースに、意識を集中させた。
*
「全く……。長野に来るなら、連絡くらい寄越してもいいだろう、水臭いな」
「それは……すみません」
呆れたような夜の言葉に、昴は眉を下げてただ謝罪した。夜が自身の母校・常翔高校の監督に就いていたことは、二年前、極北で会ったときに聞いていた。短くも、浅からぬ仲――それでも連絡をしなかったのは、単純にこちらの事情だ。
溜息を吐いた夜には、そんな昴の考えにさえ、気付いているのだろう。なんといっても、この先輩の勘の良さは、あの久蓮のお墨付きなのだ。
「別に、気にすることなどないだろうに」
「……」
「まあ、元気そうで良かったよ。そのうち、あいつにも連絡してやれ」
ため息混じりの夜の言葉に、今度肩を竦める羽目になったのは昴の方だった。本当に、先輩の姿というのは、いつまで経っても大きいものだな、と苦笑を零す。
「流石のハイレベル、ですね」
「まあ、全部伯耆原監督の手腕だよ。お前も、初っ端から随分暴れているようだな? さっき、芳賀が嬉しそうに報告してきたぞ」
「おや」
伯耆原毅。それは、夜の前任の常翔高校陸上部の監督で、夜の恩師でもある。そして、今は同じ長野県の古豪・栄鵬高校に赴任した。事実、栄鵬高校陸上部はこの二年間で着々とレベルを上げており、伯耆原の手腕が窺えるというものだ。とはいえ、夜率いる常翔高校も、伯耆原が離任して二年経っても、変わらず王者の風格だ。夜も指導者として、相当優秀なのだろう。
そして、昴としては、別に暴れたつもりはないのだが。あの勝負だけで恭輔の心が前向きになったというのなら、それは恭輔の元々の強さに他ならない。
目の前で、初戦にしては好記録をマークしている部員たちを見て、昴は微笑んだ。
「ま、どうして蓮介さんが蒼桜にお前を推薦したのか、解った気がするよ」
「――え?」
「またな、昴」
頬に視線を感じた直後に、ぽつりと呟かれた言葉。その真意が読めなかった昴は聞き返したが、夜はひらひらと手を振っただけだった。踵を返した先輩の背中を見送って、昴は首を傾げた。
丁度席が空いた――それ以外に、理由などあるのだろうか?
*
「流石のハイレベル、ですね」
「まあ、全部伯耆原監督の手腕だよ。お前も、初っ端から随分暴れているようだな? さっき、芳賀が嬉しそうに報告してきたぞ」
「おや」
レースを眺めながらに交わされる、監督二人の会話を流して聞きながら、颯太は、走る恭輔を見つめていた。今まで練習に真剣に取り組んでいなかったツケが祟って、そのペースは然程良くはないけれど。前を追うその瞳には、潰えて久しかった強い光が宿っていたから。
恭輔のその変化には、間違いなくこの顧問との勝負が関わっている。その根底には、恭輔に走りたいという気持ちがあったとしても、燻っていたそれに気づき、再び燃え上がらせたのは、間違いなく六連なのだ。
――――自身の身を危険に晒してまで。
何が六連を、そこまで駆り立てるのか。颯太には、皆目見当がつかなかった。当然だ。颯太は、六連と出会ったばかり――彼の実際を、露ほども知らないのだから。レースを真剣に見つめる横顔を見つめていると、その奥――清崎と目が合った。眉を下げて微笑まれて、颯太は目を見開いた。
選手たちが、続々とゴールしている。タイムは、皆悪くはない。そんな彼らを微笑みと共に見つめる六連は、確かに部員たちを大切に想ってくれているらしかった。
「ま、どうして蓮介さんが蒼桜にお前を推薦したのか、解った気がするよ」
「――え?」
「またな、昴」
去っていく清崎と、首を傾げながらにその姿を見送る六連。
颯太は、その言葉に、二重の意味で驚いた。一つは、六連を蒼桜高校に推薦したのは、蓮介、という人物だということ。陸上、蒼桜、蓮介――これだけキーワードが揃って、颯太の勘違いということはないだろう。つまりは、六連を蒼桜高校の監督に推薦したのは、かつて蒼桜高校を全国高校駅伝優勝に導いた伝説の主将――雪沢蓮介であるらしかった。
そしてもう一つ。雪沢が六連を推薦したのには、理由がある、ということ。それは、チームが強くなるというような理由ではなく、何かもっと別の――六連の中にある何かに起因しているのではないだろうか。
「凄いねぇ、皆……」
「おれもすぐに追いつくよ!」
突然、一年生たちの明るい声が、颯太の思考に割り込んできた。そのおかげで颯太は、この間の――喘息の発作を起こして酷く苦しそうな六連の影を、振り払うことができたのだ。
颯太はほっと息を吐くと、彼らに声をかけるために振り返った。
*
「凄いねぇ、皆……」
「おれもすぐに追いつくよ!」
レースを終えた皆の姿を眺めながら、流風はしみじみと呟いた。次いで、勢いよく、慎悟が言った。きらきらと瞳を輝かせた彼を見ていると、自分も頑張ろう、と、気持ちが上向きになる。
「その意気さ、慎悟。――これで変わるといいな。中長パートも」
慎悟の言葉に、にぱっと明るい笑みを見せ、風祭が言った。変わる――と言ったその真意を、流風はわからないけれど。この一週間と少し、パート内の雰囲気は悪くなかった。入部初日の不安は、今は微塵も感じない。だから、きっと大丈夫だ。
――――ボクも、もっと、皆と走れるようになりたい!
あのとき、引き返さなくてよかった。引き返していたら、今、こうして皆と一緒に走る自分はいなかったのだから。
流風は、早くも次の練習が楽しみになっていた。




