10.広がる臙脂色(天恵9年4月下旬)
「う、わぁー……」
開けた視界に、臙脂色が勢いよく飛び込んできて、流風は思わず感嘆の声を零した。その反応に、帯同していた六連がくすりと笑った。しょうがないだろう。人生初めての光景なのだから。
今日は、ここ、運動公園陸上競技場で、記録会が行われるのだ。県の北部地区に籍を置く陸上選手たちが参加するというこの記録会は、朝早くから大勢の選手と関係者で賑わっていた。
「流風、緊張してるー?」
「そりゃ、ねえ……! なんか僕……すごく場違いじゃない?」
「大丈夫! 心配しなくたってさ、誰にだって初めてはあるよ!」
瞳を覗き込んできた慎悟に、流風は恐る恐る返事をした。周りを見回してみると、アップにだろうか、駆け抜けている選手たちは、誰も彼も綺麗なフォームで身軽に走っている。明らかに"練習を積んできました"、という雰囲気を醸し出している。それに比べて自分は――。
慎悟は、そんな流風の弱気を笑い飛ばしてそう言った。なんだか、背中を押された気分だった。
「よし! こんなもんでしょ!」
先輩たちに教えてもらいながら、新入生たちでベンチの位置取りをした。今回蒼桜高校は、芝生にブルーシートを敷いて、バックストレート側に陣取った。
パン! と、準備を終えて一息吐いた流風の耳に、ピストルの乾いた音が響いた。どうやら、今日の最初の種目――百メートルが始まったらしい。トラックの向こう側で、ものすごいスピードで駆け抜ける選手たちに、流風は目を丸くした。
*
ピリピリと背筋に走る緊張をなんとか堪えながら、流風はアップを済ませて荷物をまとめていた。流風は今日これから、男子千五百メートルに出場する。蒼桜高校からは、流風の他に、慎悟と江間が走る予定になっていた。
流風は、慎悟に教えてらいながら、"召集所"へと足を運んだ。ここでゼッケンを確認してもらい、"腰ゼッケン"を受け取るのだという。この腰ゼッケンを、右腰につけて走るのだそうだ。
「楽しみだね!!」
「……君は元気だね、慎悟」
「だって、久々のレースだもん」
朝よりもテンションが上がっている慎悟に、流風は緊張混じりに眉を下げた。けれど、慎悟はきらきらと顔を輝かせるばかりだ。そんな彼を見ていると、自分にも力が沸き上がってくるようだった。
「お前、初めてだろ? ま、気負わずやればいいんじゃねぇの」
「――っ、はい!」
「お前なぁ……。別に取って食やしねーよ」
次いで声をかけてきた江間に、流風は驚いて声を上げた。そんな流風の反応に溜息を吐いた江間だが、流風としては、江間がそんな優しいアドバイスをくれるなど、驚きだ。この間の勝負から、江間は少し丸くなったのかもしれない。
けらけらと笑う慎悟の声が響く場に、一つの気配が近づいてきた。蒼桜と同じ紺地に、抜けるようなスカイブルーと白のラインが目を惹くチームジャージ。今日、会場のあちこちで見かけた気がする。
「調子良さそうだね? 恭ちゃん」
「うるせぇよ」
「あはは!」
その青年が江間に声をかけると、江間はじろりと彼を睨んだ。青年は、からからと笑っている。仲良さげ――と言ったら、きっと江間は怒るだろうけれど――に話す二人を見て、流風は慎悟と顔を見合わせて笑った。
もうすぐ、レースが始まる――。
*
初心者の癖に、いっちょ前に固くなっている鳴無に、恭輔は声をかけた。初めてのレースなのだから、まずはレースがどういうものかを知る――そのくらいの心積もりでいいだろうに。
恭輔に怯えた様子の鳴無、という図に笑い転げている城を睨んでいると、旧く聞き知った声が聞こえてきた。
「調子良さそうだね? 恭ちゃん」
「うるせぇよ」
「あはは!」
芳賀佳人。小学校時代に同じクラブチームで競い合っていた、恭輔のライバルだ。別々の学校に進んだ中学時代、その実力差はすっかりと開いてしまったが。そんな佳人は今、長野の王者・常翔高校の主将でエースだ。
こちらの調子を決めてかかってくる佳人に、恭輔は素気なく答えた。佳人は相変わらず、こちらの塩対応などお構いなしだ。底抜けにこの明るい性格を好ましく思えたのは、中学まで――実力が拮抗していた頃までだ。その後は、ずっと恭輔を惨めにするばかりで――。
――――あれ……?
「ま、楽しもうよ、恭ちゃん!」
「……」
纏わりついてくる佳人をあしらいながら、恭輔は目を見開いた。相変わらずうるさい奴だと思いはしたが、今、恭輔は佳人に対して、さほど悪感情を抱いていないのだ。前は顔を見るだけで、暗い苛立ちが募っていたのに。
いつもと違う恭輔の反応に、佳人は大きく目を瞪ると、大きく笑みを浮かべ、自身のチームメイトの方へと戻っていった。
「これも……あいつのせい、なのか……?」
その背を見送って、恭輔はぽつりと呟いた。今は、佳人の才能に惨めさを感じるよりも、うちの顧問の鼻を明かしてやりたい気持ちで一杯だから。こんな感情を抱くのも、六連の思惑通りなのだとしたら、もう笑うしかない――あのしたり顔を見ていると、そんな思いが浮かぶけれど。それでも、高校生活で一番、純粋な気持ちで走っている今――というのもまた、事実なのだ。
コールがかかり、続々とスタートラインに向かう選手たちに混じって、恭輔も歩き出した。
「On your mark――」
スターターの声が、鼓膜を揺らした。スタートの構えを取って、恭輔は、コースの先をしっかりと見つめた。
*
たかが千五百メートル、されど千五百メートル。流風は、前を走る色とりどりのユニフォームたちを見つめながら、そんな空事を浮かべていた。
ピストルの音と共に始まった、流風のレース。一斉にスタートする選手たちのペースは速く、一瞬で流風は独りになってしまった。なんとか追いつこうと腕を振ってみるけれど、その差はぐんぐんと開くばかりだ。
「皆、すごくない……!?」
「流風さん、自分のペースで!」
――――先生……!
唖然と呟いた流風の背を、六連の声が押した。大きく息を吐いて、新しい空気を吸い込むと、視界が開けた気がした。
四周と四分の三。たったそれだけのレースは、あっという間にラスト一周となった。カランカランと鐘が鳴る。しんどい。息が切れて、身体が動かない。
ホームストレート、ゴールまであと百メートル。ゴールに待つ慎悟の姿が見えた。水越の、ラスト、という声が聞こえて、スピードを上げた。そうして、流風は、ゴールラインを駆け抜けた。




