8.六連昴の事情(天恵9年4月中旬)
懐かしい感覚に、血が沸き立つ。己の脚が地面を強く蹴り、風を切り裂いて進む。昴を打ち負かそうと意気込む、誰かの息遣いを、身近に感じる。恭輔の前を走りながら、昴は自然と上がる口角を押さえきれなかった。
――――ああ、やはり、俺は――。
誰かと競い合って走るのは、本当に久しぶりだった。あの頃と比べれば、そう大したペースでもないのに――こんなにも、興奮が全身を駆け巡ることに、昴は苦笑した。どれだけ諦めたつもりでいようとも、結局自分は、あの煌めきから逃れられないということなのだろう。
最後に誰かと走ったのは、昴の大学院卒業間際――追い出しコンパと称して、極大陸上部の全員とタイムトライアルをしたときのことだ。その時にはもう、それまでよりもさらに、思うようには走れなくなっていたけれど。それでも、楽しい――そして、代え難い思い出だ。だが、今の自分は、それらにしがみついているようで――。
――――全く……未練がましいことだ。あいつには、格好つけておいて、これだ。
零れ出た自嘲の笑みを誤魔化すように、昴はちらりと後ろを流し見た。今、共に走るのは、あいつでも、彼らでもない。可愛く若い江間恭輔だ。
まだ、四百メートルしか走っていないのに、不自然に上がる呼吸、引き攣れた音を漏らす気管支――もう、慣れたものだ。後ろを走る恭輔に、不調を悟られないように、昴は敢えて挑発の笑みを浮かべた。
「っ、くそ……。――?!」
面白いようにその挑発に乗っかる恭輔の若さを羨ましく思いながら、昴は、ちりりと闘志が燃えるのを感じた。恭輔の瞳に揺れる、微かだが確かな焔を見たからだ。やはり間違っていなかった。恭輔は――。
――――負けて、いられません……っ!
この勝負、負けるわけにはいかないのだ。まあ、いくら昴が、かつてのようには走れなくなっているとはいえ。今までその才能を腐らせてきたこの青年に、負ける気など更々ないが。
この一週間、恭輔を見ていて思ったのは、ただこの青年は、走りたいのだということだ。間違いなく、才能はある。元々は、そこそこの位置で走っていたであろう恭輔は、どうしてか今、才能を磨き続けることをやめてしまっている。それでも、恭輔はまだ、競技を続けている。打ちのめされても逃れられない。その姿は、少し自分のようだと、昴は思ったのだ。
「だから……俺は、」
昴は、小さく呟いた。何があったのかは、知らない。けれど、心の底の渇望を燻らせたこの青年は、まだ腐りきっていない。恭輔が走りたいと望むのならば、昴はそれを叶えてやりたいと思う。
走りたいと望むものならば、見てみぬ振りは出来ない焦熱を、全身に纏わせて。昴は恭輔の前を走った。
*
たった千五百メートル。レースは、瞬く間に残り四百メートルとなった。恭輔の気配を背中に感じながら、恭輔の走り易いリズムを心がけて、昴は走り続けていた。
相変わらず、呼吸は不自然に乱れ、酸欠で視界が暗くなり始めた。情けない自身の身体に舌打ちしたい気持ちを抑えて、昴は口を開いた。
「……こんな、っ、程度ですか……?」
「な、わけ……ねぇっ!!」
ちらりと視線を投げて、挑発する。かっとなった恭輔が、ぐっ、と、一気にスピードを上げてきた。一気に突き放す――そんな気概を感じる。
「な、……んで!?」
「そう簡単に、っ、離れません……!」
昴を引き離せなかったことに、恭輔は驚きの声を上げている。答えた声が、詰まってしまった。それを気取られたか否か――定かではない。
恭輔のスパートを利用して、反対に突き放す。徐々に背後に遠ざかる気配を感じながら、昴は必死にゴールを目指した。
――――耐えろ……! もう少し……。
「……っ、僕の、勝ちですね」
「……くそ……」
「……ゲホッ、っ、約束は、守ってもらいますよ……っ、」
ぜいぜい、と零れる喘鳴を抑えて、昴は言葉を紡いだ。時折咳込んでしまうのを抑えられない。視界が狭まって、辺りが暗くなってきた。これは、本格的に、不味い――。
最低限の声をかけ、昴は踵を返し、監督室へと急いだ。情けなく倒れる姿を、生徒たちに見せるわけにはいかなかった。監督室なら、中の音はそうそう聞こえないだろうから。
*
「っ、――ゲホゲホッ、っ、ぜ、ひゅっ、――っ、はっ……」
監督室へと駆け込んで、扉を閉めると、もう駄目だった。昴はその場でがくりと膝を折って、床へと倒れ込み、酷く咳き込んだ。人の目を逃れたことで気が緩み、気管支がひゅうひゅうと嫌な音を立てている。
――――薬を、――。
自身の荷物の方へと手を伸ばした昴は、けれどそれを手にすることなく、意識を手離した。暗闇の中に落ちる直前、自身の名を呼ぶ誰かの声が、聞こえた気がした――。
*
レースの結末を、颯太はただ呆然と見届けた。その勝負は、圧倒的だった。それ程までに、六連の実力は目を瞪るものだった。いや、今目の前で繰り広げられたこれは、そもそもまだ六連の本領ではないだろう。
だが、苦しそうに咳き込んだ六連が、言葉少なに監督室へと駆け込んだとき、颯太は、はっとしてその背を追った。とても嫌な予感が、した。
「――っ!? …… 昴さん!?」
ノックもせず、監督室に入った颯太は、悲鳴にも似た声を上げた。六連が、部屋の床に倒れ伏していたからだ。慌てて駆け寄って揺さぶるが、反応は全く返ってこない――完全に、気を失っていた。先程までは、あんなにも速く、力強く走っていたのに――今、六連は真っ青な顔で力無く横たわっている。
颯太は目の前の光景が信じられず、茫然とした。何か異常なことが起きている、その事実に、身体が震える。
――――っ、だって、昴さん……。息、……してない……!
「昴! おい! ……チッ、遅かったか……。颯太、ちょっといいか?」
「丹波、先生……? ……どう、して……?」
「悪ぃ、話は後だ!」
そのとき、勢いよく、体育担当の丹羽雄翔が駆け込んできた。驚いて動けもしない颯太を尻目に、丹羽は、意識を飛ばしている六連の様子を確認した。そして、六連の荷物を探ると、吸入器を手に、手際よく処置をしていく。
ややして。六連が身動ぎをし、ゆっくりと灰緑植の瞳が顔を覗かせた。六連は、咳込んで、数度視線を彷徨わせると、掠れた声で問いかけた。
「っ、ゲホゲホッ! ……ぅ、……っ……。……あ、……。……どう、して……貴方が?」
「どうして、じゃねぇよ、馬鹿やろう! なに死にかけてるんだ」
「あー……」
状況が分かっているのか否か――そんな様子の六連に、丹羽が声を荒げた。六連の胸倉を掴んで揺さぶると、六連は気まずそうに視線を逸らした。丹羽は、そんな六連を見ると、呆れたように溜息を吐いて、言葉を続けた。
「生徒たちに心配かけたくないのはまあ、解るがな……昴。こいつらは、お前が思うほど子供じゃねぇぞ?」
「――! 颯太さん! ……解っていた、つもりだったのですが……」
「それとも、耐えきる算段だったか? だから、千五百メートルだったんだろ?」
「……」
丹羽が、こちらを向いて、六連を諭している。六連は、その言葉にこちらへ視線を走らせ、そして目を見開いた。見つかってしまった――そんな苦笑が浮かぶ。
颯太は、俄かには言葉が見つからなかった。こちらを見つめる六連の顔色は、未だに青褪めていて、そのダメージの深さを物語っていた。
「これが、……理由だったんですね」
「ええ。……運動誘発性喘息。だから僕は、もう最前線を走ることは……出来ません」
「……」
だから、教師だったのだ。本当ならば、今頃実教団で最前線を走っているべき天才――二年前、極北大の院に進んでいたと知った時も、颯太は驚いたものだが。それもきっと、同じ理由なのだろう。そして、同時に、颯太は確信した。六連は、そのことにまだ、折り合いをつけられていない――。
「なんで、今日……」
「君も気付いているでしょうに。恭輔さんが走りたがっていたからですよ」
問いかけた颯太に、六連はあっさりと答えた。身体に大きな負荷がかかるというのに、自身の心に素直になれない一生徒の為だけに、そこまでするのか――。
颯太は言葉を失って、目の前の教師を唖然と見つめる他なかった。
「僕も、走りたかっただけですよ。――喘息のこと、皆さんには内緒にしてくださいね」
「……馬鹿だろ、お前」
苦笑してそんなことを言ってきた六連に、呆れたように丹羽が突っ込んだ声が、狭い監督室に、いやに大きく響いた。




