0.新たな旅路(天恵8年2月上旬)
――――路は一つではない。
そんな簡単なことを、理解した気になっていただけだと気付いたのは、このときだ。結局自分は、逃れられないのだと、気付いたのも。
俺はあの時、確かに満足して、そして区切りをつけた。それなのに――。
自分の中にぽっかりと空いてしまった大きな空洞を、満たす何かを探して、俺は今日も、深雪降るこの極北の大地を歩んでいた――。
*
なんて馬鹿な奴だろうか。――なんて口に出したら、この研究室の誰もが、目を剥いて反論してくるだろうが。
荒牧美里は、頬杖をつきながら、学生実験をTAとして教える自身の教え子――六連昴の姿を見つめていた。
物腰柔らかく、丁寧に教えるこの青年の評判が、学生たちの間で抜群に良いのだということを、美里は方々から伝え聞いていた。実験に直接関係ないような内容――ともすれば他の講義の課題についての質問にもすらすらと答えるのだから、当然の評価か。
自身の研究室の中でも頗る優秀なこの青年は、今年度、青谷学院大学からこの極北大学 生命科学院へと進学してきた異色の修士一年生だ。熱心な彼は、この一年弱で、早くも論文を一本出している。
結局、優秀なのだ。この青年は。研究者としての才能も、他人に物事を教える才能も、十分すぎるほどに併せ持っているのだから。
それでも、穏やかなその笑顔の裏で、時折見せる思い詰めたような諦念に、一日のうちの殆どを共に過ごしている美里が気付かないはずがなかった。
「チッ……面倒くせぇ……」
こんな気遣いは、本来自分の仕事ではないはずなのだが。それでも、こうして気になってしまうのだから仕方がない。自分さえよければそれでよかった、昔の自分に笑われそうだ。
学生たちに聞こえないように小さく悪態を吐くと、美里は煙草を吹かすために喫煙室へと向かった。
*
「なぁ、昴。お前、研究楽しいか?」
自身の担当教員の荒牧美里にそんな声をかけられたのは、解析の待ち時間に論文雑誌を読んでいた時のことだった。もう、夜も遅い時間帯だ。研究室には自身と美里の二人以外残っていなかった。そんなことにも、今まで気付かないほど集中していたらしい。そう思い至って、昴は苦笑を零した。
自身を見据える美里の視線は、昴の真意を探ろうと鋭く尖っている。
「どうしたんです、急に。楽しくなければ、こんなにのめり込みませんよ」
「あ、そ。……でもお前、本当は今も陸上に関わってたいんじゃねーのか? ――それがどんな形であれ」
「……」
「いいじゃねえか。職種はいろいろあるだろ?」
告げられた言葉に、昴は絶句した。自分は、そんなに解り易く沈んていたのだろうか。この教授に、悟られる程に。
あの駅伝が終わってから、昴がどこか気落ちしていたのは確かだ。駅伝後、優秀なようで何かと世話の焼けるあの後輩の問題が解決してからも、ずっと。理由は解っている。もう走れない――走らないことに、心の奥底では未練があるからだ。けれど、もう競技を続けるのは身体がもたないのだ。だからこそ――。
「……未練がましいじゃないですか」
ぽつりと零した呟きは、昴が想像した以上に弱々しく、空気を揺らした。それは、まだ、ほかの誰にも――陸上部員たちにも告げたことのない本音だった。
そんな昴に、美里は片眉を跳ね上げると、くつくつと笑った。
「馬鹿だな。そんな奴がいくらいると思ってる。それに、建設的だろうが。監督とか顧問とか、生産性のある仕事だって山ほどあるわけだろ」
――――優秀な研究者が一人ウチから消えるのは残念だけど、な。
そう言って片目を瞑ってみせた美里に、昴は瞠目して固まった。お前の心の赴くままに行け。そう言われたことに気付いたから。
そして、本当は自分がどうしたいか、気付いてしまったから――。
*
あれから、一年と少しの後。
はらり、はらりと舞い散る薄桃色は、風に揺られて、路を白に染めていく。それは、あの極北の銀白とは、似て非なるものだ。
桜舞い散る季節。門をくぐってすぐの桜並木。その中央で足を止めた昴は、ふと上を眺めた。視界一杯に広がる柔らかな花弁と、その向こうに透けて見える青天。
仲間と共に夢を追ったあの季節は、最早遥か遠くに感じる。それでも――。
「うーん……。春ですねぇ」
ここから、新たな夢が始まるのだろう。昴は大きく伸びをして、校舎への道を歩き始めた。




