第10話 旅館開業
温泉旅館で働くか、流浪するか。
それがあの時、アールヴ達に示された選択肢だった。
それまでであれば『流浪』以外の選択肢は無く、彼らはある意味他の道を考える必要の無いまま、必要に迫られて流浪し続けてきていた。
レイシアにしても、決して喜んで『働くべき』と思っていたわけではない。
あのアーディンという男は、かつて妖精狩りにも参加し、レイシアの兄の仇でもある。
本来なら即答で断ってもいいレベルの話だ。
だが。
妖精の森を脱出してからこれまで、獣や魔物と戦いながらの流浪は過酷な旅だった。年月を追うごとに安住の地を求めたい、という声が皆の心の中に膨れ上がってきていたのをレイシアは感じていた。
フレスというらしい、あの男の使い魔は、命を賭けてレイシア達を守ってくれた。
エマというあの無力な人間の少女は、アールヴに対する特別な感情なく、対等に接してくれた。
自分の個人的な感情だけで断るべきではない。
レイシアはそう考えて、その選択肢を皆の前に示すことにしたのだった。
議論は二つに分かれた。
流浪には疲れた派と、アーディンは信用できない派だ。
(皆、疲れてはいるのだ)
議論を見てレイシアは思った。
故郷を追われ、目的地のない旅、人間の目を逃れ続ける旅をつづけることに誰もが疲れていた。
両派は互いに立場を譲らず、結局、意見の合致を見ないまま朝日を臨むことになった。
アールヴにおいて重要な決定は、朝までに結論が出なければ女王に従う、というのがしきたりだ。
それまでどちらにも与せずにいたレイシアの心は決まっていた。
「あの男のオンセンリョカンとやらで働く」
(だが、もし裏切られたときは殺す)
心の中でそう付け加えた。ただ、実際そのような動きに出れば殺されるのはレイシアの方だろう。それも分かっていたから、心の中に留めた。
レイシアはそう決めて、オンセンリョカンで働くこととなったのだった。
その結果。アールヴ達は生まれて初めて働くと言うことについての訓練を受けている。
「おはようございます!」
旅館の正面玄関前に集められたアールヴ達の前で、エマが声を張り上げた。
「オハヨウゴザイマス!」
アールヴ達がエマの後に続いて挨拶の声をはりあげた。
「いらっしゃいませ!」
エマが声を投げる。
「イラッシャイマセ!」
アールヴ達が続く。
「またのお越しをー!」
「マタのオコシをー!」
訓練は宿でよく使う挨拶の練習からはじまる。
もちろん挨拶だけではない。
「シーツはピンと張ること! 引っ張りすぎてもゆるめすぎてもダメなんだからね!」
寝具の整え方。
「おサケのおかわり、いかがデスカー?」
「勧め方が甘いっ。言葉は丁寧にしかし何が何でもおかわりさせる気迫を込めて! 笑顔笑顔、笑顔こそ私たちの弓矢にして槍だと思いなさいっ!」
エマが厳しくダメ出しした。
「わからないです教官、お手本もう一度お願いします!」
「軟弱者!」
と叫んでから、エマはスイッチを入れた。
「お客様?」
エマは鬼からうって変わった優しい微笑みを浮かべた。
「お酒のおかわり、いかがですか? お飲みになります?」
つ、と水の入ったデキャンタを客の目に入れるよう動かす。
「はい」
何人かのアールヴがつい見惚れて返事をしてしまった。
「こうやるのよ。分かったらもう一度!」
エマによる徹底的な訓練は繰り返される。
「そんなんで看板娘コンテストに出場できるとでも思ってるの、宿屋舐めんなー!」
その鬼しごきに、アールヴ達は耐えた。
耐えて耐えて、エマの厳しい採点をくぐり抜け、ようやく合格点に至ったのは訓練が始まって半月が経ってからであった。
「合格。いまやあなたたちは、どこの宿屋に行っても働けるわ。つらい訓練、よく乗り越えたわ……」
最後の試験を終えて、エマは全員の前で涙を流していた。
「教官……」
アールヴ達も涙した。
「もう私は教官じゃない、これからは女将と呼ぶのよ」
「はい女将、ありがとうございました!」
と感動の卒業式をやっているところに、アーディンが空の上から着地してきた。
「エマさん」
「女将」
エマは横目で呼び方を訂正した。
「……女将。教育は終わったか?」
「終わったわ。そっちは?」
「おおよそ揃ったはずだ。あとは回しながら足りない物を足していこうと思う」
「そっか。じゃあ、できあがったんだ」
「あぁ、できた。俺たちの温泉旅館だ」
「宿の名前はどうするの?」
「雉の一鳴も良い屋号だが、俺がつけてもいいだろうか」
エマは微笑んだ。言われるまでもなく、アーディンがどう名付けるつもりなのかは分かっているつもりだ。
「コウラクカン、ね?」
「あぁ、後楽館だ。本物にはまだ及ばないところも多いが、ね」
「及ばないところはこれから伸ばしていきましょう。じゃあ後楽館、本日開店!」
パン、とエマは手を打ち鳴らした。
まだ一人の客もいないし、気にしだしたらきりのないほど問題も山積みだ。
それでもひとまずできた。
最初はとてもできるとは思えなかったが、なんとかなったのだ。残っている問題もなんとかなるだろう。
「金貨1200枚、稼ぐわよー!」
山に向かって叫んだ。数は途方もないが、ここ最近で一番気が楽だった。
「それでさっそくだが女将」
アーディンはここからが本題だ、という顔をしていた。
「何?」
「すぐに客を連れてくるから、用意を頼む」
「はい?」
「少し離れたところだが、なりのいい馬車付きの一団が野盗の類いに襲われているみたいでね、そいつを助けがてら連れ込む」
「つ、連れ込むって」
「野盗の方じゃないから大丈夫だ。人数は全部で15人くらい。食事の方は戻ってから俺が作るから、それ以外のこと頼んだぞ」
そう言って、アーディンは空の上へと飛んでいった。
(いつもいつも急なんだから!)
その姿を見送って、エマは事態をつかめていないアールヴ達に向き直った。
「聞いたでしょ、お客さんよ。部屋と、けが人もいるだろうから手当の用意も」
「は、はい!」
アールヴ達が訓練の成果を示して一斉に動き出した。表にはエマとレイシアが残された。
レイシアには『若女将』をやってもらうのだ。エマとレイシア、二人で見たほうが旅館全体に目がいき届く。
「それで、女将。私たちは?」
「もちろん、戦場にいくの。飲み物、お茶と酒かな、すぐ出せるように準備を整えて、みんなの用意がちゃんとできてるかのチェックと適宜の指示出し」
「分かった。それじゃあ私は部屋の方を見よう」
「じゃあ私が手当とお出迎えの方を」
すんなりと分担が決まった。
「いいこと、レイシア。いきなり全部完璧にしようなんて思わないでね」
「あぁ、分かっている」
「まず今日はひとつだけ、雉の一鳴亭もとい後楽館おもてなしの心得その一」
「慌てた様子は、決してお客様には見せぬこと」
「その通り。さぁがんばろう!」
エマとレイシアは旅館の中へと向かっていった。
そのころアーディンは、既に目当ての一団の上にいた。
明らかに裕福な層が使っていると分かる上等な馬車が停められていて、その周りで戦闘が起こっている。
護衛は14人。
対する野盗は20人。
護衛の方が人数では不利だが、それぞれの腕が良い。お互いにフォローしあいながらよく戦っている。
地面に倒れている者はいない。だが、護衛の方に死者が出るのは時間の問題のように見えた。何人かは既に深い傷を負っている。
魔法で索敵を行ってみても、周囲に他に人間は隠れていない。
それを確認してからアーディンは急降下した。
目指すは馬車の正面の、戦闘の輪の外側だ。
地面に当たる直前に速度をゼロにし、ふわりと着地した。
「馬車を護る者たちよ、助太刀する!」
宣言しながら、アーディンは走った。魔法の異次元収納庫に収められた武器の中から、長い木の棒を選び取りだし、手に取った。
アーディンに気づいた野盗が剣を向けてくる。
アーディンの棒が一瞬かき消え、ごん、と鈍い音だけがした。アーディンが棒を野盗の頭に打ち付けた音である。
打たれた野盗は頭から血を流して倒れた。
アーディンはもう2人、おなじように打ち倒した。
野盗達の注意がアーディンに向いた。
それで形勢は逆転した。護衛達がその動揺の隙を突いて攻勢に出たのだ。
それから野盗達が逃げていくまで1分とかからなかった。
捨て台詞もなく逃げていく野盗を護衛は追わない。もちろんアーディンも追わなかった。
「助かりました」
護衛を率いているらしい男がアーディンに歩み寄ってきた。
「襲われているのが見えたので、助けなければと思いまして。私はアーディン=アルヴィトールといいます。このあたりで宿をやっているものです」
「私はデヴィデト=ルーマニン。しがない護衛屋です」
「腕の良い護衛のようだ。俺の助けがなくても撃退できたかもしれませんね」
「とんでもない。助太刀が無ければ、こちらも被害が出ていたでしょう」
デヴィデトは撃退できただろう事は否定しなかった。
アーディンはチラリと周りを見た。護衛達のほとんどが何らかの傷を負っているようだった。
「怪我をしている者も多いようだ。どうだろう、俺の宿に来ませんか。傷に効く良い薬があります」
「ふむ、私は雇われの身なので決められません。雇い主に聞いてみましょう」
デヴィデトはそう言って、馬車のドアを叩いた。
「野盗は撃退しました。その、助太刀いただいた方から提案があるというのですが」
馬車の窓が開けられて、中年男性の顔が外を窺ってきた。
「……もう危険は無いようだな」
確認して安心したのか、ドアが開いた。
中には二人。いま外を確認した中年の男と少女だ。
中年の男はいかにも裕福な商人という身なりで、少女はその娘くらいの年頃だろうか。商人の方が裕福そうだから愛人という可能性もあるかもしれない。
中年商人はアーディンを見た。
「助太刀してくれたというのは君か」
「はい。アーディン=アルヴィトールと申す者で、近くで宿屋をしております。怪我をしている方も多いようなので、私の所で手当を受けられてはいかがかと」
「ん、む、しかしな……」
商人は言いよどんだ。何か躊躇う理由があるようだった。
「グルジア様、この方が野盗の仲間かと疑いのようでしたら、無駄です。この男は、我々全員が束になっても敵わないほどの腕を持っています」
デヴィデトが助け船を出してくれた。
「そ、それほどか」
「はい、野盗3名を打ち倒す動き、私にも捉えられませんでした」
「そ、そうか。どう思う?」
と商人は中の少女に話を振った。
問われた少女は、デヴィデトに視線をやった。
「デヴィデト様、怪我した方の程度は深いのですか?」
「恥ずかしながら、手当てをしなければ大事に至る可能性もある者がおります」
「お父様、アーディン様のお誘いをお受けしましょう」
少女がそう言うと、商人は明らかにほっとしたようだ。
「そうか、そうだな。護衛に大事があっては気の毒だしな」
(わけありのようだ)
アーディンは判断した。お父様と呼んでいても、父と娘、旦那と愛人というような雰囲気では無かった。この二人、少女の方が立場が上だ。
「ではアーディン殿、ご厚意をお受けしたい。宿屋と言うからには費用がかかるかな?」
「恐縮なことながら、一人一泊あたり大銀貨5枚です」
「よい、護衛達の分も私が払おう。案内してくれるだろうか」
「もちろん」
アーディンは頷いた。16名様ご案内だ。




