第1話 聖騎士引退
後楽館。
500年前から続くという老舗温泉旅館である。
いにしえの武将が隠し湯として愛用したとかいう、古い温泉あるあるの逸話を持った旅館であり、人里離れた山奥にぽつんとある、現代でも隠し湯といっていい立地にある旅館だ。
その後楽館の若女将、山田一美は、後楽館の表玄関をそっと開け、表に出た。
まだ薄暗く、朝露が葉からしたたる時間だ。宿泊客のための朝食の用意を始めている厨房の板前以外に起きている者はいない。
いや、一人いるはずなのだ。いるはずだった。
一美の目は、いつもならそこにいるはずの彼の姿を探したが、その男の姿はない。
この時間には必ず表で武芸の修行に打ち込んでいるはずの男だ。
365日どんな日でも休まなかった。台風が巻き起こす嵐の日も、この地方特有の豪雪の日も、どんな日も。
男の姿の代わりに、木刀が一本、地面に落ちていた。
「帰ったんだ」
一美は直感した。
修行で使う木刀をぞんざいに扱うような男ではなかった。
思えば3年前、彼がここに現れたときも同じように唐突だった。朝起きて玄関を開けると、見慣れない服を着た彼が倒れていたのだ。
ずっと昔の、歴史の授業で使った副教材で見たことのあるような古いスタイルの衣服を纏った青年。怪我こそしてなかったが、ひどく弱っていた。
その彼を一美が旅館の中に運び込んで以来、彼は後楽館に居着いた。
身元は分からない。
当初彼は自分の名前以外何も覚えていなかった。
よく警察を呼ばなかったものだと自分でも思う。一美のみならず、旅館の者の誰もそうしようとしなかったのは、彼の雰囲気がそうさせたのかもしれなかった。明らかにこの時代に生まれ育った者ではなかった。
彼は、ここに来たときと同じように、唐突にここを去った。
一美は寂しさをこらえるように木刀を胸元で握りしめると、空を見上げた。
青灰色の空には雲1つ無い。
一美ははっと思い立って旅館の中に駆け戻り、すぐに出てきた。
手には木刀の代わりに、2つの石のかけら。
一美は石を両手に1つずつ持つと、空に向かって打ち鳴らした。
カチッカチッという小気味いい音と共に火花が散る。
「行ってらっしゃいませ」
一美は頭を下げた。たとえ行ってしまった後だとしても、たとえ届かずとも、見送りの挨拶はきちんとしてあげなければ。
「どうか、ご武運を」
彼が戻った世界はきっと、戦争の多いところだ。
ここでの様子を見ていればそれが分かった。
一美はしばしの間虚空を見送っていた。3年間で積み上がった想いが頬を伝っていた。
「……もう一回言ってくれないか」
聖騎士長エブラム・ヴァイハーンは、目の前の男に告げた。
とても信じがたい、受け入れがたいことを言われた人間の、当然の反応だといっていい。
ただそれは、500人の聖騎士をとりまとめる聖騎士長の言葉である。並の者なら萎縮してもう一度同じ事を繰り返すことはできない。
「いいよ。俺は、聖騎士をやめる」
エブラムに対し、彼はなんでもない調子を崩さずそう言ってのけた。
エブラムはその彼を睨んだ。睨み付けた。もう50にもなる聖騎士長の、戦傷と心労が幾重にも積み重なった顔は鬼のようになり、戯言を咎めるような、裏切りを咎めるような目つきだった。
「なぜ」
短い問い。
繰り返すようだが、並の者なら失神して倒れるほどの威圧感だ。
しかしその威圧感を受け止める彼は、何事もないような涼しげな表情を揺るがせもしなかった。エブラムとは真逆の、つるんとした若い顔である。
「俺のやりたいことは、もうここにはない」
淡々と彼は答えた。
「ここにはないだと。なら、なにをやりたいというのだ」
「言わなきゃだめか?」
「許さん。教会の、聖騎士隊の最高戦力、<万魔の詠唱者>、<天啓の囁き>、<龍殺しの英雄>、<奇蹟の生還者>たるお前を、理由も聞かずに引退などさせられるものか」
「……どんな内容でも馬鹿にしないか?」
「内容による。まさか、故郷で畑を耕したいとかではなかろうし、どこかの国に仕官したいとか言うのでもないだろう?」
「もしそのあたりだとしたら?」
「斬る」
エブラムの殺気が膨れ上がり、窓にひびをいれた。
「おっかねぇな。冗談だよ」
「なら早く本当のことを言え。俺の怒りに本当に火が付く前に」
「分かったよ、エブラム。俺はな、温泉旅館をやりたいんだ」
エブラムは黙った。
殺気はいまや戸惑いに変わっている。
「オンセンリョカンとはなんだ?」
「温泉という、地から湧き出る湯を中心にした癒やしの宿だ。数多くの癒やしの効果がある。俺はあれから3年間、遠い国の温泉旅館にいた」
「全く分からん。何を言っているんだ、お前は。あの災厄、光龍の封鎖地から奇跡の生還を果たして戻ってきたと思えば半年の休養を宣言して、いよいよ復帰かと思ったら今度は宿屋がやりたいだと!?」
「そうじゃないさ。宿屋だけど宿屋じゃない。旅で泊まるためではなく、そこに泊まるために旅があるんだ。傷や疲れにもよく効く。毎日たくさんの者がやってきて、心と体を癒やして帰って行くんだ」
「それを、お前がやりたいと」
「そうだ。聖騎士隊にも悪いことじゃないと思うぞ。戦いで傷を負った傷の治りを早め、疲れを取ってやることができる。どうだ?」
「どうだと言われても……。それは、お前がやらなければならないことなのか?」
男は確固とした自信を持って頷いた。
「俺にしかできない」
「お前だけなんだぞ、龍に対抗できるのは。お前がいなくなって誰が龍を倒すんだ」
「今の俺にもできないよ。この通りなぜか若返ってしまって弱くなっているんだからさ」
彼は自分の体を指した。
どこからどう見ても20歳前後の顔と体だ。本来ならエブラムと同じく50近い年齢の男の姿ではなかった。
彼は、光龍討伐によって引き起こされた災厄の際に行方不明になって3年、戻ってきたときには若い姿になっていた。エブラムが面影を覚えていなければ、誰一人彼が分からなかったくらいだ。
「むぅ」
エブラムはうなった。
「その様子では、説得は無理か」
「俺の性格はよく知ってるだろ、友よ」
「知っているとも。ふわふわと適当そうなくせに、一度しっかり決めると全く筋を曲げない。30年の付き合いだからな」
エブラムは諦めて全身から力を抜いた。
「硬派で売りたいんだから、空気読んで適当そうとか言わないでくれよ」
「やれやれ、分かった。引退のことは俺が上手くまとめといてやるよ」
「助かる。持つべきものは諦めのいい友達だな。俺の作る旅館に宿泊する権利をやろう」
「ただか?」
「金は払え」
「なんだ、けちめ」
「商売だ、当然だ」
「満員の客連れてくから俺の分はまけろ」
「それならお前一人分はただだ」
「持つべきものは太っ腹の友達だな。それで、場所はどこでやるんだ?」
「場所はまだ決めてない。でも、名前は決めているんだ。後楽館」
「コウラクカン、か」
「あぁ、民の先頭に立つ者は、民より先に将来を憂い、民が楽しんだ後に自分が楽しむようにしなければならない、という理念から来た名前だ」
「お前にしては良い名前だ。女の名前にするようなやつだと思っていたが」
「女の名は心に刻んで秘めおくものさ」
「剣にその時惚れてた遊女の名前をつけた過去のこと、言いふらして良いか?」
「そういえばそんなころもあったな。若気の至りだ」
「やれやれ。だがコウラクカン、覚えておこう。楽しみにしているぞ」
エブラムの言葉に、ようやく彼は心から笑った。
「あぁ、待っていてくれ。できたら呼ぶからさ」