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キリティアは日が昇る頃に目覚めると、顔を洗い、髪を梳かす。そして厚めのカーディガンを羽織り中庭へと出た。
中庭には沢山の花が植えられており、キリティアはそれを眺めながら左手を翳す。そして横に振ると、サァッと空中から水が現れ、シャワーのように花を濡らしていく。この花の水遣りは前世の記憶が戻ってからキリティアの日課になっていた。
(リズ、機嫌直してくれるかしら)
昨日、リズローズとロンバルトがリクアライドとの婚約話を知り、部屋へと来た。リズローズは泣きじゃくり、ロンバルトは何も言ってこなかったが、始終神妙な面持ちであった。
キリティアはリズローズがリクアライドの婚約者になりたがっているのだと思い込んでいるうえに、始終何も言わなかったロンバルトは怒ってしまっているのだと思っている。実際にそんなことはなく、キリティアが勘違いをしているのだが、そんなことをキリティアは知らない。
キリティアはリズローズの機嫌を少しでも取りたくて、夜にリズローズの部屋へと訪れる。そして街へ出かけようと誘う。リズローズはとても喜び、キリティアはそんなリズローズを見て胸を撫で下ろした。大好きな妹に嫌われてしまっては立ち直れそうにない。
そして街に出かけようと思ったのはもう一つ理由があった。怒ってしまっているであろうロンバルトへ、少しでもお詫びに何かを贈りたいと思ったのだ。
(それにしても、あれから勉強をしていたり、リズが可愛すぎて構っていたらこんなにも日にちが経ってしまっていた。パーティーまであと二日。昨日あんなに悲しんでいたリズには悪いけれど、リズと王太子を婚約させる訳にはいかないわ)
リズローズが傷つくのは絶対に嫌なのだ。それだったらいっそ自分が婚約して、何とかして国外追放を回避できれば自分だけが断罪を受けて終わる。リズローズや家族は無事なのだ。
そうも考えたが、
「断罪……か」
水遣りを終え、近くに設置されたベンチへと腰をかける。水を浴びた花たちが高く登り出していた日に照らされ、きらきらと輝く。それをぼんやりと眺めていると、すとんと誰かが隣へと腰を下ろした。
「おはようございます、キリお姉様」
「おはよう、リズ」
「お出かけが楽しみで、いつもより早く起きてしまいました」
あぁ、今日もとても可愛いわ、リズ。私、あなたの笑顔を見ていたら、転生してきた先が悪役令嬢でもいいって思えてきちゃってるの。だって、こんなにも可愛い妹がいるんだもの。
前世にもとても大切で、大好きな妹がいたけれど、私は死んでしまったから。泣いていたあの子の涙を拭ってあげることはもう、出来ないから。
今、この世界を生きる私は、キリティア・クライアンズ。
リズローズ・クライアンズの姉なのだから。
キリティアは掌を空へと伸ばす。すると細かい水が広がり、日光と屈折し小さな虹が掛かった。リズがそれを見てわぁっと声をあげ、満面の笑みをキリティアへと向けた。
キリティアもそれに応えるように笑顔を向ける。
シナリオを知らない?それが何よ。そんなの関係ない。決めたわ。私は王太子と婚約しない。国外追放も、断罪への道も進まない。
私が死んでしまったら、優しいリズは泣いてしまうだろう。"また"妹の涙を拭ってやることが出来ないなんて、そんなの私は私を許せない。
勿論リズに婚約の話がいきそうになっても阻止するわ!昨日、私がリズを守ると決めたじゃない!!
そう、決めたのに。
「何でもしてくれるのでしょう?」
そう言って目の前で綺麗に微笑むのは二日前に街で私を助けてくれた、澄み切った空の瞳を持つ男の子だった。
遡ること二日前。
キリティアとリズローズは付き人と共に街へと出かけた。ロンバルトは朝から出掛けているらしく、会うことはなかった。
(ロンバルトお兄様、まだ怒っていらっしゃるかしら)
キリティアは馬車の窓から流れる景色を眺め、ロンバルトのことを考える。
ここ数日で仲良くなれたのに、自分のせいだと分かっていても嫌われてしまうのは悲しい。少しでも誠意の気持ちが伝わってほしくて何かを贈ろうかと思っていたけれど、物で釣るなんてと思われてしまうだろうか。
キリティアは不安にかられ、膝に置いていた手に力が入る。その上へ温かな手が重なり、横へと顔を向ければリズローズが眉を下げて顔を覗き込んできていた。
「キリお姉様、大丈夫です。ロンお兄様は怒ってらっしゃっていた訳ではありませんよ」
「え?」
「それより今日は私とのデートなのですから、楽しみましょう」
(ロンバルトお兄様、本当に怒ってないのかしら。……でも、そうね。折角リズとお出かけできたのだから、今は楽しまないと)
キリティアが笑みを浮かべると、リズは満足気に頷いた。
街の入り口へ着くと、キリティアは馬車から降りる。そして辺りを見回して瞳を輝かした。
街は至る所に水路があり、小さな船が行き通っている。道沿いにはカラフルな壁で出来た建物が立ち並んでおり、前世でいう、水の都ヴェネツィアのようである。記憶の戻る前のキリティアは普段屋敷から出ることはなく、街には来たことがなかった。
「キリお姉様、行きましょう!」
「えぇ!」
リズローズがキリティアの手を握り、街の探索を始めた。二人の後ろを使用人の男性が付いていく。
ドレスの仕立て屋に靴屋に本屋に花屋、雑貨屋。他にも様々な店が広がり、キリティアはとても楽しんだ。リズローズにアクセサリーを選んだり、選んでもらったり。新しい髪留めを作るためのビーズを買う途中で見つけたシルクのハンカチをおそろいで購入し、ロンバルトへの贈り物をどうしようかと歩いていると、ふと小さな店が目に入る。
(なんだか雰囲気のあるお店ね)
恐る恐る店内へと入ってみれば、様々な時計が置かれていた。掛け時計から懐中時計、砂時計。キリティアはその中からアンティークな懐中時計を手に取る。蓋に複雑な銀細工の施されたそれはとても綺麗だ。
(ロンバルトお兄様に似合いそうだわ。それに時計なら持っていても邪魔にはならないわよね)
一目惚れしたそれを購入し、そろそろ屋敷へ帰ろうとなった。使用人が馬車を手配するからと、その間キリティアとリズローズはカフェへと入る。
「リズとお揃いの物を持てるなんて、とても嬉しいわ」
「私もです!私このハンカチずっと大切にします!」
「ふふ。そうね、私も大切にするわ」
たわいのない会話をしていると、注文した紅茶とオレンジジュースが運ばれて来る。リズローズはオレンジジュースのグラフに付いていたストローを咥え、キリティアは備え付けられている砂糖を一つ、紅茶へと落とした。スプーンで軽く混ぜ、砂糖が溶けたそれを口に含む。こくりと飲み込めば疲れた身体に沁みていくようで、ホッと息を吐いた。
「あの、お姉様」
「ん?なにかしら?」
「お姉様は、リクアライド王太子との婚約を望まれているのですか?」
思わず、持っていたカップがカチャリと音を立てる。リズローズはそれを見て、確信した。姉は王太子との婚約を望んでいない。
(私がキリお姉様とリクアライド王太子の婚約話を有耶無耶にして、無くしてしまったらお姉様が悲しんでしまわれるかもと心配だったけれど、大丈夫そうね。でもちゃんとお姉様から、婚約者にはならないってことを聞かなくては!)
リズローズはにこにことしながら、婚約の話が出てきたことに少し動揺しながらも、自身を落ち着かせようと紅茶へと口を付けるキリティアを眺めた。ここが個室のようになっていて良かった。ちょうど使用人もいないので話しやすい。
「やっぱり、望まれていないのですよね」
「……そうね」
(やはり、リズは王太子との婚約を望むんだろうか。私は、リズが大切だ。だから望むのであれば叶えてやりたい。でも、やはりそれはダメだわ)
キリティアは婚約を断ることを決意している。不敬になってしまうと分かっているが、王太子を呼び出し、こっそりと断ろうかと思っているのだ。
所詮は親同士が決めてしまったことであるのだし、王太子の意思ではない。それに貴族は十五で婚約を決めることが多い。それは王族も同じらしい。キリティアもリクアライドもお互いまだ十三。リクアライドは文武両道で見た目も大変麗しいらしいので、性格が悪いと通っていたキリティアとの婚約を望んでいるはずもない。
学園に入ればヒロインと出会うはず。というのは言えないが、とりあえずまだ婚約を決めてしまわなくても良いはずだ。だから今回の件はそちらからお断りの形にしてほしい。キリティアはそう言おうと思っているのだ。
(これならリクアライド様から断られたということでスムーズに婚約話は白紙へと戻るはずだわ。リズにも同じような事を言って今回は諦めてもらうしかない。本当にごめんなさい、リズ)
「リズ、私ね。今回の婚約の話はなかったことにしてもらおうと思っているの」
「本当ですか!?」
「え、えぇ……あの、リズ?」
「では、お姉様はお嫁には行かれないのですね!」
「まぁ、そうね。それでね、リズ」
「はい、なんですかお姉様?」
心なしかいつもより瞳をキラキラと輝かせるリズローズ。キリはこれから言わなくてはならないことに、スカートを握りしめた。
「もし私の婚約がなくなって、あなたに話がいくようになったら……」
「私、婚約しませんよ」
きっぱり言い切るリズローズにキリティアは大きく目を見開いた。
「リズ、王太子妃になりたいんじゃなかったの?」
「私はお姉様と一緒にいたいのです」
(今は婚約より私を選ぶってこと?え?なにそれ可愛すぎない?やっぱりこんな可愛いんですもの、王太子から、いえ、他の攻略対象からも何かあるかもしれない。守らないと……!)
(王太子妃なんてどうでもいい。私はキリお姉様さえいればいいわ)
お互いの考えが微妙にズレていることに二人は気付かぬまま、お茶会は幕を閉じた。
そろそろ馬車の準備が出来た頃だろうと、キリティアとリズローズはカフェの前にあった広場で待つことにした。広場には子供から大人までが思い思いに過ごしており、賑やかだ。二人は噴水のそばで駆ける子供達を眺め、
「ところで先程買われた懐中時計、ロンお兄様とても喜ぶと思いますわ」
「そうだといいのだけれど……」
「キリお姉様からいただけるんですのよ?喜ばないはずないです!」
「ふふ。リズったら。……?なにかしら」
そんな会話をしていると、辺りが一気に騒がしくなった。
馬が!きゃー!捕まえろ!逃げろ!
広場に広がっていた楽しそうな喧騒は一気に緊迫した声へと変わり、悲鳴が響き渡る。沢山の人が右往左往する中、キリティアは隣のリズローズの手を握ろうとするが、居たはずのリズローズはおらず、危ない!!という声が一際大きく耳に届く。
リズローズが小さな女の子を抱え、しゃがみ込んでいた。そこに迫る暴れている馬。
キリティアは考える暇もなく走り出し、そして、リズローズを抱えている女の子ごと突き飛ばした。咄嗟に魔法でリズローズ達を突き飛ばした方へと水のクッションを作る。
「キリお姉様……ッ」
リズローズがクッションの上へと倒れ込むのを視界に収め、キリティアはホッと息を吐く。
(よかった、リズは無事ね。それにしても私、神様に嫌われているのかしら。転生したばかりで、こんなのなんてあんまりだわ。でも、リズを守れたのだから、!?)
キリティアが固く目を瞑り、これから訪れるであろう衝撃を覚悟に歯を食いしばっていると、グイッと勢いよく腕を引かれる。驚いて目を開けると寸でのところで馬が通り過ぎていく。
倒れ込む身体は暖かいものに包み込まれており、痛みはない。ゆっくり視線を上へとずらすと、澄んだ青空の様な瞳があった。
「大丈夫ですか?」
「え、あ、はい。あ、ごめんなさい……!」
キリティアが慌てて身体を起こすと、キリティアと同い年くらいの少年は立ち上がった。そして座り込むキリティアの手を優しく引き、立ち上がらせる。
「お怪我や痛いところは?」
「ありません。あの、あなたは?」
「僕も大丈夫ですよ」
少年が微笑み、キリティアは安心したように胸を撫で下ろす。と、少年の手が視界に入った。手掌からは血が滲んでおり、擦りむいたような傷があった。
キリティアから血の気が引く。助けてもらった挙句、怪我をさせてしまった……!
「ちょっと失礼します。沁みたらごめんなさい」
キリティアは少年の手を握り、魔法で傷口を洗い流す。そして綺麗になった傷口へと先程購入したハンカチを押し当てた。
「ハンカチが汚れてしまいます」
「いいんです」
少年が手を引こうとするが、キリティアは構わずにそのままハンカチを結び付ける。
「他にお怪我はありませんか?」
「ありませんよ。ありがとうございます」
「いえ、私を庇って怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした。何かお礼をさせてください」
「お礼だなんて、そんな。こんな綺麗なハンカチを巻いてくれましたし、僕はこれで充分です。それに何より、女性の貴女に怪我がなくて本当に良かった」
それでは僕はそろそろ行きます。そう言い、去ろうとする少年にキリティアは堪らず服の裾を掴んで引き止める。
「それでは私の気が済みません。私に出来ることなら何でもします。だから何かお礼を……「キリお姉様!」リズ……!」
息を切らし、走ってきたのはリズローズだった。
良かった……!と抱きしめ合うキリティアとリズローズ。そんな二人の元へ馬車を用意しに行っていた使用人が慌てて駆け寄ってきた。
「キリティアお嬢様!リズローズお嬢様!お怪我はありませんか!?」
「えぇ、私は大丈夫よ。リズ、あなたはどこか怪我していない?痛いところはない?」
「私も大丈夫ですわ。お姉様がクッションを作ってくださったおかげであの子供も無事でした。馬も捕獲出来たようです」
「そう、良かったわ。……あ、」
「どうされましたの?お姉様」
「お礼……しそびれちゃったわ」
キリティアは辺りを見渡すが、先程の少年の姿はなかった。
「キリティアお嬢様、リズローズお嬢様。早く屋敷へと戻りましょう」
「あの!」
使用人に連れられ、用意された馬車へと乗り込もうとすると、後ろから声がかかる。振り返ると、助けた女の子とその両親が立っていた。
「この子を助けてくださり、本当にありがとうございました」
「なんとお礼を申したらいいものか……!」
キリティアとリズローズは顔を見合わせると、にこりと笑った。
「お礼なんていりませんわ」
「ええ。怪我がなくて本当によかった」
「そういう訳には……!こんなものしかないですが、お納めください……!」
差し出されたのは母親がつけていた宝石のついたネックレスだった。キリティアは一目で大切にされていたのだと分かるそれを受け取ると、女の子の前へとしゃがみ込みんだ。そしてそれを女の子の首にかけてやる。
「あの……それは……」
「感謝の気持ちはしっかり受け取ります。ですが大切なものを簡単に手放してはいけません。大切なものは大切にされている子に返しておきますね」
キリティアがそう言うと、女の子ははみかみながらペコリと頭を下げた。
「おねぇちゃん、助けてくれてありがとう。それと、お母さんの大切なネックレスも返してくれて、ありがとう」
「助けたのは私ではなくて、私の妹よ。ネックレスは、お母さんと大切にしてね」
「うん!」
女の子はリズローズの前へと行くと、先程よりも深くペコリと頭を下げた。リズローズは少し照れたように女の子の頭を撫でてやる。
そして馬車へと乗り込んだ二人は女の子とその両親に見送られ、屋敷への帰路についた。
「ふふ。なんだか聞いていたことは本当のようだったようですね」
「そうですね」
そんなキリティア達の様子を建物へと背を預け、見ていたのは空色の瞳の少年。その側に仕えるのは少年より少し年上であろう黒髪黒目の男だった。
少年は楽しそうに笑うと、手掌へと巻かれたハンカチを反対の手で撫でた。