6話。尾張のうつけと蝮の娘
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七月。尾張那古野
美濃稲葉山に於いて、いざという時のために潜んでいた近侍や小姓、さらに草の者たちの背筋を凍らせた会談から半月程経った日のこと、尾張に嫁いだ蝮の娘である帰蝶の下に一通の書簡が届けられた。
「父上が?」
「はっ。この書状は三郎様と共に確認して頂くよう、殿からは念を押されております」
「……三郎様と共に?」
「はっ」
使者から真剣な表情で告げられた指示に怪訝そうな顔をする帰蝶。
今回の婚儀に於ける自身の役割を『織田家への人質』と『尾張の内情の調査』さらに『津島の商人との繋ぎ役』として認識している彼女としては『旦那である三郎に内密で確認せよ』と言うのならわかるが、その逆になる理由の見当がつかなかったのだ。
「殿が言うには『婿殿は【うつけ】やもしれぬ。だが【うつけ】だからこそ見えるものもあるやもしれぬ。それにこのことは両人が知っていても悪い話ではない』と仰っておりました」
「……父が三郎様に望むのは『己が持ち得ぬ視点から生じる意見』と言うことでしょうか?」
「おそらくは」
「……なるほど」
帰蝶としても自分をそんな理解不能な【うつけ】に嫁がせた父に対して、言いたいことも無いわけではない。しかし、彼女から見た三郎信長という男は、一言で【うつけ】と言い表せるような人間ではないのもまた事実。
(もしかして、今まで私が送った書状を見て、お父様の中にある三郎様への評価が揺らいでいる?)
これまで何度か『三郎様は単純なうつけではない』と言った旨を記した書状を送ってはいるが、帰蝶とて『では何がどう違うのか?』と言うことを具体的に明記出来たわけではない。
そのため、継続して流れてくる世の噂と、娘から送られて来る書状に書かれている内容との差異に頭を悩ませた利政が、判断材料と成り得る題材を用意した上で『距離を詰めて確認しろ』と言って来る可能性は確かにあった。
それに無駄を嫌う利政のことである。元は『尾張に対して楔を打ち込むこと』を目的とした婚姻であったが、娘婿となった男が使える人材であると言うのなら、とことん使い潰そうとするはずだ。
まぁ、もしかしたら結婚から二年経った今も子ができない上に『三郎様のことは良くわかりませぬ』などと言った書状を送ってくる娘に対し、父親として『あいつは何やってるんだ』とか『あいつは大丈夫なのか?』と心配する気持ちからわざわざ共通の話題を用意した。と言う可能性もあるかもしれないが、それについては今のところ頭の隅へ追い遣ることにする。
「とにもかくにも、父上が『三郎様と確認せよ』と言うならそうさせて頂きます」
「はっ。よろしくお願いいたします!」
では返事は後日。そう言って使者との会談を終えた帰蝶は、書状を持っていそいそと三郎信長の下へと足を運ぶのであった。
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「蝮殿からの書状、じゃと?」
「はい。三郎様と共に確認するように、と」
「……ほほぉ。まぁよかろう、見せてみよ」
「はい。こちらになります」
「うむ」
この時代、普通であれば、嫁いだ娘に対する手紙をその婿に見せるような指示を出すことはない。
むしろ『婿には見せるな』と書くのが、この時代の常識である。
にも拘わらず、敢えて『娘婿に見せろ』と言ってきた義父の思惑に興味を抱いた信長は、帰蝶が差し出した書状を受け取り、帰蝶にも見えるように床に広げてその内容を確認する。
その書状に記されていたのは、飛騨から来た少年の発言と、その存在に対する異質さ。そして最後に『自分は娘をやる気はないが、婿殿が妹御を娶らせるなら仲介する』と言う一文であった。
「ほう、蝮殿め、揖斐よりも先に飛騨を呑み込む目算のようだな。名分は飛騨守が与えたようだが、はてさて、飛騨守には何ぞ己が蝮殿に飲み込まれないだけの確証でも……あぁ、山、か」
「……山、ですか。では飛騨にあるという黄金が採れる山とその黄金を採る技術が、飛騨守様にとっての護符と言うわけですね?」
「うむ。さらに山から採れる黄金の七割を蝮殿へ献上するとなれば、蝮殿とて自前の金堀衆を作るよりもそちらを選ぶだろうよ。……中々に強かよな」
「しかし七割となると、飛騨守様の周りの者たちが騒ぐのではありませんか?」
納得する様子を見せる信長に対し、いまいち理解が及ばない帰蝶。これは両者の能力の差ではなく、置かれた環境と経験の差だ。
「いや、この七割と言う数字は決して暴利ではない。よって飛騨守の周囲の連中は、この交渉を成功させたことを称賛することはあっても批難することはなかろう」
「え?」
帰蝶からすれば、採掘量の七割を利政が持っていくと言うのはどう考えても“ぼったくり”のようにしか見えないのだが、信長の判断は違った。
「なにをするにも、だ。まず外敵を払わん限り、この飛騨守には将来がない。それはわかるな?」
「はい」
蝮との会談で氏理が言ったように、元々が想定外の任官の為、何をするにも準備不足なのだ。
だからこそ氏理は白川郷や利権が渦巻く飛騨の内部で調整をするのではなく、利害関係が薄い外部に助けを求めた。……と言うことになっている。
「蝮殿にとっては飛騨の国人の権益など関係ない。飛騨守の要請という名の大義名分を掲げ、彼の者に逆らう国人やそれと連なる商人を潰し、己が配下の国人にその権益を与えるために動くだろう」
「それは、そうですね」
所詮戦とは、土地と権益の奪い合いでしかない。ならば利政が権益を握るためには、現在それを握っている者を潰す必要がある。
そして蝮と呼ばれた男がそれを躊躇することはない。実に単純な話だ。
「まぁ一応、飛騨の中にも飛騨守を認める者もおるだろうから、蝮殿はそれ以外を潰すことになる。つまるところ蝮殿が牙を剥かぬ限り、飛騨守の身と、彼の者が治める地は安泰となろう?」
「……そうなりますね」
「重ねて言うが、何をするにも将来が無ければなにも出来ぬ。その将来を得る為に蝮殿を動かし、その代償として飛騨守が黄金と飛騨にある権益を支払う。ここに何の問題がある?」
「お話はごもっともかもしれません。ですが、七割ですよ?」
どれだけ掘っても三割しか得られないと言うのなら、不満が溜まるのは確実ではないか? その不満の捌け口は何処になる? 美濃斎藤家か? 飛騨守様か? 帰蝶とすれば『飛騨守が自滅する分には構わないが、その自滅に実家まで巻き込まれては堪ったものではない』と言う気持ちが強い。
「気持ちはわからんでもない。だが前提が間違っておる」
「前提?」
美濃国内ならまだしも、尾張に嫁いだ彼女にとって、実家と言う後ろ盾は絶対に必要なものである。よって、帰蝶の内心が飛騨守の心配ではなく実家の心配にあることは信長も理解している。
しかし、こう言った意味で娘に心配されるほど美濃の蝮は甘くはないし、その蝮と交渉した山師も愚かではない。
「七割でなければ蝮殿が納得せん。というか、周囲が納得せんのだ」
「父上が? しかし元々無かったものですよ? 五割でも十分納得するのではありませんか?」
山から得られるものは黄金だけではない。木材だって得られるし、山の恵みと言われるものだって得られるのだ。飛騨の土地を得た上にそれらを得られるのであれば、十分ではないか。
そんな帰蝶の考えは、正しくもあるし、間違ってもいた。
「飛騨の山から得られる黄金がどれほどかは分からぬ。しかし美濃と飛騨には、いや、蝮殿と飛騨守の間には圧倒的な差がある。その差があるにも係わらず取り分が五分五分では、蝮殿は我慢出来ても周囲が納得せん。その取り分が、目に見えて自分の懐を潤すであろう黄金なら尚更、な」
「それは……」
津島の商人がもたらす銅の銭ですら人を狂わせる場合があると言うのに、目の前にある黄金から目を背けることが出来る国人がどれだけいるだろうか?
はっきり言おう。誰もが窮し、誰もが欲に溺れるこの時代。
目の前に積まれた黄金から目を離せる国人など、存在しない。
また、その黄金を美濃に納める際も問題がある。
単純な話ではあるが、もしもその取り分が五分五分だった場合、飛騨守から納められた黄金の量がそのまま飛騨守の蓄財であることが判明してしまうのだ。
その量が多ければ多いほど、利政やその周囲に狙われる危険性が増す。という事でもある。
これは七割の場合でも似たようなものなのだが、ここで氏理は保険として己が得る三割の用途を『朝廷や幕府への献金に使用する』と明言している。
これにより『多少の誤魔化しはあるだろうが、奪うだけの量が残らない』と判断されれば、利政や周囲の連中の食指も動かない。
「つまりこの七割という値は、飛騨守が生き残り、かつ飛騨守として最低限の蓄財ができると判断した境界線とも言える。なればこそ、そこに不満を抱くことなどないわな」
「……なるほど」
国人の覚悟というか、生き汚さというか。そう言ったものを理解しきれていないところが、守護代の姫として育った帰蝶の限界であった。
だが信長は違う。
「しかも、だ。蝮殿が飛騨に出ることは、飛騨守にとっても十分な得が見込めることでもある」
「え?」
「あぁ、外敵の排除以外に、だぞ?」
「……それは?」
外敵が居なくなる。国人としてはそれだけでも十分と言えるが、それ以外にも何かあると言うのか。自身にはわからないことを知っている信長が、いつも以上に頼もしく見えるのは自分の錯覚ではあるまい。
頬が赤くなるのを自覚しながら、帰蝶は信長に先を促す。
「なに、簡単な話よ。今後蝮殿が飛騨守に掘らせる山は、元々が飛騨守にとって外敵が持つ山だろう?」
「外敵が……あっ!」
「ふっ。理解したな? それはつまり飛騨守にとっては、先ほどお主が言ったように『元々無かったもの』であり、新たな収入源でもあるのだ。故に己の取り分が三割となろうと十分なのだろうよ」
「確かにそうです」
基本的に収入も支出も家の規模によってその額は変わるもの。極端な話、家の規模が小さければ小さいほど、必要とされる経費は少なくなるし、その逆も然りである。
ならば、だ。
美濃にあって五〇万石を差配する斎藤家に比べ、飛騨で数千石にしか満たない白川郷近辺だけを治めれば良い内ヶ島家。この両者を比べた場合、採掘量の七対三と言う振り分けは、内ヶ島家にとって決して過小ではないと言い切れる。
津島や熱田と言った街から上がる収益を理解している信長は、氏理の考えが己に近い、いや、下手をすれば己よりも先に進んでいると考え、その顔を綻ばせる。
(飛騨守を見ていれば、己の進む先が間違っていないかどうかを知ることが出来る)
山から生まれる黄金と、港町が生み出す銭との違いはあれど、両者が目指すのは銭を活用した統治。
さらに飛騨守は『黄金が幕府と朝廷、さらには美濃の蝮をも動かすことが出来る』と言うことを証明してみせた。この事実は、基本的に無駄を嫌いながらも保守的な思考を持つ信長にとって、なにより嬉しい収穫であった。
「では此度の交渉は飛騨守様の勝ち、となりましょうか?」
13か14の小僧に、蝮と呼ばれる父が出し抜かれたのか? そう帰蝶が問えば、信長は「そうではない」と己とは反対に多少不機嫌になりつつあった彼女を諭す。
「色々言いたいことはあるが……まず、第一に如何なる思惑があろうとも、13か14の小僧が単身美濃に赴き、稲葉山にて蝮殿と向き合い、飛騨に兵を出させる交渉を成立させたことについては見事という他ない」
「……えぇ。動かされたとは言え、父も随分乗り気な様子ですものね」
先程までは『七割は貰い過ぎ』と思い、氏理にもやや同情的な感情があった帰蝶だが、信長の解説を聞いた今ではそんな気持ちは一切なく、純粋に『厄介な相手』と認識していた。
「うむ。戦をするには費用が掛かるものだが、その金を向こうが支度してくれる上に、領土までもらえるのだからな。真っ当な頭があれば、誰であっても喜び勇んで飛騨に向かう」
「誰であっても、ですか。……それは三郎様でも?」
「うむ。それに蝮殿には動かねばならぬ理由もある故、な」
「動かねばならぬ理由?」
「そうだ」
飛騨守を警戒する帰蝶の内心はさておくとしても、利政には動かなければならない理由がある。その理由とは……金欠だ。
確かに利政はここ数年美濃での戦には負けていない。しかしそれは、言い換えればここ数年間、彼は美濃の内部でしか戦をしていないという事でもある。
当然国内の敵対勢力を潰すことで自身の影響力を強めることは出来るものの、国内での戦の場合は国人同士の繋がりや、配下の手柄に対する報奨の関係上、また、国人たちが大名に力を持たせることを嫌うために『相手領地の没収による自己の権力の強化』など早々出来るものではない。
よって現在の美濃守護代斎藤家は、当主である利政個人の影響力は増してはいるものの、軍事費の回収という意味では完全に赤字であった。
そんなところに、隣国の国主から『軍資金は用立てる。大義も名分も与えるし、領地も切り取り次第で構わない』などと言われたら、元々商いに明るいがために理解していた(普通の国人は商いだの経済を理解できない)財政的な問題に頭を抱えていたであろう利政が乗り気にならないはずがない。
さらに己が呑み込む相手は、最大勢力でも一〇〇〇の兵を集めることが出来るかどうかと言う弱小勢力の群れときた。さらにさらに、時期によっては略奪も可能とくれば、まさしく至れり尽くせりの戦である。
「金、物、土地、そして武功。これら全てが得られる戦など早々ない故、な」
信長とてこんな条件で戦が出来るというなら、多少無理をしてでも兵を出そうとする。それが飛騨守からの誘いと理解した上で、だ。
「この度の飛騨守様からの要請は、美濃斎藤家にとっては願ってもないこと、という事ですね。……では三郎様は、父に対してそれら全てを用意した飛騨守様の狙いは奈辺にあると思いますか?」
飛騨の敵を滅ぼし、それらが所有していた山を得る。それだけでも十分な収穫ではあるがどうもそれだけとは思えない。
そう考えた帰蝶は信長に氏理の狙いについての確認を取るが、残念ながら信長とて全てを見通す目を持っているわけではない。
「さて、直接飛騨守を見たわけではないから判断が難しいな。まぁ単純な恭順と言うわけではなかろう」
「そうですか……」
「なにより、だ。蝮殿が『妹を嫁がせるなら仲介する』などと抜かす意味が分からぬ。飛騨守は明らかに出来物よ。それを何故儂に回そうとする? 何故己で抱え込まぬのだ?」
「それは、確かに」
尾張の虎を抑えるために娘を『尾張のうつけ』に嫁がせた利政が、飛騨守に己の娘を嫁がせない理由がない。そう言われてしまえば、帰蝶にも利政が何かを企んでいるようにしか思えなかった。
「お主にもわからんか?」
「……申し訳ございません」
「そうか」
何かを考えているのは確かだが、ではそれが何か? と問われて、即座に答えられるほど帰蝶は蝮と言う策謀家を理解しているわけではない。
自身に問われたことに答えられず肩を落とす帰蝶を横目に、信長は書状を睨みつつ状況を整理していく。
格を考えれば、国持衆であり従五位下飛騨守であれば守護代の娘の相手としては十分以上。
飛騨守を危険な相手と判断して距離を置こうとした? いや、それなら尚更抱え込むべきだ。
(にも拘わらず、なぜ己で繋がりを作らず、儂に繋がりを持たせようとする? そこに何がある? 儂以上に蝮の性格を知る帰蝶でさえも理解が及ばぬと言う蝮の狙いとは何だ?)
利政が無条件に信長を評価しているわけではないのと同様に、稲葉山に潜む蝮が無条件に己の味方をするとも思っていない信長は、飛騨守と自分を繋げようとする利政の狙いを探るため、思考に没頭することになる。
――それこそが蝮の牙に仕込まれた、己の動きを阻害する毒であると言うことに気付いたのは、この日から数ヶ月後のことであった。
織田三郎信長。
素質はあれど、未だ尾張下四郡を治める守護代の、さらに代官の家の次期当主に過ぎない彼は、元々の才覚に加え、半生で磨いた智謀とその身に宿した毒で一国を手中に収めることに成功した美濃の蝮や、元亀・天正と言う激動の時代の最中、あらゆる辛酸を舐め尽くした経験を持つ飛騨の山師と並ぶには、圧倒的に経験が不足していた。
マダオ(信秀)が生きている中、わざわざ信長に宛てた書状を出す蝮。
彼の狙いは一体……ってお話。
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