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15話。嗤う山師

文章修正の可能性有り

天文二〇年六月。越中国婦負郡城生城


飛騨街道沿いの要衝に作られた山城であり、飛騨から越中に抜ける際に必ずと言っていいほど通過することになる城生城。


元は越中斎藤氏によって治められていた城であるが、今では城内の到るところにこの城が内ヶ島家の所有物であることを示す二本松の旗が靉靆(たなび)いている。


その内ヶ島の城となった城生城の軍議の間に於いて、内ヶ島家当主飛騨守氏理は家老である山下利慶と向き合い、今回の戦の総括と今後の予定を再確認するための軍議を開いていた。


「斎藤伯耆守は一揆勢に殺された、か。ククク。こうも簡単にいくとはな」


「はっ。一揆勢に釣られたのが彼奴めの運の尽きにございましたな!」


「うむ。伯耆守もこれまで数に飽かせて直進するしか脳がなかった一揆勢が、軍略に沿って動くとは考えておらんかったようだ。その結果がこれ、よ。いやはや時慶も氏信もよくやってくれた」


「はっ! ありがあたきお言葉にございます!」


息子を褒められ、利慶も顔を綻ばせる。


今回氏理は飛騨勢のうちから利慶の子の山下時慶や、家老である家の嫡男川尻氏信も一揆衆に簡単な策を授けた上で戦に参加させていた。


氏理は戦前から一揆勢が素直に己の指示に従うとは思っていなかったが、今回は『飛騨守』を旗頭としたい専光寺の者たちや遠征で無駄死にしたくないと言う思いを抱える照蓮寺との交渉によって、一定の指揮権が得られていた事が幸いした形であろうか。


結果として氏理の策が最良の形で図に当たった結果となった。


決戦の日、氏理から『本格的なぶつかり合いとなるまで大多数の一揆勢を隠れ蓑として待機。斎藤伯耆守と一揆勢の本隊がぶつかったら、一部を斎藤勢の後ろに回し声を挙げよ』と策を授けられていた時慶らは指示通りに動き、その動きを“後方を遮断された”と見て取った斎藤勢は、乱戦の渦中で集中を欠くことになった。


「御意。正面からの戦ならばまだしも、圧倒的多数で囲んでしまえばあとは数が物申します。まして一揆衆は死を恐れませぬ故」


全体的な損害は、斎藤勢が一〇〇〇なのに対し、一揆勢は五〇〇程であったと言う。


これだけ見れば完全に一揆勢の勝利に見えるが、実際は違う。


一揆勢は四倍近い兵力を有して斎藤勢を包囲下に陥れておきながら、これだけの損害を与えられているのである。


これはまともな武具を装備している斎藤勢と、まともな武具など持ち合わせていなかった一揆勢の差であり、軍として動く兵士と勢いに任せて動く民の差だ。


この差があるからこそ朝倉宗滴を始めとした諸将は、寡兵であっても数に勝る一揆衆を打ち破ることも出来るのであり、斎藤伯耆守もその自信があったからこそ敵の数が四倍と知りながらも決戦に臨んだのだ。


そして実際のところ今回の戦でも相手が常の相手であったならば、戦の序盤で数百の敵を蹴散らした斎藤勢の勝利で終わっていただろう。


しかし、今更言うまでもないことだが、一揆勢は普通ではない。


彼らは学が無いが故に坊官の言うことを疑わず、目に見えた兵数を比べ合って自分たちが多数であることから勝利を疑わず、これまで苦しい生活を強いられてきたことから国人を殺すためには死を恐れない集団であるが故に、一方的に数百名の味方が殺されたとしても、逃げ出すどころか逆に『仲間の仇』と士気を上げるのだ。


そんな厄介な連中が、一向門徒と呼ばれる連中である。


……逆に言えば、それなりにまともな生活を送ることが出来ていれば一向門徒とて死を恐れるのだが、北陸全土を巻き込んだ大小一揆とその結果を知る北陸の国人たちの中に、一向宗を優遇するような者はいない。


一向門徒を弾圧する国人が先なのか、国人に逆らう一向門徒が先なのか。


今となってはどちらが原因なのは定かではないが、とにもかくにも一向門徒は仲間が殺された程度では怯まないのだ。


そうして仲間が殺されても怯まない一揆勢の習性を利用し『正面に展開した死兵を囮として包囲する』と言う、非情であるが高い効果を望める策を採用することで(当然正面の一揆勢に自分たちが囮になっているという自覚はない)一揆勢は(つたな)くも『軍』として動くことに成功。


これによって戦術的に敗北した斎藤勢は、装備の差と個人個人の資質で劣勢を覆すしか手段はなかったが、流石に歴戦の斎藤伯耆守が率いる軍勢であっても四倍の敵に囲まれた状態では勝ち目などなかった。


結局斎藤伯耆守利基が用意したおおよそ一〇〇〇の軍勢は、一揆勢に対して引くことも進むことも出来ず、勝ち戦に興奮したり、戦の最中に仲間を殺されたことで頭に血を昇らせた四〇〇〇の一揆勢に呑まれ敗北を喫し、誰一人として城生城へと生還することは叶わなかった。


「数年前の大乱で神保の攻勢に耐えた堅城も、主がおらねば脆いものでしたな」


城主が討ち死にし、出陣した兵らも全滅となれば、残された者たちに採れる手段などない。


一揆勢との決戦のためにほぼ空となっていたところに、氏理が率いる飛騨衆一五〇〇名(照蓮寺門徒含む)が殺到すれば、残留兵は何もせずとも士気が崩壊する寸前まで落としたのであった。


その様子を見て簡単に城を落とせると判断した氏理は、斎藤氏以外の人間を助命することを条件として降伏を勧告し、城側もそれを承諾。


結果として内ヶ島勢はほぼ無傷で城生城を接収することに成功していたのである。


「城はほぼ無傷で手に入った。蓄えられていた資財も奪った。時慶や氏信も武功を上げた。うむ。此度は紛れもない大勝よな!」


「はっ! では盛大な宴でも催しましょうか!」


「それは良いな! すぐにでも……いや、まて」


「?」


(宴? 城を一つ落とした程度で? その間に儂らが城生城を落としたことが越中国内に知られてしまうのではないか? ……それは駄目だ。儂の目的は城生周辺の三万石程度を得ることではない!)


前の人生でもそうそう類を見ないほどの大勝利に気を良くしていた氏理であったが、今回の城生城奪取は自身にとっての第一歩に過ぎないことを思い出し、気を引き締める。


「利慶。宴はまだ行わぬ」


「???」


「兵らに多少の金子や兵糧を与えよ。また、ここ城生城にあった財貨の大部分を支払い、坊主共にも次なる戦に臨むよう申し伝えよ」


「次なる戦、にございますか?」


「うむ」


呆然として氏理を見返す利慶。そんな彼に氏理は己の存念を述べる。


「まず斎藤伯耆は神保に服属しておったことを忘れてはならぬ」


「……来ますか?」


「来るだろう。来なければ神保家の威信が地に落ちる故、な」


己に服属していた者が一揆勢に負けた。

それに対して報復もせずそのまま放置するような者に大名は務まらない。


だが、越中国内では、先の越中大乱で神保家に敵対した新川郡の椎名や、彼らに味方した国人。

内心で神保の勢力拡大を望んでいない能登畠山と、それを後ろ盾にして独立を目論む射水郡の国人。

加賀一向宗の坊官である礪波郡の遊佐などが虎視眈々と神保の隙を窺っている。


さらに言えば神保が治める射水郡と婦負郡の境界地域でも安養寺御坊(勝興寺)による一揆が引き起こされているのが現状だ。


これらのことを考えれば、神保が採れる手段は大きく分けて二つ。


一つ目はそれぞれの勢力に対して均等に兵を分散させた後、本命に対してそこそこ大規模の兵を送り込んで、鎮圧を行うことだ。


この場合、自分たちの所領を守りきることができると言う長所があるものの、戦は長期化することになるし、もしもどこかの戦線が破られた場合はそこの穴埋めが出来なくなるので、一気に劣勢に陥ってしまうと言う短所がある。


二つ目は、他を捨ててそれぞれの勢力を狙い撃ちし、一気に大軍を差し向けてくることだろうか。


長所としては、現時点で越中には単独で神保に勝てる勢力がない以上、この方策を採用すれば各勢力は防戦一方となり、戦い方や順番さえ間違わなければ勝利を掴むことができるということ。


短所は、狙った勢力以外の相手に隙を晒してしまうことになるので、一時的に戦線が破られ、所領を失うことになるということだ。


戦略的に考えれば、後者を選択するのが正しい大名の在り方と言えるだろう。


なにせ敵対勢力を順番に潰していけば、奪われた所領もいずれ取り戻せるのだ。

つまり短所が短所たりえないのである。

もしも今回の騒乱が碁や将棋のような盤上遊戯であれば、神保とて後者を採用するはず。


(だが、おそらく神保が取る手は前者だろう)


いずれ勝てるのだから。

一時的に預けるだけ。


理屈ではわかる。だが一所懸命を旨とする武士にとって、一時的にでも所領を失うということは何事にも耐え難いこと。


これはもはや武士の本能とでも言って良いのかもしれないが、その本能を押さえ込めるほど神保は家臣を掌握していないのだ。


加えて言えば、所領を奪われた形となる斎藤伯耆守とその一族が全滅しているので「何が何でも所領を取り返す!」と意気込む者が少ないと言うのもある。


とは言っても、もちろん無視するようなことはない。しかし神保家として優先しなくてはならないのは、突然涌いた一揆勢ではなく、第一に新川郡の椎名。

次いで領内で一揆を起こしている安養寺御坊。

そして加賀一向宗を越中国内に呼び込みかねない礪波郡の遊佐と瑞泉寺。

最後に()()()()()()()だ。


「神保は未だ我らがこの城を得たことを知らぬ。よってこちらに差し向ける兵は、多くて一〇〇〇か二〇〇〇が良いところだろうさ」


一揆勢を追い払えば、そのまま斎藤伯耆が治めていた要衝を手に入れることが出来るのだから、それなりの兵は来るだろう。しかし、先述した理由から神保は自身が動員出来る最大兵力である五〇〇〇~六〇〇〇の兵を一箇所に差し向けることはできない。


(椎名に三〇〇〇、城生城の一揆勢に一〇〇〇~二〇〇〇、領内の一揆勢に一〇〇〇と言ったところか。そして城生城を取った軍勢がそのまま礪波郡に対する抑えとすれば、神保家にとって最終的な損得の収支は斎藤伯耆の所領を直轄領に出来た分、得に傾くことになる)


「なるほど。ならば我らはその連中を滅ぼし、それから越中を切り取るのですな?」


「うむ。椎名に使者を立て、椎名と向き合っている神保の後背を攻め滅ぼした後、婦負と射水を分割するもよし。もしくは神保と椎名の戦を余所に、がら空きとなっている新川郡の南を得るのもよし、だな」


「礪波郡は如何いたしますか?」


「関わらん」


「は?」


「一向宗は利用すべき者共だが、深入りしすぎるのも、な。連中の相手は専光寺や照蓮寺の坊主に任せたほうが事は上手く運ぶだろうよ」


「……なるほど」


ただでさえ婦負郡に位置する城生城を得たことで、加賀一向宗に(おもね)る連中と領地を接することになってしまったのだ。これ以上の接点は作りたくないという氏理の気持ちは利慶にも理解できたので、利慶も礪波郡へ介入する選択肢を除外することに異論はなかった。


「とにもかくにも神保がどれだけの兵を差し向けてくるか、よ。それによって儂らも動きを変えることとなる。まぁどちらにせよ一度は戦になるであろう。よって此度の勝ちに油断して備えを怠らぬよう、今一度兵や坊官どもに気を引き締めさせよ」


「御意!(大勝しても油断しない。それどころか次なる戦に備えて警戒を促すほど先を見据えている……夜叉熊様はこれほどの才気を秘めたお方であったか!)」


生まれた時から面倒を見てきた若き当主の勇姿を前に、思わず全身を震わせる利慶。


そんな彼を前に氏理は(いや、震えてないで動け)と、口に出したら色々と台無しになりそうなことを考えていたとかいなかったとか。



全部一向一揆って奴らが悪いんだ! ってお話。


越中の最大勢力! とか言っても所詮は二〇万石とかそういうレベルなので、出せる兵は五〇〇〇~六〇〇〇が限度なんです。


まぁそれでも田舎では十分っちゃ十分なんですけどね。

普通に万単位を動員する畿内と比べてはいけません。


―――


越中国:太閤検地の際の石高は38万石。ただ慶長郷帳(1604)では53万石となっているので、秀吉の時代は前田家に忖度した可能性も無きにしも非ず。

ちなみに土佐も9万石から20万石になってますから、検地の際、忖度した可能性が皆無とも言い切れないのが太閤検地です。


―――



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