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さよならいとしのペンギンライフ  作者: 天川さく
第1章 北の大地だ、ジンパでほい
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4-2 ウニと北海道産白ワインで英気を養った翌日である(後編)

「ペンギンはいまはどうでもいいわ。問題はこの海水試料だよね。どうしようかな。とりあえず半分は冷蔵かな。そうか、冷蔵。どこに? これってバイアル瓶に入っているよね」


 水気でへなりとした段ボール箱を開けようと身をかがめたところで「朋子センセ」と声がかかった。

 ジンパ研だけでなく講座全体の事務をしている二十代前半の女性であった。


「昨日の夕方、冷凍品が事務分室ではなく直接ここに届きました。大丈夫でした?」


 朋子は足元を指さす。


「大丈夫じゃない」

「あと授業のシラバスとかの書類提出しめきりがもうすぐです。朋子センセの授業は後期からですけどお忘れなく。あ、これ、新任教員ガイドブックです。職員証の写真撮影が今日の午後にあると連絡が。安全講習の追加日程はこちらで。忘れずご自分で申し込んでください」


 え、あ、とうろたえる朋子の両手に事務の女性は次々と書類をのせた。頬をひくつかせる朋子の肩からぽんっとペンギンが転がり出た。ぽぽぽんと二羽、三羽がそれに続く。


「待って待って。まだ早いから。これからだから」


 事務の女性が顔をしかめる。


「ペンギンですか?」


 あからさまに迷惑そうな声に朋子は顔をあげた。いつの間に事務の人にまで知られた? あの、その、これはですね、といいかけるものの事務の女性は構わず続けた。


「あと三階から水漏れの苦情がきています。何かしました?」


 何かって、と朋子は視線を床に向ける。荷物まわりの床はびしゃびしゃである。三階が水漏れになろうというものだ。


「ふけば問題ないですね。そう伝えます。モップはそこにありますから」


 事務の女性は背中を向けて学生部屋を出ていった。え? 手伝ってくれないの? わたしがいないのをわかってて冷凍荷物をおきっぱなしにしたのに? ひょっとしてこれって管轄外問題? 

 朋子は半泣きでモップを手にとり、床をふく。そのモップを誰かが取りあげた。

 木橋であった。

 登校したばかりなのか、重そうなリュックサックを近くのデスクにおろして、ゆるっとしたカットソーの袖をまくっている。


「ぼくがやりますよ。朋子センセは下の階にお詫びにいってきてください。あ、元気さん、いるでしょ。笑っていないで手伝ってくださいよ」


 木橋くん、と朋子は瞳をうるませる。


「そんなリスみたいな顔ををしなくていいですから。戻ったら冷蔵室へ試料を入れましょう。教授に断っておきます」


 朋子の瞳はますますうるむ。

 いい子だ、なんていい子なんだっ。


 三階の研究室には「こんなこともあろうかと大量に購入しておいた空港の大袋『えびせんいろいろ』のえびせんべい」を持参して平謝りした。常日ごろ岩ポンがいく先々でトラブルを起こすので、その尻ぬぐいスキルがこの六年でたっぷり身についている。そのあと木橋と一緒に二階の共同冷蔵室へ試料を入れて、その足で共同施設のHPLCを予約して取り扱い講習を受けて、さっそくワンセット準備したところで、「朋子センセ、昼飯食べましたか?」と木橋に工学部学食へ連れていかれて「道大といえばこれでしょう」というオススメなメニューのピリカラーメンを頬張り、職員証の写真を撮影してHPLCの測定をしながらシラバスの書式に記入をして。


 気づくと朋子は工学部MS棟の一階にいた。

 その裏庭。例の煉瓦敷きテラスで、紙コップを持たされていた。目の前のバーベキューコンロでは元気がラム肉を焼いていた。


「なんでジンパ?」

「ジンパ研だから」


 そうじゃなくて、と紙コップをおく。


「わたしはまだ大量に試料があって。今日中にやらないと困る作業もまだまだあって」

 声を張りあげる朋子に元気はビールがなみなみと入った紙コップを押しつけた。

「話を聞いてた?」

「さあさあ、ぐいっと」


 ぐいっと、とほかの学生が気持ちよさそうにビールに口をつける。ビールをあおる学生の数は次々と増え、歓迎会のような大人数になる。いつの間に駆けつけたのか。会議で大忙しの教授の姿もあった。そして誇らしげに朋子に勧めた。


「わが研究室のジンパでのビールは生ビールサーバーのビールと決まっているのです。温度調節にも気を配っています」


 そうだったのか。気づかなかった。やたら美味しいとは思っていたけど。知ってしまったからには。

 つい朋子はビールを口にふくむ。ホップの香りが口いっぱいに広がる。柔らかくほんのりと甘い香りだ。おそろしいほどのふくよかな味わいで、泡がこれまたきめ細かい。絹のようなとはこのことか。


「近くの工場直送のビールです。ビールもできたてが格別です」

「あと天気ですよ」


 木橋が足元を転がるポプラの綿毛を指でしめす。


「いまって一年で一番気持ちのいい季節なんですよ」


 なるほど。うなずいていると元気が朋子の空いた紙コップにビールをそそいだ。うう、これではもう測定は。

 さらりと乾いた空気。頬を撫でる風。赤みをましてきた空。そこかしこに舞う綿毛とニセアカシアの白い花びら。

 ま、いっか。

 朋子は目を細めてビールを飲み干した。


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