3-1 居酒屋『真冬日じょうとう』(前編)
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居酒屋『真冬日じょうとう』。
木造二階建ての一階店舗のその店は、道大通りから東へ一本入った路地にあった。
店の戸にある浮かしぼりの店名。その名にそぐわない愛らしい文体を見て、思わず朋子はホッとする。
「測定で疲れているからかなあ」
「真冬日だったらなおさらホッとするのよ」
「最高気温が氷点下のままの日のことだよね。寒そうだもんね」
「『真冬日? 上等じゃないのよ』っていう気分で店を開いたって大吉ねえさんが話していたわ」
「やけくそなの?」
「気温は一日中氷点下。吹雪いたら目の前の人の背中も見えないホワイトアウト。それが一年の半分の日常。二百万人クラスの都市なのにね。腹をくくらないとやっていられないってことよ」
「試される大地の人は強いなあ」
由加と笑い合いつつ戸を開く。
ほんのり木の香りが朋子をつつんだ。明るい木目の店内で、白い色合いの木材がそこかしこに使ってある。居酒屋というより蕎麦屋みたいだ。四人掛けテーブル席が四脚とカウンター席が八席の店内である。テーブルはどれもこれまた明るい木目の色合いで、岩ポンの試料測定に疲れた気持ちがたちまちリフレッシュしていった。
「いらっしゃい」
大吉ねえさんと小吉の姉弟の声、それに木橋の声が混じった。くだんの朋子と同じ研究室の四年生男子学生である。ここでのバイトも四年目だという。木橋はひょろりと細長い身体で薄手のコットンシャツと無地のエプロン姿である。
由加とならんでいそいそとカウンター席へついた朋子に木橋はおしぼりを手わたした。
「朋子センセ、白ワインが好きですよね。辛口のデラウエアが入っています。いかがです?」
「北海道産ワイン?」
「もちろん」
ならそれで、といいかけて「ああでも生ビールも捨てがたいし」とおしぼりを握りしめる。全国どこにでも生ビールはあるけれど、北海道の生ビールは本当に味が違うのだ。くああどうするか、とうなると小吉がカウンターの奥から「本日のおすすめ」看板を指さした。ウニとあった。価格は特上ヒレカツ定食よりは安い。即答する。
「ワインで。ウニも」
はいよ、と小吉はウニの皿を朋子と由加の前に出す。おお、と朋子は手のひらを震わせた。ふっくらと身を膨らませたウニであった。一粒が大きい。朋子が知っているウニの二倍近いサイズである。つややかなオレンジ色のウニとレモン色のウニだ。「バフンウニとムラサキウニさ」、と小吉が声をかけた。もちろん生ウニである。
醤油をつけようとした朋子を由加が制する。
「そのまま食べてみて。もったいないわ」
もったいない? いぶかりつつ口へ含んだ。目を見開く。耳から後頭部にかけて鳥肌が立つ。しらずカウンターテーブルを拳でどんどんと叩いていた。
「甘いっ」
「でしょう?」
ほら、と由加が白ワインの瓶を差し出した。由加さんってばフルボトルで頼んだのか。さすがだなあ。感心するあいだにも由加はなみなみとワインをそそぐ。はい、といわれ朋子はうなずく。
グラスに口をつけた途端だ。果物の香りが口に広がった。それでいてきりっと辛い。ウニの余韻が果物の香りとともに喉の奥底へと流れていく。目の端がぷるぷると揺れて満面の笑みになり、うおおう、と唇を震わせた。
そのときであった。
「相変わらず美味そうにものを食いますね」
長身でしっかりとした身体つきの青年が立っていた。七分袖のネイビーのシャツをぱりっと着こなしている。
長万部元気であった。これまた同じ研究室の博士課程の学生である。朋子より二つ年上であった。例の『元気さん事件』の張本人である。
あら、と由加が手のひらを左右に振った。
「『元気さん』こんばんば」
「あれ? ええ? 由加さんまで知っているんですか? うわ、くそっ。どこまで広がっているんだ」
「自業自得ですよね」
呆れた声を出す木橋に長万部は肩をすくめて朋子の隣に座る。
「別におれは恥じるようなことは何もいってないぞ」
へえ、そうですか、と朋子と木橋の声が重なる。「朋子センセまで」と長万部は朋子に身を乗り出す。
「止めてくださいよ。そもそもおれは誰にも迷惑をかけていませんし。木橋お前も妙なことをいいふらすなよな」
朋子と木橋は薄い笑みを浮かべた。まあ、長万部さんにはその手を指摘しても理解できないんだろうなあ。朋子は苦笑しながらワインをふくんだ。
元気さん事件。
それが起きたのは六月のはじめ。