2-2 ことのはじまりは二月である(後編)
不安やら、はたまた職を手にした喜びやらにじっくり感じ入る暇もなく、ついでにいきなり直面した失恋問題に落ち込む暇もなく春の学会シーズンに突入し、朋子は岩ポンとともにアメリカの学会へ向かった。
地球物理学関連のデカい学会である。全世界から数万人の研究者が参加するイベントである。
このサンフランシスコで岩ポンは普段に輪をかけて自由奔放であった。そのたびに朋子はトラブル阻止に必死である。
議論が白熱し相手の研究者とつかみ合いのケンカになりかける岩ポンの気をそらし、ひと晩中飲みあかした岩ポンが酒臭い息で会場に陣取ってクレームをいう女性研究者に平謝りし、岩ポンがカフェにおき忘れた原稿データのUSBメモリーを取りに戻り、それを手に疲労困ぱいで会場に戻ると、岩ポンはイタリアの共同研究者と肩を叩いて笑い合っていて施設スタッフから「口頭発表の声が聞こえないから静かにしろ」と訴えられている場面に遭遇し。
朋子は思わず会場ロビーの入口で立ち止まり、岩ポンから離れてことのなりゆきを見守った。
たった四日ちょっとの学会なのに、よくもまあ次から次へとトラブルを起こせるなあ。世界中どこでもこれほど自然体でいられるなんて。すさまじく迷惑な人だなあ。
うんざりしつつ、でもまあ、と思いなおす。
こんな苦労もあと少し。道大へいけば岩ポンと離れることができる。毎晩律儀に研究の進捗確認のメールがくることもない。約束の時間になっても姿を現さないと、出張先の現地スタッフから連絡が入って岩ポンの行方を捜す必要もないのだ。野外調査で緊急避難的野営をした岩ポンを心配することもない。
すばらしいな。
あこがれのバラ色の人生なのでは?
ああ、と唇が震える。
うっかり岩ポンの研究室に入ってからのこの六年。このボスにはずいぶんと振り回されたな。世話になったな。世話をしたよなっ。
怒りと開放感がまざりあった感情が身体の奥底からこみあげた。
がんばれ、自分。おつかれ、自分。
ところがである。
めざとく朋子に気づいた岩ポンが「何をニヤニヤしてんだよ」と近よった。
「どうせアレだろ? もう少しの辛抱で俺と離れられるとか思ってるんだろ?」
朋子はさっと視線をそらす。
「そんなわけねえだろう」
「へ?」
「忘れたのか? お前は俺のほとんどのプロジェクトの研究協力者だろうが。たかが所属大学が変わるだけじゃん」
「たかが? えっと、それって?」
「デカい科研はまだ四年はあるし、外部資金研究もめちゃあるし、誰が報告書を書くんだよ」
「わたしに書けと」
「俺に書けるわけねえだろうが」
岩ポンは自慢げに胸をはった。
遅まきながら思う。
これはパワハラでアカハラではなかろうか。
もっとも思ったところで相手は天下の岩ポンである。業界から離れる以外に改善の余地はない。そして業界を離れるのは、念願の博士号を取得したという理由だけでなく、無理であった。
この業界を朋子は気に入っていた。ここ以外の仕事など思いつきもしない。骨をうずめるならこの業界である。
化石とか鉱山とか岩石とか地震とか火山とか、大好きだ。
数千万年前の環境について思いをはせる。これ以上の喜びはない。
岩ポンはにやりと笑う。
「このあと俺はゴヤ大の新学期の講義ガイダンスをひとまとめにしてこなして、そのままオーストラリアの野外調査に出るからよ。試料わんさか取ってくるからよ。楽しみにしてろや。つうか、お前もくる? さすがに無理か」
ガハハと笑う岩ポンに朋子は涙目を向ける。
そして六月一日づけで朋子は道大に着任したのであった。