3-2 それからは必死の日々(後編)
「データに抜けがある。どうして。測らなかったのかな? おかしいな」
「事件ですか? また誰かのしわざ?」
「木橋くんてミステリ好きだよね。でもこれは違う。たぶんわたしのうっかりミスだなあ。ああもう。自分が嫌になる。どうにかならないかなあ。ならないなあ。くそう。SEM測定してくるか」
「もう午後九時をすぎていますよ」
「え? ああ遅くまでごめん。ありがとう。帰って休んで」
「ぼくじゃなくて徹夜するつもりかって話で」
「ちょっとだよ。ほんのちょこっとだけ。このデータの確認をするだけだから」
とはいったものの、そんなわけはなく。夢中でSEM測定をしていると、いつしか夜は明けて職員の出勤時間になったらしい。
由加が朋子の前に仁王立ちをする。
「いい加減にして」
「え? 使いすぎ? フィラメントが切れそう?」
「違う。朋子センセが必死すぎるといってるのよ」
「だって学会まであと一週間もないんだよ。なのに原稿もデータも間に合ってなくて」
だから、と由加が声をかぶせる。
「気づいていないみたいだからいうけどね。朋子センセ、あなたはスゴイんだから」
「いきなり何?」
「SEM観察測定のことよ。さらりと最適な測定箇所を探し出して最高倍率で焦点をてきぱきと合わせて。即座の判断で反射電子像をとる。定量定性分析もやってマッピングやライン測定の実行。この本来三時間はかかるコースをあっという間にやっているんだから。わかってる?」
「ぜんぜんだよ。ぜんぜん試料の残量は減らないしヘマばかりで」
「どこが? 信じられないくらい短時間で試料観察測定をしているのよ? 私たち技術職員だってそんなことをしないわよ。装置が壊れるもの」
「ご、ごめんなさい。危なっかしい測定をしていたかな。でもでもでも。本当に時間がなくて」
「装置が壊れる前に人間が壊れるっていっているの。朋子センセ、本当に倒れるわよ」
朋子は唇をかむ。その朋子の頬を由加がつねった。
「なにゅすんにょ」
「いま『倒れてもいい』とか思ったでしょう」
さっと朋子は視線をそらす。
「試料と身体、どっちが大事なの」
さらに朋子は視線を大きく動かした。こら、と由加の力が強くなる。いたた、と声がもれ、取り囲んでいたペンギンたちは、もっと説教してやってくれ、とばかりに激しくジャンプをした。
由加は頬から指をはなす。そして「まったくもう」と朋子の鼻を人差し指でなでた。
「木橋くんや元気さんが朋子センセを構いたくなる気持ちがわかるわね。なんなのよ。げっ歯類みたいなこの顔つきは」
うりゃうりゃ、と由加は鼻をなで続ける。げっ歯類? リスとかネズミみたいってこと? と朋子は頬を膨らませる。由加が目尻をさげる。
「ほうっておいたら死んじゃいそうで目が離せないってこと」
「そんなにやわじゃないもん。ひとりで野外調査にいってひと晩中崖をのぼったりできるし、野宿も平気だし。南米のスペイン語圏の街だって英語で買い物もやり遂げられるし」
ふうん、と由加はあごをあげた。
「岩嶋先生がどうして朋子先生をやたらと構うのかもわかってきちゃった」
「はあ?」
「朋子センセ、もっといろいろ自分のことを自覚しないと命取りになるわよ」
「こわいこといわないで」
とにかく、と由加は施設備えつけ電話の受話器を手にとった。
「ちゃんと食事をとって少しは寝なくちゃ。木橋くんを呼んだから装置を終わらせてね」
ええ困るよ、と操作台に向きなおるうちにも木橋が駆け込んでくる。「本当にまだやっていたっ。徹夜?」と顔をしかめた。
「連れていって」
「了解です。朋子センセ、ほら」と木橋は朋子の手を引き、「いやだよう」とあらがう朋子に「キャンペーンをやってます。北部生協の学食で朝のカレーをやっていました」と続けた。
「ただのカレーではありません。道大オリジナルのカレーです。しかも百五十円」
「何それ。どこの時代の物価?」
さあさあ、と木橋が背中を押して、カレーの魔力に負けた朋子は北部生協の学食へと向かった。美味しい。とろっとろに煮込んだカレーがなんともいえない。朝に食べるのがさらにいい。夢中でたいらげ、真っ白になった皿を見て我に返る。
違う。
やらねばならないことが山積みなのだ。
このままだとそれこそ真っ白い原稿を片手に辛口研究者たちの前で大口叩かなくちゃいけなくなる。冗談ではない。全速力で研究室へ戻り、キーボードを超絶技巧のピアノ演奏をするように指を走らせ入力作業である。
岩ポンが適当につけた学会発表のタイトルに合うような原稿を書き進め、パワーポイントのスライドに画像を貼りつけ時間調整だ。試料の画像はたっぷりで、試料を採集した地点の画像も他の発表と比較できるようにして、とスライドの体裁を整えつつ、二件目、三件目の発表原稿と平行作業を進め。
あれはこれで、それはあれで、と頭から湯気が出る勢いで作業をしていると教授が「美味い漬けラム肉を手に入れまして」とジンパになり。申し訳ないけどそんなことをしている時間はなくて、とこれまたあらがっていると元気がビールを持ってデスクエリアに乱入し。「原稿と試料だらけのここで飲まないでっ」と涙目で追い出して。いつしか自分も工学部MS棟の裏庭でラム肉を頬張って。
いやもう、どうすればいいのだ、と身もだえ生ビールを喉に流し、「美味しい」と頬をそめていたときであった。
岩ポンからメールがきた。
──明後日そっちにいくから。
むせる。
明後日? なんで。ちょっと待ってっ。




