3-1 それからは必死の日々(前編)
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それからは必死の日々であった。
意地でも逃げでもなんでもなく、正真正銘、犯人捜しをしている暇などない。ひたすら試料と格闘し、パソコンにデータを入力し、せめて発表原稿の枠組みだけでも作らねばと、指先は一日二十時間くらいキーボードの上にあるような生活であった。
時間の感覚がなくなっていた。
気づくと木橋が隣にいて作業を手伝っていた。いつ院試が終わったのか、院試はどうだったのか、そうだ木橋をいたわらねば、といろいろ思いつきはするものの言葉にする時間すらない。
そんな朋子を木橋は実にかいがいしく世話をした。
「朋子センセ、またひと晩中ここにいたんですか? え? 寝袋で寝たから大丈夫? そりゃこんなところで朋子センセを襲う度胸の学生はいませんが、外部者がまぎれ込むかもしれない。危ないですよ」とか「ほら着替えに戻って。寝落ちしないよう、三時間たっても大学に戻らなかったら連絡を入れますから」とか「ほら昼ですよ。学食にいきますよ」とか「ほらほら教授がジンパだっていってますよ」とか「ほらほら『真冬日じょうとう』にいきますよ」とか「どうぞ。元気さんから奪い取ってきました。七花亭のホワイトチョコレートサンドの『雪やこんこんこん』です」などと声をかけてくれなかったら食事をするのも面倒だったに違いない。
ジンパと『真冬日じょうとう』はあきらかにいらないだろう。さすがにそう思って訴えたけれど「心にも栄養をつけないと死にます」と強引に連れていかれた。木橋の読みどおりに気分はリフレッシュ。翌朝からはバリバリと作業再開である。ありがとう、木橋くん。
これだけ無茶をしているのである。当然ペンギンたちは大騒ぎである。
朋子のデスクエリアのパソコン本体に飛び乗り、衝撃で揺れる本体をとっさに手で支えた朋子の背中を蹴り飛ばし、窓際から本棚へとリズミカルに行進だ。一羽、二羽、三羽。ペンギンたちはきっちり列をなして進んでいく。
席を立てばその脇にぴたりとよりそい、倉庫でコンテナをあされば左右のコンテナの上で器用にスキップをし、SEM観察をしていればモニターの上から朋子へリズミカルにフリッパーを動かした。
そのどの動きも実にものいいたげである。ペンギン好きであるのでなおさらペンギンたちがいいたいことが伝わってくる。フリッパーの動きから、尾羽の角度から、くちばしの向きから、『少しは休め。ゆっくりやりなよ』、彼らはそう訴えた。
わかってる、と朋子は両手を頭に当てた。
「わたしだって休みたいわよ。お肌にも悪いし。身体に悪いことだってわかる」
けどねっ、と拳を作る。
「今週中に発表十件分のデータを、ざっとでいいからまとめなくちゃマズいんだよ。もうアウトなんだよ。相手は岩ポンなんだよ? データがなかったら『しゃあねえなあ。発表は止めとくか』じゃなくて、『わかってることだけ適当に語ればいいだろが』っていうに決まってるでしょ」
このわたしが、と続ける。
「辛口研究者だらけの学会で適当な話を語れると思ってんの?」
いや訴えているのはこっちだコラ、とペンギンたちは一斉に朋子の背中に飛び蹴りだ。いったあっ、と声をあげ、「なんです? ペンギン? 何をやっているんですか。疲れすぎなんですよ。休みましょう」と木橋が朋子の両手を取る。
木橋くんまで、と立ちあがる。手を振りほどき、ペンギンたちを横目で見た。こんなことに無駄なエネルギーを使っている場合ではない。すがるようにデスクまわりに視線を移す。こういうときのために飾ったフェアリーペンギン十体のぬいぐるみであった。
ぬいぐるみではあるものの、リアリティあふれるフェアリーペンギンたち。なんというつぶらな瞳。柔らかいフォルムに小ぶりのフリッパー。前かがみになった姿勢がどれもたまらず。身体の奥底から愛しさがこみあげ心をうるおす。
「よおし。チャージ完了。パワーポイントやるぞおっ」
朋子センセ、と木橋が哀れみの目を向けた。
「手軽すぎですよ。どんな自己発電?」
「萌えは大事だよ」
「堂々といわれても。そんなにペンギンが好きならペンギンの研究者になればよかったのに」
わかってないなあ、とマウスを持ったまま木橋に振り向く。
「ペンギンはあくまで観賞用だからいいんだよ。専門になったら可愛いだけじゃすまないし。ぜんぜん癒しにならないでしょ」
「そうですかね。そこそこ楽しそうですが?」
「このペンギンの生息域はどのあたりで、その地質がどうなっていて生態系はどうのこうのって、論文に使うからとか締切りに追われて調べるようになったら、ただ苦しいだけでしょ」
う、と木橋は視線をそらす。
「フェアリーペンギンのぬいぐるみを見て『フィリップ島かあ。どんなところだろうな。地質は? あのあたりって南オーストラリア海盆があるから』って思いをはせるくらいがちょうどいいんだよ」
「十分にマニアの域を越えてます。ほとんど研究者の発想です」
「ペンギンの研究者をなめたら駄目だよ。わたしが思いをはせるなんてまだまだの域だよ」
首を振りつつキーボードへ指を走らせる。気分一新、なめらかに入力していたのであるが。それもつかの間であった。ひゃっ、と朋子はモニターに身を乗り出す。




