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さよならいとしのペンギンライフ  作者: 天川さく
第1章 北の大地だ、ジンパでほい
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1-2 ペンギンが目の前を歩いていた(後編)

 あ、と朋子は振り返る。

 由加(ゆか)が立っていた。

 装置担当の技術職員。無造作にまとめた長い髪が大人の貫禄をにじませる長身の女性であった。既婚のせいだろうか。三歳しか年上ではないのにずいぶんと落ち着いた雰囲気の女性であった。

 由加はいい聞かせるようにゆっくりと続ける。


「常識だと思って装置取り扱いマニュアルに書かなかったけど、加えたほうがいいからしら」

「だってペンギンが」

「ペンギン?」


 由加は首をかしげて室内を見た。学内外の研究者に開放されている施設ではあるが、いまは朋子以外の利用者はいなかった。ついでにペンギンたちの姿もない。あいつらってば。どういうこと? 由加さんがきたからいいってこと? いいって何がよ。

 朋子センセ、と由加が朋子の小柄な肩に手をおいた。


「たくさん使ってくれてうちとしては嬉しいわ。でもね。程度ってものがあるの」

「岩ポンからどんどん試料が届くし。ゆっくりしてたら終わらないっていうか座る場所もなくなっちゃう」

岩嶋(いわじま)先生だっけ? その件は聞いたけど」

「早くやらないと試料がおかしくなっちゃうし」

「何それ」

「リストの順番どおりに並べておいたのに。測定しようとしたら順番がバラバラになっていたり」

「転んだの?」

「わたしの試料って薄片(はくへん)が多いの知ってるでしょ。スライドガラス仕上げなんだもん。転んだら割れちゃうじゃん。そんなヘマはしないよ」

「まあそうよね。それで? この試料はこれで終わり? まだ続けるの?」

「終わる」


 しぶしぶと声を出す。リスのように頬を膨らませて朋子は装置の倍率をさげる。できればもう少しやりたかったなあ。どうしてお腹が空くんだろう。ずっと作業ができればいいのに、と思いつつ加速電圧をオフにする。


「あら、オフの前にロードカレントの値を使用記録簿に記入よ」

「見てた。74だった」


 さらさらと記録簿へ記入する。さすがというかなんというか、と由加が肩をすくめる。


「装置の操作はしっかりしているから、いくら使ってもらっても心配はしていなんだけど」

「作業台にはもう乗りません。ごめんなさい」

「朋子センセはむきになりすぎ」

「そうかなあ」

「大学主催の安全講習でいってたでしょう。『いいデータを取るコツはこだわりすぎないこと』だって」

「春先にあった安全講習? それならまだ着任してないもん」


 投げやり気味に朋子は試料室のZ軸を基準値に戻す。腹がぐうと音を立てた。


「ご飯食べていなの? もう夕方よ?」

「装置の予約を入れてたから」

「キャンセルすればいいじゃないの」

「そのあいだに予約が入ったら困るじゃん」

「六月は例年それほど混まないわ。心配ならランチ時間分をブランク入れて予約するとか」

「ずっと装置のそばにいないと別の作業が入っちゃうんだよ。岩ポンから電話を受けたらその後の測定ができなくなっちゃう」

「そしてランチどころか晩御飯まで食べる時間がなくなって、夜中も測定するハメになると」


 由加は首を大きく振る。その姿勢のまま試料室の大気開放ボタンをクリックした。ぷしゅっと空気が入る軽い音が室内に広がる。


「そして『ペンギン』が見えると」


 うう、と朋子は身を縮めた。


「私には見えないけど、朋子センセには見えて、それで仕事の邪魔をするとなると問題よね」

「呆れてる?」

「朋子センセと知り合ってまだひと月足らずよね。そんな私にもしっかりとわかるほど朋子センセはペンギンで騒いでいるのよ。わかってる?」

「ご迷惑をおかけして」

「朋子センセ、あなたが疲れているといっているの」


 あう、と朋子はうなだれる。「しかたないわね」と由加は両手を腰に当てた。


「飲みにいきましょう。そろそろ終業時間だわ。ちょうどいいわね」

「まだ試料の整理が」

「どうせ今日中に終わる量じゃないでしょ?」

「そうだけど」

小吉(しょうきち)さんが朋子センセに飲ませたい北海道ワインがあるっていっていたわよ」


 朋子はがばりと顔をあげる。「居酒屋の『真冬日じょうとう』?」と上目遣いで由加を見る。由加は笑みをうかべる。


「そろそろウニもいい季節だわね。後志(しりべし)のウニと白ワインなんてどうかしら」

「ウニとワイン」

「あそこでバイトしている木橋(きはし)くん。朋子センセと同じ研究室だったのね。ああそうだ。『元気さん』もきているかもよ?」


「『元気さん』」と朋子は噴き出した。彼も同じ研究室である。その彼の『元気さん』事件があったのは朋子の歓迎会であった。まったくなあ。ああいうノリは地質屋(ちしつや)ならではで、全国というか世界共通だなあ。

 よしよし、と由加は朋子へ大きく笑みを向けた。


「片づけが終わったら真っ直ぐにここへきて。メールチェックや伝言チェックはやらないでね。夜中になっちゃうから」


 それから試料チェックも駄目であれも駄目でこれも駄目でと続ける由加を朋子は両手で制する。


「わたしってそんなに信用ならない?」

「ちょっとだけといって二時間待ちぼうけを食らったことが、このひと月で三回あったわね」

「ごめんなさい」

「約束より実験や測定を優先させる。それが理系の習性だけど。今日は道産ワインとウニよ。いい? 真っ直ぐにここへきて」


 わかった? と由加は念押しをする。

 ウニとワインっ。

 朋子は由加と拳を合わせた。

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