3-2 デスクにかじりついて朋子は呪文のように(後編)
まったくですよ、と木橋が朋子の前をいく。えっと、で? ここは? 首を回すと看板が見えた。『サッポロシティジャズ』とあった。え? コンサート会場ってこと? こんな公園のど真中が? と思っているとピアノとサックスの音色が流れ出す。照明が暗くなりボーカルが加わる。おお、生ジャズ。鳥肌が立つ。
はい、と由加が朋子にワイングラスを手渡した。どうぞ、と木橋はチーズ盛り合わせを差し出す。
「ありがとう。いくらだった?」
「覚えていないんですか? 『真冬日じょうとう』で先払いしてくれましたよ」
覚えていない。このわたしが記憶をなくすような飲み方をした? まあまあ、と元気が声をかけ、「朋子センセ、ゴチになります」と豚串の皿を持ちあげて見せた。
どんな酔い方をして、どんな約束をしたのだ。
そうじゃなくて、と震える。
こう連日、飲み歩いている時間はないのだ。どうしよう、と焦りで身体が熱くなりながら翌日コンテナの前で岩石の試料選別をしていると、朋子の脇でパソコン作業をしていた木橋が「時間ですね」とパソコンをシャットダウンした。
「ああ、えっと。今日も何か約束してたっけ。ごめん。キャンセル。薄片室に依頼書を出さないと、もう本気で間に合わないし」
「でもタヌキが見たいっていったのは朋子センセですよ?」
タヌキ? 窓の外を見る。夕方である。夜の動物園でもわたしはいきたいといったのかな?
けれど連れていかれた先は繁華街。
「はい、タヌキです」
そう示されたのは神社であった。
木橋の言葉どおり、大きいタヌキ地蔵の前に金色のタヌキ地蔵が四体まつられていた。つまり、タヌキ小路の商店街での祭りであった。そこかしこに「タヌキまつり」ののぼり旗があり、アーケードの中央には縁台があった。元気が朋子へ生ビールのジョッキを「はい」と渡す。木橋がジンギスカンの皿をおいて「乾杯」とジョッキを鳴らし合う。
美味しい。美味しいんだけど。だからこんなに毎晩、飲んだくれていたら。
「間に合わないってばっ」
涙目である。
今日こそは後れを挽回しなくては。翌日は明け方から朋子は研究室にある偏光顕微鏡にかじりついていた。素早く薄片をセットしてSEM観察が必要な試料を選別する。薄片を割らないように必死である。
その朋子の肩を元気が叩いた。
「なんど呼べばわかるんですか。いきますよ。みんな待っています」
へ、と顔をあげて窓を見る。夕方になっていた。ポプラが午後の綿毛を飛ばしている。馬鹿な。昼とかどこにいった。さあさあ、と元気は急かす。
「今度は何?」
「いやだなあ。『夏』、『札幌』っていったら」
大通公園のビアガーデンであった。
五丁目から十一丁目まで。見わたすかぎりテントがあり、そこかしこでビールのジョッキを鳴らす音がしていた。
「これが噂の」
壮観な眺めに思わず見とれる。その朋子の前に小柄な女性が「お待たせしました」と五百ミリリットル中ジョッキを六杯持ってテーブルへおいた。なんという握力。見るとどのスタッフも片手に数杯のジョッキを持って歩き回っていた。
「すごいな。そしてなんだこれ。めちゃくちゃ美味しいんだけど」
口にビールの泡をつけて目を見張る。
「つまみは普通なんだけどね」
由加がウインナー盛り合わせを差し出した。香辛料が利いてぷりっとした歯ざわりであった。ぜんぜん普通じゃないし。汁がほとばしるほどジューシーだし。
恐るべし札幌、と震えつつ、本当の本当に今日こそはSEM測定を進めねば、とがむしゃらにモニター画像の焦点を合わせていると、今度は浴衣姿の元気が「まだ着替えていないんですか?」と脇に立った。
「あら元気さん。浴衣男子。私たちも着替えなくちゃね。朋子センセ、更衣室にいきましょう。着つけをしてあげるわ」と由加が髪を結いながら手招きをした。「単身赴任中のダンナにも見せつけたいほどの女っぷりを披露しましょうよ」と艶やかにほほえむ。
「わたし浴衣もってないし」
「貸してあげるっていったでしょう」
ほらほら、と浴衣姿になり、あれよあれよという間に豊平川の河川敷にいた。そこで観たのは。
「花火大会です」
木橋の声とともに、ドンと花火が打ちあがる。水面に花火が明るくうつる。そこかしこで歓声があがり、仕掛け花火が朋子の顔を照らした。
「おれらが子どものころには七月は毎週末が花火大会だったけどなあ。ここでやるのは年に一度になっちゃったもんなあ」
しみじみと元気が語り、「晴れてよかったですね」と木橋が揚げイモ串を手渡した。
毎週末に花火大会があっただと?
北海道。札幌。
夏にイベントがありすぎでしょうっ。
思わず朋子は夜空にほえた。




