1-2 わかってる。俺には秘書がいる(後編)
『ほかの連中にやらせてみろ。まったく研究論旨とは関係ない部分の薄片を作ってよ。解析やら測定かけてよ。データが出たとか小躍りするんだぜ? 使えねえデータばっかり増えるっつうの』
「えっと、そんなケースばかりとは」
『卒論や修論と違って共同研究の試料なんだからよ。ほかの連中のバトンになるようなデータにしねえと意味ねえじゃん。そこんとこわかってないやつが多くてよ。恐ろしくて頼めねえよ』
うぐう、と拳をにぎる。反論できない。まったくもってそのとおりであった。例えば、三月に振られた彼氏がそうであった。
同学年の元彼。笑顔が爽やかで物腰が柔らかく、朋子の健康を気づかい、一緒に須賀木屋のラーメンをすする仲であった。この究極にゆるゆるのソフトクリームがたまらないよね、とほほえみ合い、ほっぺたに五目ごはんの粒がついているよ、と頬に触れあったりして研究のストレスを発散できた素晴らしい相手であった。
けれども彼は気合いという名の学術センスがいまいちであった。
岩ポンから託された試料を前にうなだれる彼に、朋子はなんども「あと十枚薄片を作ればいい感じのオリビンがあるかもよ」と励ました。けれど、彼はうなったりいいわけしたりするばかり。そして締切りは迫り。あげく「朋子はいいよな。いい試料が作れてさ。ラッキーだよな」と平然とほざくのだ。
いい試料って何? ラッキーってどういうこと? 数枚作って当たりがないから数十枚作っているんですけど? 確率的にあるにきまってるじゃん。
朋子の理屈は相手に伝わらず。
はあ、と朋子は窓の外を見る。思わず四カ月前の出来事を思い出してしまった。やり切れなさまでよみがえる。空はすっかり紺色で、そこにうっすらと煙がたちのぼっていた。
まあね、とそのジンパの煙らしきゆらぎを目で追う。
伝わらない会話という点なら、いまと一緒かな。もっとも岩ポンはわたしの数十倍やる気という名の学術センスを持ち合わせていて、それがわたしにのしかかっているんだけど。
聞いてんのか、朋子、と岩ポンの声が携帯電話から響いた。
『だから全部送ったからよ』
「何を」
『ちゃんと聞けや。九月の学会のやつだ。道大でやるやつだな』
学会の話に戻ったのか。とたんにこれまた嫌な予感が胸に広がる。携帯電話を片手にあわててデスクへ駆けた。ディスクトップパソコンでメールをチェックする。
「う、これは」
添付ファイルつきメール受信件数、数十件とある。どれもほぼ数分以内の受信時間であった。その送信者は岩ポン。だったらひとつにまとめて圧縮ファイルにすればいいのに、と思いかけて。デスクの端をつかんだ。すべての添付ファイルが圧縮ファイルであった。つまり合計すると百個近いファイルとなるわけで。
何を送ってきたんだ。
どれだけ送ってきたんだ。
どさくさにまぎれて関係ないファイルもあるんじゃ?
先生、と思わず涙声になる。
『おう、データが届いたようだな。ちゃんと開くか? それ、わかりにくくてよ。俺が途中までやったやつより元データがいいだろうと思ってな。学会事務局からのも送ったから』
「つまり、わたしにどうしろと?」
『お前に任せた。俺が何をやればいいのか、あとで連絡をくれ』
ちょっと待て。作業指示をくれるんじゃなくて、わたしが指示をする?
「確か先生って口頭発表をするんですよね。連絡って何を?」
『五件くらい口頭発表を申し込んだはずだ。んで、そのタイトルとかをお前にさっき聞こうとしたんだけどな。話してるうちにごちゃごちゃになったから、もう全部お前に任せる。いろいろ重複しないように頼むわ』
めまいがした。どういうこと? わたし、どうすればいいの?
おうそうだ、と岩ポンは続ける。
『招へい講演があったっけな。送ったデータにないからくわえてくれ。発表の時間がかぶっていたら、朋子お前が代わりに喋っとけ』
はあ? と声が裏返る。
「何を喋れと。内容も知らないし」
『問題ない。お前に送った試料の測定結果について喋るつもりだった。だからお前が一番わかってる内容ってことになるな』
「つまりまだデータがないと?」
『だからもちろん原稿もない。お前次第だ。自由にやれるぞ。よろしくな』
おい、と拳でデスクを叩く。見切り発進すぎるだろう。ぽぽぽんとペンギンたちも勢いよく背中から飛び出した。
肩で荒く息をして、いやいや落ち着け自分、と呪文を唱える。ペンギンたちを眺めて息を整える。いまここで岩ポンをなじっても話は進まない。より効率よくこの馬鹿ボスを動かすには。
「非常に不本意ですが、学会での先生の日程調整はわたしが確認をしましょう。重複する発表があったら、わたしがキャンセルしておきます。ですから当日は先生が全部喋ってください」
『アホか。発表申し込み締め切りはすぎてるだろうがよ。キャンセルしたら運営側がどれだけ困るか。つうか無理だ。俺さ。あちこちの座長も引き受けちまったはずだからな。やっぱり朋子が喋るしかないな』
「座長? 学会のグループセッションの元締めみたいな、あの座長ですよね。まさか同じ時間帯に別の会場の座長を引き受けたとか」
『そんなことはしてねえよ。多分。ああくそ。そうなってたらさすがにキャンセルしなくちゃな。その手配もやっといてくれ』
「何を基準にキャンセル? そもそもキャンセル前提でポンポンと受け入れるから」
朋子の嘆きを岩ポンはさえぎる。
『お前ならかぶったグループの調整は見りゃできるだろ? そのへんの兼ね合いがほかの学生はできねえんだよな。さすが朋子だよな』
持ちあげられても。朋子が「あのですね」と語気を強めると、岩ポンは『そういやあよ』と勝ち誇ったような声を出した。
『お前、ポスター発表しか申し込んでいなかったらしいな』
どうしてそれを。運営側か? バラしたの?
『学部四年じゃあるまいし、お前ともあろうものが口頭発表しねえなんて、って腹が立ったとこだったけどよ』
う、と身を縮める。
『アレだろ? 俺がこうなると踏んで、あえて申し込まなかったと。どこでもなんでも喋られるようにって気持ちの準備をしていたと』
「いやその」
『さすが朋子だ。ダテに長年のつき合いじゃねえよな。頼んだぞ』
ぶつりと通話が切れた。なんてことだ。デスクに突っ伏す朋子の頭をペンギンたちが踏みつけた。




