8.雨雲と雷雲
前世だとか、運命だとか、僕はそんなもの考えたことすらなかった―
ましてや高坂さんの言葉通りなら夢に見るのは自分の前世ということになるだろう。
それを確かめる術もないから前世なんて絶対にないとは言い切れないけれど、到底そんなもの信じ難い。
「今のワード全てが夢の内容だとは限りませんよ。現実の可能性もあり得ますしね」
目の前の男性は自分のあごに軽く手を添えると、一枚目をテーブルに戻し二枚目のカードを指さしながら言った。
一枚目とはまた別の絵柄で、文字らしきものが上側に来ている。どう見ても逆さまのカード。なんだか色味とか雰囲気からあまりよくなさそうな絵に見えた。
「それじゃ、今僕は呪われてるってことですか。そのせいで変な夢ばかり見るとか」
気分のいい話じゃない。
だがそれもはっきりとは言えないと彼は首を振る。
炎、死、呪い、それから恋人。それらは夢に見るけれどどうしても呪いだけはピンとこない。
ぐるぐると頭の中を巡る単語たちに僕は頭を抱えそうになった。
あるいは、彼女の仕業なのかもしれない。
真っ直ぐな艶のあるポニーテールの後姿が浮かんでくる。いやでも視界に入ってきてしまうからやたらと鮮明に覚えているのが悔しい。
ずっと普通に生きてきたつもりで誰かに恨みを買うような真似をした覚えもないけれど、彼女だけは僕をやけに嫌っているのだから可能性を捨てきれない。
明日から学校でどうしたらいい。普段から顔を付き合わせたところで話なんかする仲でもない。
だがそれ以上にそんな相手と同じ空間にいて今まで通りやれるだろうか。
嫌いなら嫌いでいっそそう言ってくれたらいいのに。できれば理由も添えて。
「ただ、悪夢は前より頻繁に見るようになってますよね?」
悶々と考えていたら急に彼の声で呼び戻された。
「え、そうですけど……」
そこまでは言った覚えがない。だがそれもぴたりと言い当てられてしまった。
「近々ちょっとした変化があるかと。それは良い変化と言えますが、大きな波紋を呼ぶことになるかもしれません。少なくとも夢はその警告でしょう」
「いい変化なのに警告?なにかあるんですか」
「人との縁が動きます。もし、誰かと仲違いしそうになったらその人の言動や行動に注意していてください」
つまりは誰かと喧嘩するということか。
有り得ない。
なんて言い切ってしまえたならよかったのに。
両親、兄弟、友人、今のところ誰とも仲は悪くないから誰にでも当てはまらなそうだと。
でも僕は不思議とその言葉が本当に起こりそうな気がして反論できなかった。
誰かと喧嘩した事なんてないからいまいち想像できないけれど。
話半分に聞いていいとは言われたがこうも真剣に言われると、不安を感じつつある。本音を言えば信じてしまいそうになる。
悪い結果なんて聞きたくはない。自分から頼んだことだがここでやめてほしいと思ってしまった。
自分の右手の親指の爪を見つめながらこれ以上聞きたくないことを聞かされる前に早く終われと願っていた。
「それから―」
まだ続くのか。そう思う間もなく最後のカードに手が伸びるのを疲れた目で見つめる。
無意識に体が身構えていたことに気付いて気付かれないように身じろぎした。
「そう遠くない未来、大きな二択を迫られる時が来ます」
「二択……?」
さっきから僕は彼の言葉を繰り返してばかりだ。それ以外に反応のしようがないのだが。
目の前の三枚のカード。たったこれだけなのに彼には何が見えているのだろう。あんなにつらつらとよく出てくるものだなと感心する。
「おそらくどちらを選んでも後悔は残ります。それでも選択が必要になることがある」
そう告げられて一瞬、僕は何のことかもわからないのに言葉を詰まらせた。
急にあの静かなBGMが耳に流れてきて、急に現実を思い出す。
僕はここがカフェだということを一瞬忘れていた。
「それってどちらも選ぶとかどちらも選ばないという選択はないんですか?」
「きみ次第、ですね。私が言えるのはここまでです」
暗に無理だと言われたような気がした。
高坂さん最後のカードをそっとテーブルに置いた。昨日の立川さんの時よりも随分丁寧に占ってくれたものだ。
「さて、占いはいかがでしたか?何か解決しそうでしょうか」
「どう、ですかね」
はっきり言って何も解決しそうにはない。
解決どころかむしろますます謎が深まるばかりだ。
「信じるも信じないもきみ次第です。ああ、それともうひとつ」
まだ言い足りないのか。そう思ってげんなりした顔を浮かべそうになる。
「夏音ちゃんがきみを呪っているということはないと思いますよ」
「っ!?」
虚を突かれてまぬけな顔をしてしまった気がする。
まただ。この人は僕が一言も挙げてすらいない彼女の名前を口にする。
まるでさっきまでの思考を読まれたみたいだ。
「そういえば昨日も言ってましたけど、雨崎さんと知り合いなんですか」
氷が解け始めて上の方が薄くなったオレンジジュースを口に含んでから尋ねた。
存在を忘れていたのだ。もったいない。
別に知りたくもないことだが、彼が僕のことを知っている理由はなんだろう。
ほとんど初対面も同然なのになぜこんなに親身になって話してくれるのか。
「ええ、常連さんですから」
「あの人僕の話なんかするんですか。学校じゃガン無視決められた挙句存在しないもののように扱われてるんですが」
こっちからも話しかけることなんてまずないけれど。
僕の愚痴でも言っているんだろうか。最近になって以前より関わらざるを得ない機会が増えてしまったものの基本は前と同じだ。
「いろんなお話をしますよ。学校のこととか、ね」
そう言って急に彼は微笑みを消した。
「あまり彼女を嫌わないであげてください」
「は…?」
「これは単に僕個人からのお願いです。彼女が選んだ道なので僕がとやかく言うことはできませんが」
彼女が選んだ道とは。なんだか含みのある言い方に引っかかりを覚えたけれど深く考えるのはよしておこう。
まるで自分のことのように悲しそうな顔をしながら彼は僕に笑いかける。
その姿が、今朝の彼女と重なってどきりとした。
どうして揃いも揃ってこんなに思いつめた顔をしているのか僕にはさっぱり分からない。
いや、もしかしたら朝のは見間違いの可能性もある。
「嫌うなって言われてもあっちから嫌われてますし……。せめて言いたいことがあるなら言ってくれたらいいのに」
僕にはどうしようもないことだ。
「彼女、決してきみのことを嫌っているわけではないんです。むしろー……」
「なら、そんなに言いたくないことってなんなんですかね」
もし今更仲直りしてくれと言われても、どんな理由を言われてもきっと僕には無理だ。
ただ静かに知らない人のふりをしてこれからもいつも通りを貫くだけ。
長年積もった不信感はそうそう拭えるものじゃない。
この人は彼女と話すことができるからまずそう言えるのであって、僕とは前提が違うじゃないか。
「すみません。ずっと不仲なのでちょっと感情的になりました。ごちそうさまです。僕、そろそろ帰りますね」
飲み干して空になったグラスが妙に虚しい今の自分の心のようだった。
「……ええ」
彼はまだ何か言いたげな表情だったが気付かないふりをした。
善意なのだろうがこれ以上雨崎さんの肩を持たれたって簡単に気持ちは変わらない。
ほんの一瞬、占いをちゃんとやってもらった分の金額まで請求されるかと思ったが代金はオレンジジュース一杯分だけだった。
「またよかったらいらしてください。ご友人も誘って」
「気が向いたら」
また来るかは分からない。
結局占ってもらって帰るという相談なのかなんなのか結果に終わったけれど。
それでも誰かに悪夢の話をだけでも気持ちが楽になった気がする。
かららん
あの乾いた金属音が僕を送り出す。帰って宿題でもしよう。
そんなことを思いながら一歩外に踏み出した。
「あ」
揺れる、馬の尻尾みたいな髪の毛。
目が合ったのは、意志の強そうな凜とした瞳。
今まさに僕が出てきたばかりの扉に手を伸ばしかけた状態で固まる少女。
口を僅かに開けて、目を見開いている。
噂をすればなんとやら。
うんざりするのも忘れてあまりにも驚いたせいで僕も動けない。
またか。
―僕の目の前には雨崎夏音が立っていた。