1.曇りのち雨
―きっかけは、なんだっけ。もう覚えてないけれど。
僕と彼女はすこぶる仲が悪かった。
春だというのにまだ肌寒さが居座る教室前の廊下をとぼとぼ歩く。
職員室前を通りがかったのが運の尽き。僕は担任に捕まって、重たいプリントの束が入った段ボールを運ばされている最中だった。
ただでさえ、今日はよく眠れずにずっと憂鬱なままなのに。全く間が悪い。
突き当りの左方向から楽しそうな数人の女子の声がする。自分のクラスの方だ。
ばたばた足音がするから走っているのだろう。
僕は次に通り過ぎていくであろう声の主達を避けるために立ち止まった。
「知ってた?二丁目の通りに占いの店があるらしいよ」
「えーなにそれ!当たんの?」
占いなんてこんな田舎で流行るのだろうか。そんなどうでもいい疑問が浮かんですぐに忘れた。
あっという間に目の前を二人の女子が通り過ぎていく。やはり、もう一歩前に出ていれば危うくぶつかっていたかもしれない。
このプリントをぶちまければ確実に面倒くさいのは分かりきっている。そんなのは御免だ。
けれど僕はさらにその後ろを追いかけてくる人物がいることには気付いていなかった。
一人分の軽い足音。彼女達と同じ方向から走ってくる綺麗な黒髪をポニーテールに結わえた女子。
その姿を目にして思わず「あ」と喉が潰れた蛙のような声を出して足が止まった。
雨崎夏音。僕が一番苦手とする人間だ。
見るな。見るな。こっちを見るな。気付かないで通り過ぎてくれ。
心の中で唱えても聞こえるはずなんてない。そんなことは分かっている。
そのまま前だけ見て早く行ってくれればいいのに。願いも虚しくなぜか彼女はこちらを振り向いた。
ばちり。
効果音をつけるならこれだろう。思い切り目が合ってしまった。
くっきりとした意志の強そうな二重の瞳、柔らかな頬の輪郭。正直、特徴はあまりないが整った綺麗な顔立ちだと思う……多分。
自分の顔が強張っているのが分かる。無意識に口元がピクリと動く。
ああ、苦手だ。
目が合ったとたんそれまで笑顔が浮かんでいた彼女の顔からすうっと表情がなくなった。
これだ。“無”の目。僕が勝手にそう呼んでいるこの目が。彼女を苦手とする原因の一つだ。
彼女は僕を視界に入れるといつも感情が抜け落ちた様な目をするのだ。
あの目に僕は一片映らない。物理的な話ではなく、とにかく彼女は僕を避けたがっている様子だった。
自分がそらせばいいのになぜか固まった身体は言うことを聞いてくれなかった。
ほんの一瞬のことなのに、無駄にスロー再生されているように長く感じる。
僕が動揺して固まっている間に、時が再び動き出す。
何事もなかったかのように彼女は視線を戻すと先に行った二人を追いかけて行ってしまった。
何を考えているかは分からないけれど、彼女が僕に向ける感情は“無”だけ。
余程なにか先生に頼まれた用事でもなければ話もしないし近づかない。
この先もずっと彼女と僕に接点はない。関わることもしない。
そのつもりで、そのはずだったのに―