14.五月雨
月曜になって僕は立川さんの教室に顔を覗かせた。
二限目と三限目の間のほんの少し長い休み時間。彼女は僕に気付くとすぐに廊下に出てくれた。
雅智はトイレにでも行っているのかどうやらいないらしい。ある意味好都合だ。
「神無くん!この前大丈夫だったの?」
「うん。それよりこの前はごめん。せっかく誘ってくれたのに」
「それはいいよ。ねえ、もしかしてなにかあったの?私でよければ…その、神無くんの迷惑じゃなかったら、相談に乗るよ?」
下から覗き込むように見上げた彼女は心配そうな顔をしていた。
時々今この瞬間こそ夢なのではないかと思うことがある。
いつか夢と現実がごちゃごちゃになってしまうんじゃないか。
そんな恐怖がふと胸の内に湧きあがる。
「大丈夫だよ。ほんと」
「私にできることがあるなら言ってね?話だけでも聞くからね」
ふと考える。なぜ僕は彼女に言いたくないんだろう。
別に大したことでもないのではないだろうか。
「ありがと。それで、この間の……」
その時、自分の背後でバサッと何かが落ちる音がした。
誰か教科書でも落としたのだろう。反射的に体が反応して振り返る。
教室の後ろの出入口を出たところにいたのは、足元に教科書やノートを散乱させた雨崎さんだった。
一瞬だけ彼女と目が合った気がしてどきりとする。
勘違いでなければ彼女はこちらをみていたように思う。
なんとも言えない表情。なんだか少し悲しそうな……いや、きっと目の錯覚だ。
慌てて拾おうとしたのか屈んだ拍子にペンケースから中身をぶちまけていた。
チャックが空いていたのだろう。意外とそそっかしいのか。
周りの友人たちも急いでそれを拾い集めていた。
「神無くん?」
「いや、なんでもない」
遠慮がちにくい、とシャツの袖を引かれて僕は意識を引き戻される。
「おい、神無!次、長谷川だぞ。早く行かなきゃ怒られるって」
初めて、というか突然聞けば大抵の人はびっくりするくらい声の大きい同じクラスの友人が僕を呼ぶ。
案の定驚いた彼女の手がぱっと離れて僕の手は自由になった。
「あっ今日授業変更だっけ」
すっかり忘れていた。
それなら次は移動教室になる。
おまけに別の教室棟だから急がなければならない。
生徒間ではあまり評判の良くない先生だ。機嫌の悪い時に授業に遅れようものなら前半十分以上は説教に変わる。
憂鬱だ。どうしてこんな時にあの先生なんだ。
「分かった。ごめん、次移動だったから行くね」
「う、うん」
何か言おうと思っていたのに今ので言いたいことをすっかり忘れてしまった。
急かされる形で慌てて話を切り上げる。
立川さんはまだ何か言いたげな表情をしていたけれど、気づかないふりをして僕は立ち去った。
そうだ。この間の埋め合わせをするという話をしようとしていたのにすっかり言いそびれてしまったことを後になって思い出した。
まあ後でもいいだろう。
昼休みになってすぐ、僕は柄にもなく早々に弁当を掻きこんで図書室を訪れていた。
ちょっとかび臭いような、なんとも言えない独特な古い紙の匂いがほんのりと漂う静かな部屋。
今の時間僕以外の利用者は居ないらしい。そもそもうちの学校は図書室の利用率が低いのだ。
目的のタイトルを探して棚の間を彷徨い歩く。
探し物は一つ。シェイクスピアの描いた悲劇。悲恋の戯曲。
土曜に観た映画は観てはいたものの謎の頭痛に邪魔されて途中から内容が頭に入ってこなかったのだ。
あれから妙に気になってきちんと顛末を知りたくなった。
「これか」
溜息がでる。僕は普段漫画以外の本なんて基本的に読まない。
そんな人間からしたら一冊分の本と言うのはそれなりの量なわけで、これを読むのはあまり気が進まない。
一度は手を掛けた本から手を離す。
ネットで概要だけ調べてみればいいのかもしれない。
既に諦めモードに入った時だった。
「珍しいね図書室にいるの」
「あっ雨崎さん!」
いつの間に入って来たのかすぐ隣に彼女が立っていたせいで変な悲鳴を上げてしまった。
他に利用者が誰も居なくて良かった。
「なんでここに」
「なんでって、本を借りに来たんだけど」
何言ってんの、という顔をしている。そう言った雨崎さんは一冊の本を手にしていた。
もちろん図書室に本を借りに来るのは至極当然のことなのだが。
彼女が話しかけてきた時はどうも構えてしまう。染みついた癖のようなものだ。
「図書室よく来るの?」
「たまにね」
あ、今自然に会話できている。
‘無’じゃない目。ちゃんと彼女の目に僕が映っている。
彼女とこうして話すなんてつい最近まで有り得ない話だったというのに。
むしろ話すどころか避けられていたおかげで特段用事もなく彼女と接近するということ自体考えられなかった。
あまりにさり気なく、そして平然と話しかけられたせいでなんだか調子が狂う。
「ねえ、それ面白くないよ」
「えっ」
彼女が指さしたのは丁度僕が手にした本だった。
日本語訳されたロミオとジュリエット。
おそらく長くここに置かれているのだろう。ボロボロ、とまではいかないが表紙は年季が入っている。
読んだこともないから何とも言えないが、世界的に有名なこの物語をそんなにすっぱり言い切るとは。
「一般的には面白いのかもしれないけどね。私、悲劇は大嫌いだから」
そう言った彼女の横顔はどこか曇っている。
「内容は知ってる?」
「一応この前今やってる映画観に行ったんだけど、途中で具合悪くなってあんまり」
「あのミュージカルアレンジのやつね」
大々的に宣伝されていたからそれはまあ彼女も知っているだろう。
評判も結構よかったみたいだから面白いものだと思っていたけれど。
「反目し合う家の二人が出会って恋に落ちるの。でも結局それは家とか、しがらみだとか、いろんな障害に阻まれて叶わない。二人共最期は空回りしてすれ違って死んでしまう……」
ふ、と彼女は鼻で笑うように息を吐いた。
なぜだろう。少しだけその時の表情が大人びて見えた気がして、どきりとした。
「最悪じゃない?周りの勝手な都合で本人たちには自由がないなんて」
「それは……確かに」
どうしてか分からないけれど少しだけ、ずきりと頭が痛んだ。
時代が違えばそういうこともままあったのかもしれない。
「なんか意外。雨崎さんってこういうのとか好きそうだと思った」
「そう?ふふ、真逆だよ。お腹抱えて笑えるくらいの喜劇なら好き。漫画とかの方がもっと読むけど」
僕は多分今随分と間抜けな顔をしているんじゃないだろうか。
それにしたって彼女は何かが吹っ切れたのかあまりに自然に、普通の事のようにはなしかけてくる。
これまでの数年間が嘘のようだ。
「でも正直言うとその話私も最後まで読めてないの。途中で読む気なくなっちゃって」
「そういうこともあるんだ。それって、もやっとしないの」
「別にしないよ。だって最期は知ってるし、物語を最後まで読まなきゃいけない義務なんてないでしょ」
いつの間選んだのか、彼女の手には二冊目の本があった。
「それも、そうだね」
「物語はハッピーエンドがいいよ」
興味が失せたのかそう言うと雨崎さんは図書カウンターに向かって行った。
本を借りるには一応貸出カードに記入が必要だ。
カウンターが無人なこともあるためそういう時は自分で記入していくらしい。
「……なんか似た話を知ってる気がするんだ」
自分で言ってはっとした。
別に会話を続ける必要なんてなかったのについ口を出ていた。
足を止めて雨崎さんは振り返る。
「ふーん?神無くんはバッドエンドでも普通に読める方なんだ」
「多分」
「そっか。強いんだね」
くるりとその言葉と共に僕に背を向けたから、ポニーテールがふわりと揺れた。
彼女がよく分からない。
頭上で球切れしかけているのか、ちらちらと蛍光灯が点滅し始めた。




