13.朝靄
香ばしいにんにくの香り、乳白色のスープ。肉厚で柔らかな二枚のチャーシューが存在を主張する。
それを囲むように配置された紅ショウガとメンマと海苔が絶妙に彩を添えている。
運ばれてきたとんこつラーメンは店で一押しのメニューだ。
ずずずっと一息に熱々の麺を啜ればスープの絡んだ旨味一杯の味がガツンと口の中に広がる。
なんて言えばいいのか分からないけどとにかくこの絶妙な味がたまらなく美味しい。
「はあ、旨い」
急に気が抜けてさっきまで思っていた以上に緊張していたことに気が付いた。
雨崎さんが去った後しばらくその場から動けなかったのだ。
雅智からの着信のおかげでようやく我に返って約束のラーメン屋にさっき着いて今に至る。
カウンターの端の目立たない席。別に決まってるわけじゃないけれどいつもの定位置だ。
「疲れてんなあ。なに話してきたんだよ?」
僕のため息に、隣で分厚いチャーシューと格闘していた雅智が目ざとく反応してきた。
「別に大したことじゃなかったよ」
先程までの学校での会話を話していいものかほんの少し考えてやっぱりやめた。自分だって半信半疑なのだから。
ただ、彼女の話は半分信じがたいけれどあの顔は嘘をついているようにも見えなかった。
第一嘘を吐く理由も見当たらない。
ずっ、とスープを飲んでまた麺を口に運ぶ。
気が抜けたら喋るのがもったいないくらい空腹に苛まれていた。
「この前の工場見学のレポートのことだった。同じ班だからさ」
「それならいいけどさ」
雅智はレンゲを器の縁に引っ掛けて、一度箸を置いた。
「あんま関わらないようにしとけよ」
いつになく真剣な顔をしていた雅智につられて箸が止まる。
決して強い口調ではなかったものの言葉通りあまり僕と雨崎さんが関わるのを歓迎していないように見えた。
「お前雨崎さんのこと好きなの?」
珍しい、あまり人をどうこう言うことのない彼が言うなんて。
「いやなんでそうなる。だってお前だけあからさまに避けられててさ。理由もなしだろ?友達としてはなんかちょっと好感度低いよ」
その理由をさっき聞いてきたわけだが雅智が知る由もない。
だが、彼の言い分はもちろん自分だって同意だ。
「まあね。今まで通りでしょ」
「気をつけろよ、お前ちょっとお人好しなところあるし」
雨崎さんとの会話を見透かされたようでドキリとした。
自分にできることはないかなんて発言をしてきたばかりだ。
それでもさっきの彼女からは悪意を感じなかった。……気がする。
もちろん彼女のことは今も変わらず苦手なままだけれど。
「何考えてるか分かんないよね」
止めていた箸を再び口に運びながら僕はぼやいた。
勘違いと言われたらそれまでだが、あんな顔をされたら突っぱねてしまうことなんてできなかった。
「それよりお人好しって言ったらそっちだろ。立川さんのこと……あ!」
ふと、頭の片隅に寄せていた別の事案が浮上する。
立川さんから今朝映画に誘われたことを思い出した。
何も今思い出さなくてもよかったのに。
「どした?」
「いや、なんでもない」
「なんだよ。怪しいな」
訝しむというかこれは面白がってこちらの出方を窺っている顔だ。
余計なことを言うんじゃなかった。
「……土曜に映画観に行こうって誘われた」
「ひゅう!なにそれ行くのか!!」
「わざとらしいな。もしかして知ってたろ」
まるで自分のことのように喜んでいるそっちこそお人好しだと思う、とは言わないでおいた。
この友人はたまに自分より僕のことを優先しようとする節がある。人に喜んでもらうことが好きなタイプなのだ。
「いや知ってはなかった。ただなんか福引で映画のタダ券当たったって言ってたのは聞いたけど」
うんうんと腕組みして頷く姿はまるで近所の世話好きなおばさんかと言いたくなる。
自分の迂闊さに顔を覆いたくなった。
「デートねえ。やっぱ立川と付き合う気になったのか」
「違うって。まだ行くって言ってないし」
「でも断る理由もないんだろ。まさか適当に理由付けて行かないつもり?」
そう言われて僕は言葉に詰まってしまった。
「当たり前だろ。行ってその、期待……させるのって、立川さんにも悪いし」
「いいんじゃね?そこまで考えなくて。多分立川も分かってるよ」
歯切れの悪い僕の言葉を聞いて、雅智は笑って言った。
「だったら尚更……!」
「映画観に行くだけだと思えばいいんじゃん?」
そう思えたら楽だろう。でも僕にはそんな気にはどうしてもなれなかった。
「いや、ちゃんと断る。そういうのよくないと思うから」
「固いなあ。草食系かよ」
つまらなそうにラーメンに視線を戻した雅智に、僕は肩を落とした。
これでいい。そのつもりでいたのに―
土曜日、昼近くになって僕は映画館のある地元のショッピングモールにやってきていた。
断ると言っておきながらのこのこ足を運んだ理由は、自分のうっかりにより立川さんに借りを作ってしまったせいだ。
なんてことはない。ただ教科書を忘れて貸してもらったというそれだけのこと。
されど結構それは大きかった。少なくとも自分の中では。
なぜならその教科の担当は生徒間でも相当怖いと評判の先生だったから。
忘れたらまあ間違いなくちくちくちくちく小言を食らったり当てられる回数が増える。
ここでどうして雅智に借りなかったかと言われれば、彼も同じものを忘れてくるという偶然が重なったせい。
他のクラスの友人に頼もうとしたがそれより早く近くにいた立川さんが親切心で自分の物を差し出してくれたのだった。
あえて素早くそうしてくれたのは多分ちょっと策士だと思う。
そんなわけで固く決意していた筈の断りを入れられないまま僕は軽く天を仰いだ。
建物内だから風船やらきらきらしたテープやらが張りめぐらされた天井しか見えない。
立川さんはまだ来ていなくてなんだか自分が張り切っているみたいだ。
施設内の壁に設置されたデジタル時計は待ち合わせ時間を三分過ぎたところだった。
とりあえず彼女に連絡しようとしたが、連絡先を知らないことを思い出して携帯端末の画面をみて固まってしまう。
丁度その時、こちらに駆けてくる足音に気が付いた。
「ごめんね。待たせちゃったでしょ!!」
相当急いだのか息を切らしてひらひらするスカートの裾をなびかせながら彼女は走って来た。
私服なんてみることがないから新鮮だ。小さな花のあしらわれたロングスカートがよく似合っている。
「別に。それより走ってきたの?」
「あっうん。親に送ってもらったんだけど道が混んでて……ほんとにごめんね」
大袈裟に謝る彼女を宥めて五分程度なら別に大したことはない事を伝えると安堵の表情を浮かべていた。
とりあえずいつまでも留まっているより目的の映画館へ向かう方がいい。
休日だからそれなりに人がいる。事前に何を観るか決めていなくて上映作品を見て悩む。
正直どれも大して興味が湧かずに悩みもしたが、結局は今話題とかいうロミオとジュリエットのミュージカルアレンジ版というものに決定した。
英語や字幕はいまいち分からないので吹き替えの方にした。
原作は読んだことがない。立川さんもらしい。
知っていることは憎しみ合う二つの家の男女が恋に落ち、そして最後は悲恋を遂げるみたいな話だった気がする。
そんな程度の軽い気持ちで劇場に入った。
「凄くお話がよくできてるんだって。友達が観に行ったらしいんだけどね」
わくわくした様子の彼女の気分を盛り下げないように聞き役に徹する。
大して期待もせずにそのまま上映が始まってなるほどと思った。
想像よりも面白い。大体大筋は自分が知っていることとかけ離れてはいなかったがちゃんとそれぞれの演技がしっかりしていて魅入られる。
だが後半になるにつれて僕はそれどころではなくなった。
ジュリエットが仮死の薬を飲むあたりからずきずきと頭が痛み始めたのだ。
「痛っ……」
このタイミングでなにかを思い出しそうになるが靄が掛かって分からない。
暗いのが幸いしたがラストのおそらくロミオが服毒したあたりからの記憶が薄い。
いつの間にか気づけば館内の明かりがついていて心配そうにこちらをみる立川さんの顔がすぐ近くにいた。
「神無くん、顔色悪いよ。大丈夫?」
「う、ん。ちょっと頭痛くて。休めばすぐ直ると思う、から」
ずきずきする。だが上映中よりはいくらかマシになった。
頭を抑えつつ、僕らは劇場をでて休める場所を探してどうにかフードコートに辿り着いた。
「水持ってくるね!神無くんはここに座ってて!」
僕を空いた席に座らせると慌てて彼女は水を貰いに行ってくれた。
これでは彼女に迷惑をかけてばかりじゃないか。
「ごめん。せっかく誘ってくれたのに」
「ううん。それよりもしかしてまた寝不足だったの?」
今日はそうでもなかった。ちゃんと眠れたし具合が急に悪くなる原因を思い返しても見当がつかない。
でもとりあえず今はそういうことにしておいた。
「ちゃんと眠れたと思ったんだけど」
水を口に含んだらだいぶ痛みは無くなった。
それを言えば泣きそうな顔をして立川さんは家に帰ることを提案してきたのだ。
あんなに楽しみにしている様子だったのにそれでは申し訳なさでいっぱいだ。
「具合悪いなら帰ってちゃんと休んだ方がいいよ。そんな顔色で歩く方が心配だもん」
自分ではもう大丈夫な気がするがどうやらまだ顔色が悪いらしい。
彼女の好意を無碍にもできず僕は帰宅を選択した。
家族に連絡する間もずっとついていてくれた彼女はとても心強かった。
なぜこのタイミングで謎の頭痛が来たのかはどれだけ考えても分からなかったがその時の彼女の表情をみて強く後悔した。




