10.遠雷
「今のどういう―っ」
たたみかけるように口を開いた僕を、背後から響いたパンッという乾いた音が遮った。
「はいはい。店先では困りますよお客様方」
背後にいたのは長髪のカフェ店員だった。どうやら手を打ち鳴らした音のようだ。
にこやかに立っているもののどことなくうすら寒い気配を感じる。
彼の姿をみてようやく僕は我に返った。
ここは公道で、人通りも決して少なくはない。周囲の目がこちらに刺さる。
おまけにここは店を出て立った一歩の場所。営業妨害も甚だしい。
恥ずかしさと気まずさで僕は顔に熱が上るのを感じた。
「よろしければうちの店をお貸ししますが、いかがです?」
だというのに怒るどころかそんなことを言いだすなんて。この際、都合がいい。
ここですぐ頷いてしまえばよかったのに。僕は喉に接着剤でも張り付けたように何も言えなくなってしまった。
さっきの勢いはどうしたんだと言いたいくらいになんの言葉が出てこなくて池の鯉みたいに口を開け閉めする動作を繰り返す。
「真尋さんごめんなさい!私、今日は用事を思い出したので帰ります」
僕は肝心なところで甘かった。高坂さんの登場に驚いて彼女の手をいつの間にか放してしまっていたらしい。
雨崎さんは一言告げて、こちらには目もくれず僕の横をするりと抜け出した。
空っぽになった僕の手が残される。
「あ、ちょっと!!!」
思ったより足が速い。みるみるうちに走り去ってしまう背中を僕は追いかけられずに見送ってしまった。
「……なんなんだ」
もしかして今のはわざとだろうか。僕はちらりと高坂真尋という男性を盗み見る。
確かに店の前で騒いだのはこちらが悪いけれど、なんとなく彼女を助けたように見えた。
きっと店の中から出も見えたことだろう。僕が強引に彼女の手を掴んだりしたから。
酷いことをしているように見えたに違いない。それも正直言って事実だし。
「行ってしまいましたか」
あまりに淡白にそう言ったように聞こえた。まるで他人事だ。
さらりと風に流された髪で表情は見えなかったけれど。
僕が知らない何かをこの人は知っているんだろうか。
そう考えるとなぜか心の中に靄が広がった。今日も晴れた空が苛立たしい。
「店の前で騒いですみませんでした。僕も帰ります」
たった一度かもしれない機会を失った僕は自分の中から何かが抜けていく気がして肩を落とした。
雑に鞄を肩へ掛け直す。
「神無君」
背を向けた僕を高坂さんは引き止める。
「なんですか」
ひら、とどこからともなく桜の花弁が降ってくる。
近くに桜の木でもあるのだろうか。
はらはら、はらはらと。まるで火の粉みたいで―
(あれ、今何か)
ちり、と電気が走ったような痛みを感じてこめかみを抑えた。
今一瞬何か大事なことを思い出しかけた気がする。
なのにちくちくと針で刺されるような痛みが始まって気が散漫になる。
大切なことは、なんだっけ。
「どうか夏音ちゃんを信じてあげてください」
普段なら眉の一つでも顰める台詞を言われたのに、今はそんなことを気にしていられなかった。
身体は何ともないしさっきまで全然普通だったのに。
急に襲ってきた地味な頭痛が思考の邪魔をする。
僕はとにかくこの場を離れたくて、小さく会釈してカフェを後にした。
それから数分。少し歩いたらすっかり頭の痛みも消えて少し落ち着いた。
ここでようやく僕は思い出す。「夏音ちゃん、火曜は絶対来ませんから」と言っていた彼の言葉を。
今日は木曜だ。もしかしたら高坂さんはこうして僕らが鉢合わせするのを善しとしていなかったのではないだろうか。
「あれ、諒じゃん。何してんの?用事は?」
家に帰るつもりでふらふらと歩いていたら雅智に行き合った。
手には本一つ分くらいの小さな紙袋を持っている。大方本屋の帰りだろう。
そういえば今日は用事があるからと一人でさっさと学校を出たから放課後は会っていない。
「ちょっと親戚ん家に行ってきた」
「ふーん」
別に隠す必要もないのだが咄嗟に口からでたのは嘘だった。
僅かな罪悪感があるが、説明するのも難しい。
「お前、なんかちょっと疲れてない?」
ぐっと言葉に詰まる。この男、こういうところが鋭いのだ。
「親戚のおばさんお喋りだからさ」
「あー」
申し訳ないがまあこれに関して嘘はいっていない。
親戚の家でお喋りに付き合っていたら疲れた、という体で通そう。
「んじゃ、今帰るとこか?」
「まあね。雅智は本屋行ってきたとこだろ」
用事はもう済んだ。この後どこかに寄る予定があったわけでもない。
むしろ今日は帰りたい。
「きょう漫画の新刊発売日だったからな。今日は帰ってこれ読むんだ」
ちょっと意外だ。いつもならこういう時寄り道して何かつまんで帰ることが多いのに今日はその誘いはなかった。
僕はあまり自分から声を掛ける方ではないから珍しいなと思う。
明日ラーメン食べる約束をしたからそれもまあ不思議ではないけれど。
もしかして気を遣われたんだろうか。そんなに疲れた顔をしているのだろうか。
なんとはなしに自分の顔を片手でべたべたと触ってみる。
「なにしてんだ?」
怪訝な顔でみられたが笑って誤魔化した。
「そういえばさ。昨日占いで立川さんが言われてたんだけど、雅智は運命ってあると思う?」
歩きながら高坂さんに言われた言葉を思い出してふと隣を歩く友人に問いかけてみる。
自分がそんなことを言いだせば急になにと言われそうだったからぼかしてみる。
「……さあな」
急に黙り込んだかと思えば大きく間をとって返事はそれだった。
「それだけ?」
「女子が好きそうな話題じゃん。俺そういうのあんま好きじゃねえわ。運命とかそういうの」
「へえ、意外。お前なら可愛い子と運命的な出会いがどうとかっていうかと思った」
僕が隣に視線を向けると思ったよりも真顔をしていた。
雅智っぽくないななんて勝手に思った。ただの僕のイメージの押し付けに過ぎないけれど。
「俺のイメージどんな?まあ、俺ならなんかそういうぼやっとしたものに頼りたくないかなってだけだよ」
「ふーん」
会話が途絶えてしまい。無言で歩く。
いつものことだから気にもならないけれど黙ってしまうと僕はカフェでの雨崎さんが浮かんできて落ち着かない。
分からないことだらけで無意識に溜息を付いてしまった。
「諒さ、なんかあっただろ」
目ざとい雅智はそんな小さなことに気づいたのか住宅街の途中で足を止めた。
「なんで」
「普段運命となんとか聞いてくるキャラじゃねえっしょ。言いたくなきゃ無理に聞かねえけど」
僕のことなのになぜか雅智が一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。
いつもの溌剌とした表情は沈んでしまっている。
ついっと目を逸らしてその顔には気づかないふりをする。
「ん……別に大したことないから」
決して強がりじゃない。本当にそう思ったから口にしたのだ。
それでも雅智はどこか寂しそうな顔をする。そんなに聞きたかったのだろうか。
雅智には関係ないことだからあまり迷惑はかけたくない。
「それじゃ。明日ラーメン忘れないでよ」
「あ、おう!じゃあな」
何事もなかったかのように分かれてそれぞれの自宅への帰路を辿る。
「そういえばなんで僕の名前知ってたんだろ」
ふと自宅の玄関前に来てドアノブに手を掛けたところで思い出したことがあった。
あの時、高坂さんは確かに僕の名字を呼んだ。
頭痛のせいであの時は何とも思わなかったけれど今思えば名乗った覚えはない。名前の書いた私物を持ち歩いても居ない。
仮に雨崎さんに聞いていたとしてなぜそこまで彼は僕のことを知っている。
分からないことだらけだ。
自宅に入れば分かりきってはいたがまだ誰も帰ってきていなかった。
両親は出張中、妹も部活で帰りが遅い。ひとりのろのろと階段を上がって自室に入り、すぐにベッドに飛び込んだ。
襲ってきた眠気に身体を預け、沈む意識の中で焔を見た気がした。




