7. 理解しようとさえすれば…
表面上は変わりなく過ぎていく。
けれど中身はぐちゃぐちゃだった。
あの日以降、母が私に払う関心が、意図して薄くされだした。
チラチラ様子を伺っているのは知っている。
だけど、それに応える気はなかった。
母は腹を立てていたが、私も母に腹が立っていた。
母は待っているのだ。私が白旗を挙げるのを!
『ちゃんと言うこと聞くから、いい子になるから!だから、私を無視しないで!!』
と。
子どもは無条件に親の愛を求める。
何処でも言われている真理だ。
私のことを軽く流して、妹を殊更見せつけるように可愛がる母に傷つかなかった訳じゃない。
だけど、私にも言い分があった。
母の期待に沿うものじゃないのをわかっていても、やりたいことがあった。
やりたいことをする代わりに、母の希望も出来る限り頑張った。
学校の担任が言ったように、その成果は、『最良』ではなかったけど、『優良』にはなった。
母は、『最良』のみに価値を見出し、それ以外を不要として切り捨てた。
母が価値として認めるもの以外に目を向ける私に、母にとっての不要物を捨てさせようとしている。
その手段として用いたものが、子どもにとってどれだけ酷いことなのか、きっとわかっていないのだろう。
一つしか年の違わない姉妹を道具にして、私たちの双方に、
親の言うことを聞かなければこうなるぞ?
と脅しをかけたのだ。
どうしてそんなことが上手くいくと思うのだろうか?
これは、譲歩するしないの域を超えている。
母が私に望んでいるのは、完全なる屈服で隷属だ。
一度でも頷けば、私の自由は奪われてしまう。
母の言う『勉強』以外を取り上げられて、母の価値観である『成績』上げを強要される。
少しでも反発すれば、今度はもっと酷い仕打ちを受けるだろう。
母のモノになるのだ。
それをさも、自分の意志であるように振る舞わなければならなくなる。
私は、嫌だった。
父の仕事を見ていた。
私に出来ることが増えるたびに、祖父母は手放しで喜んでくれた。
勉強を放り出した訳でもなければ、勉強しなくないと駄々を捏ねた訳でもない。
ただ、テストの点数として現れた成果が、母を満足させなかっただけ。
それだけなのだ。
急に姉への態度が変わった母に動揺したのは妹も同じ。
けれど、姉に素っ気なくなった反面、妹への過度な優遇が、彼女にお門違いの優越感を植え付けた。
母が、
『親に反抗ばかりする那和と違って、雅は素直ね。
雅はちゃんと勉強しなさいね?
お姉ちゃんみたいにサボってると将来苦労するわよ!』
と何度も言い聞かせていたからだ。
成績をキープするだけで上を目指さない私にますます頑なになった母は、テストの点数に文句をつけるだけで、その他は無関心を装った。
反対に勉学に打ち込む雅を褒めそやし、最初の私と同様、徐々に成績を伸ばしていく彼女を、私とは違って褒め称えた。
私の反応を気に掛けながら。
雅は、そんな母の表面だけを見て、だんだんと私を見下し、彼女の努力以上の傲慢さを身につけていったのだ。
自分は姉よりもずっと優れていて、そんな自分を母は一等愛していると。
母と私と妹と、
子どもじみた意地の張り合い。
血縁としての、自分の親への、子どもへの甘え。
それが本人たちに留まらず、最も近い場所にいた姉妹が煽りをくらった。
母娘と姉妹。
影響力は母のほうが強かった。
私は家族の括り以外に、祖父母という理解者がいた。
雅には父と母だけ。
母も父を愛しているが、父の仕事のことは否定的だ。
プログラマーは、クライアントからの仕事が立て込めば、容易に家族の時間を犠牲にする。
帰宅が深夜に及ぶのもザラだった。
母は不満を漏らしていたが、自分が働きに出る気はまるでなく、そのことについて強く出たことはない。
必然的に家族と接する時間が少なかった父は、私たちの巧妙に隠された不和を、長期間見過ごすことになったのだ。
そして、
気づいたときには既に手遅れ。
それぞれの立ち位置は確定された後で、遅すぎた父の苦言は反発を生むだけ。
雅は母に傾倒し、母は私を邪険に扱う。
未成年、世間体、考えられる理由は色々あったが、私は、『茨木』という家の中で、血縁という繋がりを持って場を間借りしているだけの他人になりつつあった。
父に心配を掛けたくないと相談しなかったことは、今でも間違っていたのではないか?と思うことがある。
祖父母が、頻繁に愚痴を溢す私の話を真剣に聞いてくれたことも大きい。
あれがなければ、私は母の言いなりになっていただろう。
……雅には悪いことをした。
でも、当時の私は、自分のことで精一杯だったのだ。
つもりの無関心が演技ではなくなっていた頃、私は受験生として、志望校の選択を迫られていた。
姉妹だけでなく、父と母の確執によってこの先に不安が生まれていたため、遠方の学校に行くことは憚られたが、かといって、近隣に条件の合う学校は少ない。
考えに考えた結果、少し家からは遠いけど、偏差値が高く、次々と新しい試みを評価され始めていた新興校への進学を希望した。
無関心になったといっても、考えの凝り固まった母に余計な小言と横やりを入れられるのは避けたかったし、何よりも祖父母の家へ行く時間を削りたくはなかったからだ。
『誠新学園高等学校』は新興校だけあって、今のところ悪い噂を聞かないが、歴史が浅い分、その部分の評価は吟味途中なのである。
何か問題が起きれば、一気に悪評として出回るだろう。
しかし逆を言えば、学校側も他校との差別化を図るために、何か新しいことに挑戦しようとする生徒への後押しが格段に良い。
由緒正しいとされるような、古い歴史や伝統を持つところではこうはいかないのだ。
何故なら、校風、評価が既に固まっているのならば、それに外れる行為は忌避されるから。
『それならばどうしてココにきたのか?』
そう言われること請け合いである。
大多数が認知し、望んで入学する、もしくは入学させる。そうなった根本を変えようとすると、それらの有り様を希望している者たちから、排斥の憂き目にあうのは当たり前なのだ。
不穏な影が付きまとっている状態で、自身の希望をも押し通そうとするのなら、評価が固まっていない学校というのは、可能性という意味でも都合が良かった。
一応の礼儀として事務的な報告はしたが、母は鼻を鳴らしただけで、自分が知らぬ名の高校に蔑んだ目を向けてきただけだった。
私が行えない手続きは父と、祖父母が協力してくれたことで何とかなった。
周囲の目を気にする母が、そこだけはしてあげる、と押しつけがましく迫ってきたが、とっくにやるべきことは終わっていたうえ、任せたなら、これまでの腹いせから態とミスされる懸念があるくらいには、信用信頼ともに消え去っていたので、丁重にお断りした。
埋めようの無くなりかけていた溝がますます広がった気がしたが、もう今更である。
決別を決心させるような決定的なことはされてなくても、日々の小さな積み重ねが、母への信用を削り、自分にとって大切なことに関わらせることすら厭うほどに、信頼を刮ぎ取らせていた。
日付すら確認されなかった入学式には、父一人だけが来たのだから。
受験前の提出書類では『普通』科を希望していた。
それなのに合格通知に記載されていたのは、『特進』科。
様々な思惑の結果とはいえ、私の試験結果は、学校側の基準を大きく上回っていたようなのだ。
母は目を通そうともしなかったから知らないが、父や祖父母と相談して、そのまま進学することを決めた。
普通科に比べて特進科の授業はかなり難しいと聞いて、造園設計の勉強をもっと進めたかった私は、時間のゆとりが持てるだろう普通科を希望したが、学校側から進学科を変更する程に好成績を取れたのなら、余程のことが無い限り授業にもついていけるだろうと話し合ってのことだった。
入学してからは、設計には必須になる科目に比重を置いて勉強し、それ以外は落第点を取らないようにだけ注意して過ごした。
中学のときとは違って、教科による成績の差が顕著に開き始めたので、何も知らない母が危機感を感じたらしく、またくどくどと見当違いの小言を言いにきたけど、そうは言っても、最も低い点数を取ったものでも平均点。
図面を素早く理解するために必要となる数学の成績は、数 Ⅰ 、数Aともに、発表されたなら表彰台に上がれるくらいにはあった筈だ。
全校生徒が同一に受けるテスト以外にも、特進科には、普通科にはない考査が別に設けられている。
統一テストの主要科目五科。その科目数は同じで特進科専用の応用問題テスト。
簡単に言えば、普通科を基準にして、選択難易度ハードモード、と言ったところだろう。
各生徒に配られる成績分布表は、私の所属している特進科と普通科では、また内容も違ったものであったのだ。
母はそれを知らぬまま、また知ろうとしないで、ただ点数だけを目の敵にして私を罵った。
中学のときの三学期制とは違う、二学期制のことについても、興味を持つ様子は見られなかった。
普通科と特進科の扱いは、同じ単位を取る授業でも、購入させられる教科書が普通科よりも多かったり、放課後になる時間の一時限分、九十分が、希望者だけの集中講義という名の実質授業時間になる。欠席する生徒は皆無で、成績への強化体制が元から取られていた。
教師陣にも力が入っていて、最初のホームルームどきから、担任からして有名大学進学への心構えを説いてきた程であった。
違ったのは、ただただ努力しろと言うのではなく、朝ご飯はパンよりご飯の方がゆっくり消化されて糖の吸収持続時間が長いので脳の活動に効果的だとか。
夜中まで起きて勉強するより、心身の疲れがまだ溜まってない朝がいいので早起きする習慣をつけよう、だとか。
電車通学中に聞く音楽を、海外アーティストにすればリスニング力が鍛えられる、とか。
笑ってしまうくらい、やろうと思えば誰にでも出来ることを、具体的に、かつ真剣に教えてくれたのだ。
勉強しろ!成績を上げろ!
と散々口にしていた母が、一度も言わなかった、実行しなかったことである。
………我が家の朝ご飯は、ずっと変わらずパン食だった。
生徒による、ちょっとふざけた質問が飛んだりもしたが、教師はそれを切って捨てることなく、肯定を返して生徒を驚かせたりもした。
『俺、勉強ばっかじゃなくてテレビゲームとかしたいんですけど、センセは怒る?』
『勉強と一言言っても、紙に印刷された問題に正解という名の塗り絵するだけじゃ脳が腐る。やっていい。むしろやれ!
それだけにのめり込みさえしなけりゃ、違うことを始めるときの、頭の切り替えをするには丁度いいくらいだ。
法に触れない範囲なら、色んなことをしていい。ただし成績は落とすな!
特進科として、一定水準以上をキープしろ!
それが、お前たちがしたいことの免罪符になる。
先輩のなかには、どうしても将来行きたい業種への研究所見学に当選して、定期試験を休んだヤツもいたくらいだ。
親教師のどちらも聞いてなくて騒ぎになってな?
だけどソイツの真剣さに心打たれた向こうさんの取りなしで、再試験とはならなかったものの、短期インターンシップと無理矢理こじつけてレポート提出させたら、何処の辞典だ?と言われるくらいに分厚い冊子を出してきてな。
学生が書いたにしてはあまりに出来が良すぎる代物だってことで、足りない部分を追加させて、学園長の推薦付きで企業コンペに応募させた。
大きい賞は取れなかったが、着眼点の目新しさと、問題点への切り口が斬新で審査員の目に留まってな?
表現が拙すぎるってことで年齢を確認した人がビックリして、学園を通して連絡を取ってきたんだ。
その生徒は口添えをしてくれた研究所と度々連絡をとってたみたいで、研究所の責任者まで出てくる事態になって、あまりそういう方面への進学に乗り気じゃなかった親の説得までして、専門科がある大学への特待生として、企業側の援助付きで通うことになった。
三年の定期試験でやらかしたんだ。
まだ前期中間だったのが救いだったな……。
援助をした企業と、生徒を後押しした研究所は、今その生徒を通して提携を結んでる。
ここまでの事態は稀だろうが、お前たちが真剣ならこの学園は後押しするぞ?
親が否定的なら実績を作ればいいんだ!
授業や、試験。試験はなるべく避けて欲しいが…、どうしても休みたいなら相談してこい。事情によっては考慮するし、親への言い訳も考えてやる。
それが許されるのがこの学園の特進科だ!先輩たちの実績なんだ!
普通科と一緒のことをして無難に卒業するのもお前たちの選択だが、やる気があるならやってみろ!ただし真剣にだ。中途半端ならやめておけ、後に続く後輩たちの足枷になる。
お前たちは学園の後押しで他では出来ないことに挑戦する。
学園はお前たちの功績で世間の評価を得る。
まだ出来たばかりで、挑戦者大歓迎という学園の方針がいつまで続くかはわからんが、そういう意味じゃお前たちは運がいいぞ?』
盛大に笑いながら話された内容は、質問を投げかけた以外の生徒たちの度肝を抜いた。
他の教師も、センター試験科目で選択しない科目の授業中は数学をしとけ、だの。そもそもその科目の教師がそれを推奨した。
『赤点さえ取らなければいい』
と、キッパリ。
就職希望の生徒と、私立大学進学希望の生徒は決まった時点で言ってこい、と言う。
どうして?と聞く生徒に、その生徒に必要のない科目の数字を、他の生徒に回せるから。と言った。
『まあ、本格的に進路が決まってからの話だけど?』
だそうだが、ここまで赤裸々なものなのか?と驚いた。
『煩そうな親には言わないでくれよ?
お前たちも自分の自由制限されたくないだろ?』
と言うが、やれるだけやりきって、それでも後一歩届かない生徒への救済的処置ではあるそうだ。
過去にこの手法を抗議した保護者もいたらしかったが、そういう生徒こそ救済対象だったりして、だったら、貴方の子どもが志望している大学のランク下げてください。内申点的に非常に厳しくなります。と比較プリントまで作成して緊急懇談を行ったところ黙ったそうだ。
とんだ脅しである。
特進科は、各学年七クラスある中で二クラスだけ。
入試の時点で成績の良い生徒を集めている。
だから、特進科の中だけでみれば大したことのない成績も、学年全体からみれば上位に食い込んでいるのは当然であった。
もちろんギリギリの成績で入って、学年が上がったときに普通科へ変更する生徒もいれば、普通科から特進科へくる生徒もいる。
特進クラスで息切れしていた生徒が、普通クラスになった途端トップに躍り出てやる気が復活。成績が飛躍的に上がったり、普通クラスから来た生徒が、勉強への姿勢はともかく、特進クラスにいる生徒の自由奔放ぶりに目を剥いたりと、互いの認識に対するギャップが大きすぎて偶に混乱したりもする。
茨木那和は、家族関係の修復を諦めてしまっていたが故に、こういった学園事情を家で話す機会がなかった。
相談、世間話、会話と呼ばれるような話全ては、祖父母宅にて行われていたのである。
それは、那和の妹、『茨木雅』が姉と同じ高校への進学を希望し、姉とは違う普通科の生徒として入学してきたことで、すれ違い続けてきた互いの齟齬を表面化させ、後の大事件に繋がっていったのだ。