2. 綺麗事と出せない本音
昨夜、いつものように、ちょっとしたお節介にも見える面倒ごとを起こして押しつけてくれた彼女が去ったあと、いつもには無い反応を返してきた男の名は『真田瑛二』と言うらしい。
ああいう場面では、大体の輩が現場から逃げようとするか、助けられたことに礼を言いつつも怯えを滲ませ、見返りを要求されるのでは?と、こちらの機嫌を損ねないよう媚を売りつつ様子を伺ってくる。
そのどちらでもなかった。
突拍子もない、彼女の言動、行動はいつものことで、俺は呆れつつも肯首し、特に気を使うことはない。
そんな言葉のなかに、起こった出来事とは全く関係なく、けれど滑稽にしか思えない指摘を受けて、さらにそれを彼女に伝えて欲しいと言う。
礼もあるにはあったが、そちらの方がよっぽどこじつけでしかなく、明らかに予備校帰りの様相をした、真面目そうに見える彼が言い放ったものとは思えないチグハグさだった。
自分の容姿が整っているほうだとは自覚している。
頭の回転も速いほうだ。
両親が共に開業医を営んでいることもあって、それなりに裕福な暮らしをさせて貰っていると思う。
年上の兄が医学部に進学していて、跡を継ぐのは決定しているも同然だから、俺自身の進路をとやかく言われることもない。
いや、そもそも兄のときもなかった。
『したいことがあればすれば良い、反対はしない。
自分に合うものを色々試してみるのもいいだろう。
だけど、親の脛かじりを引き伸ばすためのパフォーマンスなら放りだす!
期限は切らないがちゃんと考えてみなさい』
と言われたのが中学に入って直ぐの頃。
兄はどうだったのか知らないが、俺は『まだまだ先の話じゃん?何言ってんの??』くらいにしか思ってなかった。
既に、親の跡を継ぐため、と言われて、私立中学の進学校を受験させられた同級生を何人も知りながら。
同じような境遇にあって、気持ちの持ちようが真逆にすら思える『同級生』たちのなかにいたことで、意識して伸しかかる抑圧の軽かった俺は気づいてしまった。
心にゆとりがあったおかげとも言う。
『同じ』仲間内で起こる、足の引っ張り合い。
どちらがより優秀なのかと、僅かの差を噂しあって貶めあう醜悪さ。
あれで隠しているつもりなのか?と疑うスクールカーストは確かにあって、事なかれ主義を貫く教師たちをみて納得した。
『君たちの将来のため、勉学に励むことは重要である』
と大人たちは言う。
しかし、言われた子どもの誰もが一度は疑問に思う、
『必死に良い成績をとっても“幸せ”になれない人が大勢いるのは何故?』
という疑問に答えが返されることはない。
曖昧に笑うか、本人の資質の問題だったなどと、外へ責任の所在を押しつけるだけで、自らの発言への責任は取らないのだ。
彼ら自身が過去にそう教育され、自分の意志なくそのままソレを模倣しているに過ぎないから。
『それは正しいことである』
と擦り込まれ、けれど決して間違いでもなかったことから、疑問への明確な答えがないことを、『人それぞれ』であると誤魔化し、自分だけの答えにたどり着くことを美徳とする。
……確かに間違いではない。
ただし、そう声高に称賛するのであらば、『アンタがたどり着いた答えを例として提示してみろ!』
と思わなくもない。
言葉に出すようなマネはしないが。
結局は、
気持ちの問題、心の持ちよう
との結論に達したが、正解かどうかはともかく、誰に何を言われたところで意見を変えるつもりはないのだ。
参考に、と兄に問うてみたところ、
『そう言っとけば、とりあえずいい学校に行かせたい保護者への言い訳と誤魔化しが同時にできるし、成績向上を掲げる学校教師の面目も立つ。誰からみても模範的な先生だしな?
口ではなんだかんだ言ったところで、対人関係にも一定の画一性を無意識に求めるこの国じゃ、周囲と同じ考え方を持ってることは重要だ。
たかが生徒のために出る杭になる気はないってことさ。
あとは……、そうだな、
将来の夢っつうか、ビジョンを持ってないなら、勉強して知識蓄えとけば、やりたいことが見つかったときに他の奴より有利になるかも?ってとこか?
見つからないならないで、潰しが利くって言うだろ?
したいことがある奴なら、最初からそっちの方に労力つぎ込んで、他をおざなりにしても上手くいくことも多い。
単なる取捨選択。
要領よく、ってことだ!
ただ、『成功』『失敗』の判断は完全に個人の思考に依存するから、同じ結果になったとして、『幸』『不幸』の判断も別れる。
自発的な努力か、押しつけによる抑えつけか、俺たちの親は違うが、自分の子を所有物と見なして選択権すら与えない連中もいる。
そんな状況で出した成果を、周囲からみて素晴らしいと評価されても、果たして当の本人が心から喜べるか?と言われたら難しいだろ?』
とのことだ。
俺はなるほどと共感できたが、同級生全員が頷くとは思わない。
考え方の似通った人物同士に限り、正論であった。
本当の意味で『意見』という名の主張を述べる機会は少なく、また、実行に移す人物も多くない。
本音と建前を分けることは当たり前で、それは俺と他人の関係にも現れている。
俺が、ではない。
自分でない人を不快にさせないための配慮が必要なのは当然である。
俺は、自分がした配慮の分だけ、相手にもソレを求める。
両親を知って、俺自身も医者になるだろうと値踏みされた上で求められる繋がり。
容姿を、外面の穏やかさだけを見て、近づいてくる異性。
嫉妬をもって見つめる視線。
全てがそうではないが、どれも俺にとっては煩わしいことでしかなかった。
相手もそうだと分かっていながら、内面を、本性を知り、知って欲しいと願ってしまう。
それでいて“友”になりたいと。
……多分、俺は認めた人以外の人間が嫌いなのだろう。
ここ数年において、『認める』ことができたのは、『彼女』だけだった。
だから驚いた。
俺がヒトを見るのは、ある意味では見極めに間違いないが、人間関係を構築するかどうかの選定ではなく、如何に浅く、当たり障りのない付き合いをする方法を選択するためだ。
侮られない程度には優秀で、妬み嫉みを向けられにくい人格設定。
深入りせずとも謂れのない言いがかりには、周囲が味方についてくれるだけの人望も必要で、バランスを取ることが難しい。
幾重にも猫を被り仮面をつけて、そんな中で互いを理解しあうことなど不可能。
もとよりする気もなかった。
傲慢ゆえの失望もあったと思う。
改める気はなくても、自覚は多分にあったからだ。
あの現場では、俺のそんな性質から滲みでる拒絶が発せられていたはずなのだ。
それなのに、
空気を読めないのか読まなかったのか、邪険にあしらった俺に、真田瑛二は普通の返答を返してきた。
ほんの少し呆けていたが、彼女が結果的に諍いから助けだしたことへの礼と、まさかそんなことは誰も思いつかないだろう伝言。
カツアゲなど無かったかのように、また、親しくはなくとも、顔見知りの知人程度の気安さで俺に接してきた。
雰囲気だけでもわかる年上への礼儀はあったが、彼のセリフを思い返すと、知人どころか初対面の人にするような内容ではない。
だから気になった。
考えてしまったのだ。
『真田瑛二』と友人になれたなら、これからも長く続いていくことが予想されている、退屈で虚偽に塗れた俺の『日常』に、それなりの充実をもたらすのではないのかと。
喧騒とは違った高揚から真田瑛二に名前を明かしたが、帰って興奮が冷めてしまえば、出てくるのはただ後悔だけだ。
思考回路に少しばかり読めないところがあっても、親に言われるまま塾に通うようなありふれた、きっと反抗もしない気弱な子どもだ。
今日のこの出来事を、余さず喋り、吹聴さえするかも知れない。
彼が言ったように実質的な被害自体は受けてないから、わざわざ大ごとにはしないだろうし、俺のことを探すこともないとは思う。
誰もが望む平凡な日常での俺は、見せる全てがそう見えるように作ったモノで、容姿すら変えて別人を演じてる。
俺自身が選択したリスクを、俺以外になるべく被せないようにするためだ。
俺の中で生まれ続ける矛盾と、言葉に当て嵌めてしまうには難しい葛藤は俺だけのモノで、誰にも肩がわりできるものではないことを知っている。
世間一般で言われる“危険な火遊び”は、確かに『何』かへの反抗かも知れなかったが、俺の場合、その『何』かは、俺が内包する俺自身のいくつかに別れ、磁石の同極のように反発し合う理解していてもどうにもならない矛盾そのもので、同世代の人間が抑えきれずに爆発させてしまう、世間の矛盾を押しつけてくる大人への反発とは似て非なるものであったから。
これもまた身勝手な落胆なのだろう。
興味を引かれ、勝手に期待し押しつけて、その彼が答えを俺に見せない前に、落第と決めつけて失望する。
………ああ。俺は、本当に酷い人間だ。