9話 「史実からの決別」
会談を終えると、俺は再び大橋家の家人に先導されながら、屋敷内を歩く。
その帰りの道すがら、頭の中を占めるのは、これからの動きであった。
『――楽市楽座、それまで特権を持っていた、座・問丸・株仲間を排除して、新興商業者の育成と、都市経済の活性化を図った施策』
同時に、これまでの「市、座」から、朝延・大名・国人領主・寺社領等々、複数の権力者が中間搾取していた状態を、大名のみが搾取する形とした。
これにより、比較的、市場が健全化すると共に、大名の市場に対する影響力を拡大、絶大的な領主権を確立するに至った。
なるほど、市場の規制緩和と健全化、大変結構な施策だ。
が、これは完全な自由市場を意味しない。
何故なら、大名は依然市場への影響力を保持、いや、むしろ増大させたのだから。
この施策の裏には、市場を統制しようという大名の意図がある。
そして、大名が市場への影響力を強めるにつれ、ある特定の商人もまた、その力を増大させることとなった。
その商人とは、大名と結びつきの強い御用商人たちである。
彼ら御用商人は、楽市楽座以降も、厳然とした権益を握り続けたのだ。
清濁併せ持つ、光と影がある施策、楽市楽座。
しかし、俺たちの目的の為に、この影こそが重要であった。
俺たちの目的は、商人たちに矢銭徴課を課すこと。
では、この楽市楽座で如何にして、説得するのか?
それは、矢銭徴課に応じた一部の商人たちに、楽市楽座後の市場において、その権益を約束することに他ならない。
そう、矢銭徴課に応じれば、その後の楽市楽座が敷かれた市場内でも、織田の御用商人として権益を握り続けられると、メリットを提示するのだ。
さてさて、そうは言っても、誰でも彼でも、銭を出せば御用商人化させるというわけにもいかない。
例えば、熱田一の織物屋と、熱田二番手の織物屋、これを同時に御用商人化しても、何が何やらだ。
ライバルに差をつけるための権益だ。ライバルも有していては意味が無い。
熱田、津島の大商人たち、彼らの中から味方に引き入れる者。そうでない者。これを早急に選別しなくてはならないわけだ。
そして、その後に、味方に引き入れるべき大商人を説得して回る。
理屈で言えば、俺たちの要請を受けた商人が、これを断る理由はない。
そう、その筈だ。
ただ、余りに突飛な施策なだけに、彼らの理解を得るのも一苦労だろう。
そうでなくても、良きにしろ悪しきにしろ、人は本能的に変化を嫌うもの。
大商人たちの変化に対する警戒心、これを和らげるには、一朝一夕ではいかないかもしれない。
まあ、そこらへんは、俺たちの頑張り次第か。
熱田は俺が、津島は重長が、それぞれ説得して回る。……うん?
考えを巡らせながら歩いていると、ふと、視線を感じた。
俺は足を止めると、視線を感じた方に振り向く。
果たしてそこには、建物の陰から顔を覗かせている娘がいた。
ぱっちりとした大きな瞳。それに強い第一印象を受ける娘。
その大きな瞳と視線が合わさるや、娘は慌てたように顔を引っ込めてしまった。
……今の娘は?
「どうかされましたか、大山様?」
先導する家人が、急に足を止めた俺に、不思議そうに問い掛けてくる。
「ああ。いや……なんでもありません」
俺はそう言って、再び歩みを進める。
今の娘は誰だろうか? ひょっとすると……。
一転、俺の頭の中は、先程の娘のことで一杯になる。
俺は垣間見た、娘の顔を脳裏に浮かべながら帰途についた。
****
それからの日々は、矢のように過ぎ去って行った。
熱田の目ぼしい大店の旦那たちの元を、足を使って回る日々。
膝付合せて、懇々と新たな枠組み、楽市楽座のことを説明する。
時に、楽市楽座が齎す、熱田の発展を熱く語り、美しい夢を見せてやる。
時に、織田に協力した後に得られる権益で、ライバル商人を蹴落としてしまえと唆す。
楽市楽座が持つ、光と影。その両側面から、大商人たちを説得していく。
ある程度、大商人たちの了解を得れば、次は具体的に話を詰めていく。
これは、商人だけでなく、織田家中の役人連中も巻き込んでの話し合いだ。
当然ではある。領内に敷かれる新制度のことなのだから。
だが、余り歓迎できるものでもない。
同じ人種である商人だけなら、まだ話が早い。しかし、ここに役人が加われば、そうもいかない。
話は紛糾し、暗礁に乗り上げかねない事態も、多々起った。
それでも、辛抱強く打合せを重ねていく。
夏が終わり、秋が過ぎ、冬が訪れる。長い、長い、新制度作りの日々。
無論、その間に、信長もじっと待っているばかりではない。
来る大攻勢に備えて、足掛かりを築くべく、国境に頻繁に進出。
国境沿いの小城を攻め取っていく。
桶狭間の勝勢そのままに、勢いづいた織田の攻勢すさまじく。
それら小競り合いは、おおむね織田側優勢となった。
やれ、かかれ柴田が活躍しただの、米五郎左が活躍しただの、という話が頻繁に舞い込んでくる。
そして、そんな主だった諸将にまぎれて、稀に漏れ聞こえてくる名前があった。
曰く、木下某とかいう男、目覚ましい戦功こそないものの。誰もが嫌がる仕事を率先して引き受け、各地を駆けずり回っておる。
音を上げず、慌ただしい働きに耐えうるその様、まさに木綿の如し、と。
ふん、猿木藤も頑張っていると見える。
銭振りかざして、部下に発破をかけている様が目に浮かぶようだ。
俺も負けちゃいられねえな。
そんな藤吉郎の活躍にも励まされながら、あーだ、こーだと、纏まらない話を纏めていく。そして――
桜の花が咲き誇る季節。俺たちは、清州城の大広間に座していた。
上座には、この城の主である信長が座する。
下座には、今回の働きかけを主導した、俺と重長の二人が先頭に座す。
その後ろには、熱田、津島に名高い大商人たちが居並ぶ。
彼らは、俺たちの説得に応じ、矢銭徴課を支払うことを飲んだ商人たちだ。
そう、未来に約束された利益を欲して。
「各々、大義である」
「「はっ!」」
俺たち商人は、信長に対して、その頭を一斉に下げたのだった。
永禄四年三月、信長は、史実に無い大規模な矢銭徴課を、熱田・津島に課す。
この瞬間、歴史の流れは、本来のそれとの決別を告げたのである。
そして、この流れを主導した大山、大橋両家の門出を祝すように、両家を結ぶ祝言の日が間近に迫っていた。
冒頭『』の二行は下記より引用。
「楽市・楽座」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』より。
2017年1月19日 (木) 10:18 UTC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7