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50話 「しず姫」

 足利義昭の使者一行は、岐阜城での歓待を受けた後、予定よりも数日長く岐阜に逗留することとなった。

 信長は今回、義昭の要請を無条件に飲むつもりであったから、折衝が長引いたとは思えない。ならば、この逗留期間の延長はむしろ、信長と光秀の会談が上首尾に終わったことを意味するのだと、そう考えるのが自然だろう。


 使者一行は岐阜城下の空いた屋敷――元々斉藤家重臣の屋敷――に入り、岐阜を発つまでの間、ここで過ごすこととなった。


 俺たち御用商人は、岐阜城を通じて一行への面会を打診。これが受け入れられて、一行が逗留する屋敷へと、数多文物を引っ提げて訪問。その様を見て、城下町の町民たちは驚き呆れることになったのである。


 まずは屋敷の大広間でご挨拶。次いで、これそれは、こうこう、こう云う名品で、と口上を交えての、贈り物の贈呈。一行全員への土産に、義昭への贈り物だ。

 一番豪勢なのは、当然義昭への贈り物であるが、最も気を払ったのは、光秀とその娘への贈り物である。


 光秀には、筆、墨、硯、紙の文房四宝を。言うまでもないが最上のものを用意した。

 ゴロツキのような武将ならこれに眉を顰めたろうが、光秀は俺たちの予想通りに喜んでくれた。

 そして光秀の娘――どうやら名をしず、しず姫というらしい。彼女には、新有松織や簪、その他身の回りの細々したもの。更に、源氏物語のような女性にも好まれそうな書物も贈った。


 女性受けしそうな装身具だけでなく、書の類も贈ったのは、彼女よりもむしろ彼女の父親、光秀の歓心を買おうという魂胆であったのだが……。

 ほら、まだ若いというより、どちらかというと幼いと言える娘には、着飾らせる物でなく、教養になるような文物を贈った方が、光秀は喜ぶのではないかと思ったからだ。

 只、この贈り物に関してはある意味、大きく予想を外したと言える。と言っても、光秀が難色を示したわけではない。

 そうではなく、しず姫自身が絢爛な着物などよりも、書の方を大層喜び、何度となく御礼の口上を述べたのであった。

 これには内心『えっ、あ、そっちなんだ……』と、若干もやもやした思いを抱いたが、まあ、結果オーライ万事塞翁が馬である。


 贈り物お披露目会の後は、まあ、お決まりの宴会である。しず姫は宴が始まると、少しの間だけ宴席に加わってから早々に下がった。

 まだ娘である彼女には、酒の入る宴席に長らく同席せよというのも酷な話。中座するのもおかしなことではなかった。


 この宴席、最初こそは秩序を保っていたものだったが、各々酒が深くなるにつれ、無礼講に近いような騒ぎとなる。

 めいめい、好き勝手固まり、明るい、あるいは騒々しい談笑を交わしながら、更に一杯もう一杯と酒杯を重ねていく。

 そんな最中、俺は上座の光秀から、傍に寄るよう言い付けられたのだった。



「失礼します、明智様」

「うむ。酒の席だ。そう畏まらなくて構わんぞ、大山殿」


 俺は光秀の言に曖昧に微笑むに留める。そうして、こちらから酒を勧める。


「どうぞ一献」

「ありがとう」


 光秀の手の中の杯に並々と注ぐ。光秀はぐいっと一息に飲み干した。


「美味い。どれ、私からも……」


 そう言って光秀は手自ら、俺の杯に酒を注ごうとする。


「そんな……よろしいのですか? 畏れ多いことですが……」

「何を、私の酒は飲めぬと言うかね?」


 そんな絡み酒特有の台詞を口にするが、その声は穏やかなものだし、顔は悪戯気に笑んでいる。

 先の畏まらなくてよい、という言葉の通り、遠慮をするなということだろう。


「では、御言葉に甘えさせて頂いて……」

「うん。それでいい」


 光秀は満足げに頷くと、俺の杯に酒を注ぐ。


「ありがとうございます」


 礼を口にして、先の光秀と同じく一息に杯を飲み干す。


「良い飲みっぷりだ」

「いえいえ、大層なことでは……。そんなことより、此度は我々の申し出を受け、面会の機会をお与え下さり、ありがとうございました」

「礼など無用。私もお主と話したいと思っていたのだ」

「明智様が手前と……?」


 光秀は頷くと、ちらりと周囲を窺う。俺も釣られて周囲にさりげなく視線をやる。宴席の出席者たちは、それぞれの談笑に注意を傾け、こちらの話を窺っている者はいないようであった。

 それでも光秀は幾分声を抑えて話し始める。


「織田様と二人で話した。あの方が為そうとされていることをお聞かせ願ったよ。……私もその手伝いが出来れば、そう思っておる」


 俺は無言で頷く。先を促すような視線を向けた。


「ただ困ったことに、織田様が見ている景色は、私のような凡愚とは余りにかけ離れておる。彼の方の力になろうにも、今の私では余りに足らないモノが多すぎる。しかも、何が足りぬかも見当がつかぬ始末でな。……それで恥を忍んで、私に足らぬモノが何かを織田様に聞いてみたのじゃ」

「織田様は何と?」

「織田様は、大山殿、お主と話せばよいと仰られた。……織田様の造られる新しい世を知るには、商人を知る必要がある。そこでうってつけなのが、大山殿だと」


 ……なるほど、信長は俺に丸投げを図ったというわけだ。


「憚らずに言えば、私は文武においては人並み以上にこなす自負はあるが……。そろばん勘定の類には親しんでこなかったのでな。お主が良ければ、是非商売の話、そのあれこれを教えてもらいたいのじゃ」

「無論、喜んで。して、まず何から話せば良いでしょうか?」

「ではまず……」


 即席の講義は、光秀の問いに俺が答えていくという形式になった。光秀は良い生徒であった。聞き上手であるし、都度、都度尋ねる問い掛けは鋭いものが多く、俺の話をよく噛み砕いた上で、更なる問い掛けをしてくるのだ。

 彼が聡明で、理解力が高い証左であろう。また、商人風情に素直に教えを乞えるというのも、並大抵のことではない。普通なら、いらないプライドが刺激されそうなものだが。光秀に限っては、そのようなことがなかった。


 相手が良い生徒であれば、こちらの熱も入るというもの。光秀との問答は自然長話になる。その合間、合間で勧められるがままに杯を重ねたので、少しばかり深酒になってしまった。


「大山殿、ずいぶんと顔が赤いぞ。少し風に当たっては如何だ?」

「されど……」

「何、私も少し休憩を挟みたくてな。遠慮せず風に当たってまいれ」

「分かりました」


 気遣いを固辞し続けるのも悪い。俺は素直に光秀の言葉に甘えることにした。

 一人宴席を離れ、屋敷の中庭へと降り立つ。涼しい夜風を受けながら天を仰ぎ見ると、雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。

 俺はほうと、一つ嘆息を零す。


「美しい月ですね」


 不意に鈴を転がしたような声が響く。俺は反射的に声のした方を振り向く。果たして、その視線の先には、光秀の娘、しず姫が一人立っていた。


「こんばんは、大山様」

「これは、しず姫様……。もうお休みになられたとお聞きしましたが」

「養父たち大人が楽しげに御酒を召されておいでなのに、子供は大人しく寝ろとは何とも無体な話。そうは思いませんこと? ふふっ、だから内緒で抜け出してきてしまいました」


 そう言って悪戯げに微笑する。そんな若い娘らしい様子に、俺も釣られて笑みを浮かべる。


「ええ。お気持ちはよく分かります。それで、夜の散策に?」


 しず姫の笑みの色が変わる。どこか意味深なものへと。そうしてゆるりと首を振った。


「いいえ。少し違います。散策ではなく、蝶々狩りをと外に出たのです」

「蝶々狩り?」

「ええ」


 野原ならいざ知らず、屋敷の中庭、それも夜間に蝶々狩り? 字句通りとも思えない。何かの暗喩であろうか? 利発そうな娘だから、この手の言葉遊びを好むのかもしれない。


「ふむ、どのような蝶をお探しでしょう? この商人めにお手伝いできましょうか?」

「そうですね……」


 しず姫は小首を傾げる。さらりと夜のような黒髪が流れた。やがて鮮やかな紅を引いた唇が開く。


「じっとしていて下されば、それだけで」

「は?」


 しず姫はすっと足を踏み出す。

 俺のどこか間の抜けた疑問の声にも頓着せず、表情は穏やかなまま。


「私が探したのは、世にも稀なる蝶……」


 囁くように、唄うように言葉を重ねながら、ゆっくりとこちらに近づいて来る。


「その羽ばたき一つで、世界の裏側に竜巻を起こすような」


 どくんと心臓が跳ねた。

 彼女の言葉に無視しえないものがあった。その喩えは、まるで、まるで後世で有名になる言葉を指しているようで……。いや、まるでではなく明らかに……!


「おや、表情が変わりましたね? どうやら、間違いではなかったようです。……尾張を中心に起きた、本来あった筈の歴史とは異なる事象の数々。それらを精査すれば、かつての史に刻まれなかった男の名が渦中に常にあった」


 心臓の鼓動の音が増々激しくなる。うるさいくらいに。信じがたい言葉の数々に、頭の中は常に警鐘が鳴り響く。背中に嫌な汗をかいた。


「まあ、でも……余りにもあからさまだったから、本物の蝶々さんは別にいて、貴方はその手先なんじゃ? なんて深読みもしたものですが……。蝶々の下りで、そこまで動揺を見せるのなら、もう間違えありませんね」


 そこでしず姫はこてんと首を傾げる。


「それにしても、自分という実例があるのに、他に同類がいるのでは? そんな可能性を露ほども考慮しなかったのですか? もしそうなら、想像力に欠けると言わざるを得ませんね」


 そのような批判をくれつつ、しず姫は足を止める。彼女はもう、すぐ目の前に。


「でもそのお陰で、こうして見つけることが出来ました」


 しず姫は、ゆっくりと右腕を俺の胸の高さまで持ち上げて、まっすぐに腕を伸ばす。立てた人差し指を俺の胸に突きつけた。


「熱田商人、浅田屋大山源吉。お前こそが、私が探した蝶々の正体よ」


 しず姫は表情を一転、獲物を追い詰めた獣のような酷薄な笑みを浮かべたのだった。

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