5話 「禿げ鼠と、お姫様」
遥々、畿内から尾張まで戻ってきた。
真夏の旅路は、相当堪えた。
唯でさえ痩せ……少し細身の体が、もう少しだけ細身になった。
そんな苦労したのに、真っ直ぐ熱田に戻って休むわけにはいかない。
まずは、清州城に登城し、信長に報告せねばならない。
俺はまず、城下町で旅の垢を落とし、旅装から正装に着替える。
そして、真っ直ぐに大手門へと続く道を進む。
門を潜って、城の内部へ。
暫く歩いていると、唐突に子煩い声が聞こえてきた。
「おみゃあ、そこのおみゃあ、待つだぎゃ!」
声のした方を振り向く。
声の主と思われる男が、真っ直ぐ俺の元へと駆け寄ってくる。
どうやら、呼び止められたのは俺であったらしい。
俺は足を止めて、男が近づくのを待った。
「やっぱり、そうだぎゃ。おみゃあ、最近、御屋形様が気に掛けておられる商人だぎゃ。確か、浅田屋とかいう」
「左様ですが……」
俺は、男を観察する。
おそらく年の頃は、二十過ぎ、二十半ばには至っていまい。
俺より二、三歳年上といったところか。
小柄な体に、貧相な顔立ち、何とも小物臭のする風態。
だが、俺は警戒心を強める。
その瞳だ。その瞳に理知的な光が見え隠れする。この男は……。
「貴方は……」
「ほほー、面白い組み合わせじゃの!」
俺の問い掛けは、新たに上がった甲高い声に遮られる。
今度は誰だと、声の主を振り返る。そして思わず絶句した。
先に声を掛けてきた男よりも、ずっと身長が低い。
当然だ。声の主は女人、いや娘子であったから。
大層豪奢な着物を身に纏う。
だが、その着物すら、その主の華やかさの前に霞んでしまっている。
夜の闇を溶かしたような黒い長髪。
踏み荒らされてない初雪か、麗しい白磁のような、白い肌。
整った目鼻立ちに、白い小顔の中、唇に引いた紅が映える。
体躯は、硝子細工を思わせるように華奢だ。
年の頃は、12、3歳辺りだろうか?
まだ幼さが色濃く残るが、数年も経てば、間違いなく絶世の美女と評されるであろう、美しい少女が立っていた。
後ろに控える女人は、付き人か何かか。
「おみゃあ、頭を下げるだぎゃ!」
はっと、正気に戻る。
下を見れば、先程話し掛けてきた男が平伏している。
俺も見苦しくない程度に急いで、男に倣い平伏した。
並んで平伏する俺たちに、少女が近づいてくる。
「面を上げなさい」
「「はっ」」
俺たちは同時に顔を上げる。
見上げた俺の視線と、少女の視線が重なる。
「そなたが、兄上の仰っていた、うらなりですね。そうでしょう?」
「はっ。おそらくはそうでしょう。大山源吉と申します。……許されるなら、姫様の御名をお伺いしても?」
「そなた、わらわが誰か分からぬと申すか?」
少女がむっとした表情になる。
「お初にお目にかかる故。しかし、姫様がどなたであるか、想像はつきます」
「ほう。本当かの? では、わらわは誰じゃ?」
「身形から高貴な方と推測できます。そして、姫様の御年齢、何より、月花も霞む様な、大層麗しい御容貌から、答えは明白……」
俺は一拍置いて、答えを告げる。
「織田家が誇る美姫、上総介様の妹君、市姫様とお見受けいたします」
そうして、俺は市姫の顔を見上げる。
すると、どうしたわけか、市姫は頬を赤く染めてしまった。
「どうかされましたか?」
「そ、そなたが、歯の浮くような台詞を吐くからじゃ! それで、調子が狂うてしまったわ!」
俺は少しばかし小首を傾げてしまう。
「異なことを仰ります。市姫様ほどの御容貌なら、この程度の賛辞、聞き慣れておいででしょう?」
「馬鹿者! 質実剛健を地でいく武士は、そのような浮ついたことは口にせぬ!」
ははあ、なるほどと、俺は得心する。
「これは失礼を。何せ、我々商人は、武家様と違い、美しいと思えば、素直に美しいと口にする故」
「うなっ!」
市姫はますます頬を赤く染め、心なし潤んだ瞳を横に逸らしてしまう。
「い、市姫様! ひ、姫様が御容貌を褒めて欲しいなら、せ、拙者も、何度でも褒めさせてもらうだぎゃ!」
「黙りなさい! 禿げ鼠!」
「にゃ! も、申し訳ありませんだぎゃ!」
市姫が男を叱責する。男は反射的に謝りながら、額を地に擦りつける。
何とも情けない姿だが……。
禿げ鼠? 禿げ鼠と、市姫は言ったのか?
俺のうらなりよろしく、信長は人にあだ名を付けるのが好きだったという。
信長が、家臣に付けたあだ名、その内のいくつかは現代にも伝わっていた。
禿げ鼠、禿げ鼠といえば……。
「市、うらなり、禿げ鼠。珍しい組み合わせ三人が、一体何をしている?」
俺たちは、はっと、声のした方を見る。
俺と、禿げ鼠と呼ばれた男、市姫の付き人が平伏を、市姫が立礼する。
更なる登場人物、それは信長であった。
「それに、うらなり、貴様、帰っておったのか。ならば、畿内での報告を聞こう。それに、貴様に話したいことがある」
「はっ」
俺が短く答えると、信長はついてこいと言わんばかりに踵を返す。
俺がその後ろに続こうとした、その時。
「わらわも、御一緒しますわ、兄上!」
信長は、市姫に顔を向けると顔を顰める。
しかし、何も言わずに、歩き出す。
好きにしろ、そういうことだろう。
あの信長も、可愛い妹には甘いと見える。
「で、では、拙者も御一緒したく……」
「貴様はそこにいろ! 禿げ鼠!」
「にゃ!」
男は再び、額を地面に擦りつける。ああ、本当に情けない姿だが……。
俺は歩きながら、先に行く信長に問い掛ける。
「上総介様、先程の殿方は……」
「なんじゃ、誰か知らずに話しておったのか?」
「はい。御名前をお聞きしても?」
「あの禿げ鼠の名は、木下藤吉郎だ。が、そんな名は覚えんでもよい。禿げ鼠は、禿げ鼠じゃ」
「そうじゃ、そうじゃ」
市姫が楽しげに相槌を打つ。
木下藤吉郎、やはり。では、あの男が……後の天下人、太閤秀吉。
俺は、今日一日に出会った、歴史上の人物の多さに、少し眩暈をするような心地を味わった。