一章エピローグ 「日の本のユダと 」
四畳半の書斎には造りつけの机がおかれ、書院窓から差す温かな日の明かりを受けている。
机の前には一人の男が座している。年の頃は三十半ばを過ぎた辺りであろうか? 何やら書付をしているようで、淀みなく筆を動かしている。
書をしたためる男の姿勢は、正にこれぞ手本であると言うべく程に整っている。さらさらと紙面に走る字体は流麗なもの。
これらを切り取っただけでも、男が一角の教養人であることが窺える。
「……殿」
書斎の外から、若い娘のどこか遠慮したような呼び声が掛かる。
男は筆を止めて返事する。
「入りなさい」
「はい」
男の許しを得て一人の娘が書斎に入って来ると、楚々と下座に座る。年の頃は十二、三ばかり。着ている服装から判ずるに、この家の娘というより、この家で奉公する下女か何かのようである。しかし唯の下女にしては、立ち振る舞いが優美なもの。
余程主人の教育が行き届いているのであろう。何も知らぬ者は、そのように思うだろうが……。実は、この娘が男に召し抱えられてから、まだ然程の年月は経っていない。一年になるかどうか、その位の期間仕えているだけであった。
「急に呼びつけてすまないね」
「いいえ。丁度、姫様方のお勉強が一段落付いた所でしたので」
「ああ、そうか。今の時分は、娘たちの習い事の時間であったね。どうかな? 娘たちの勉学の進み具合は?」
「はい。皆様とても真面目なお気性なので、覚えがよく御座います」
「それは何より。だが、娘たちの覚えが良いのは、本人たちの気性よりも、最近ついた教育係が優秀であることの方が大きかろう」
「そんな……私など……」
娘が恥ずかし気に言葉を詰まらせる。
「ははっ、謙遜するものではない。仮名文字に漢字の読み書きはおろか、本朝や異朝の歴史、故事に通じ、歌も詠み、果ては、『論語』『老子』『孫子』『六韜』などの古典を諳んじる娘なぞ、私は他に会ったことはないよ。……京に足を運んだことはないが。あちらの公達の姫君たちは、斯様に教養あるものなのかな?」
「さあ……私も京のことは存じ上げませんで……」
顔を赤らめていたのが一転、娘はどこか暗い顔立ちで伏し目がちになる。
「すまない。別に詮索しようとしたわけではないのだ。……このご時世であるからな。皆、色々事情あるものだ。私とて、亡き道三公が敗れねば、今でも美濃でそれなりの立場にあったろうが……。現実は朝倉様に仕えているとはいえ、大したお役目も与えられず無聊をかこつばかりじゃ」
「そんな! 殿は決してそのような……!」
身の乗り出すようにする娘を、男は手で制する。
「よいよい。私がこの地で燻っているは、本当のことだからなあ」
「殿……」
「ああ、そのような顔はしなくてよい。実は、新しいお役目を任されることになったのじゃ」
「それは……おめでとうございます」
娘は言祝ぎながらも、物問いたげな視線を男にやる。男は苦笑して、娘の疑問に答えることにする。
「昨年、朝倉様を頼って先の公方様の弟君が越前に来られたのは知っているね?」
「はい。先だって還俗なされ、足利家の当主就任を宣言なされた御方ですね」
「うむ。畏れ多くも、その足利家の当主直々にお役目を賜った。使者として、織田上総介様に会いに美濃へ行くことになってな」
「織田上総介様への使者に……」
男は一つ頷くと、続けて娘に言葉をかける。
「どうかな? そなたも一緒に美濃に行かんか?」
「は? 私がですか?」
「うむ。そなた、最近日の出の勢いの織田様に興味を持っていたようではないか。分からなくもない。織田様は、勢いあるだけでなく、色々と目新しいことをしているからな。美濃に行けば、変化著しい織田領の一端を見聞することが出来よう」
「しかし、この屋敷でのお仕事が……」
そのように渋る娘に、男はほがらかに笑いかける。
「構わぬ。私の下に来てから一年余り、休むことなくよく働いてくれた礼じゃ。息抜きに、美濃見物をしてもバチは当たらぬよ」
「そうでしょうか? ……ならば、御言葉に甘えさせて頂きます。美濃見物、とても楽しみに御座います」
「そうか、それは良かった。思う存分羽を伸ばすと良い。お役目で行く私はそうもいかないが……」
男は苦笑しつつ、肩を竦めて見せる。
それを見た娘は微笑むと、少し悪戯気な声を出す。
「あら、そうは仰られても。殿は、今天下に名を轟かせておられる織田様にお会いできるのですから。少しは苦労なさらないと、釣り合いが取れぬというもの」
「そうかもしれぬな。実際、織田様にお会いするのは楽しみではあるのだ。そなたも会ってみたいか?」
「それは勿論、お会いしたいですわ」
「そうか。会わせてやれれば良いのだが……」
そんな男の言葉に、娘は呆れたような顔をする。
「殿、一介の下女が、織田様にお会い出来る筈がないでしょう」
「うーむ。私の娘であっても駄目だろうか?」
「えっ?」
娘はまじまじと男の顔を見る。男は、んん! と軽く咳払いすると、改まったように娘に向き直る。
「実は、前々から考えておったのだが。しず、そなた、私の養子になる気はないか?」
「何を仰られて……私のような氏素性も知れぬ……」
男は首を左右に振る。
「私はここ一年、そなたのことを見てきた。働き者であるし、気立ても良い。そして、私が今まであったどの娘よりも賢い。是非、そなたを娘に迎えたい。お前が義姉であったら、昨年生まれた珠なども、賢い義姉の背を見て立派に育つと思うのじゃ」
「しかし……」
「私の娘になるのが嫌でなければ、どうか断ってくれるな」
「…………」
長い沈黙が降りる。やがて娘は決心したのか深々と頭を下げる。
「殿、身に余る光栄です。図々しくはありますが、その儀をお受けしたく思います」
「そうか! 嬉しきことよ! だが、私の呼び方を間違えておるぞ」
一瞬、娘は何を言われたか分からなかったようだが、すぐに男の言葉の意味を悟り、改めて挨拶することとする。
「どうか、宜しくお願い致します、義父上」
その娘の言葉に、男は満足げに頷く。
「美濃行きが益々楽しみになったな。さて、自慢の娘を織田様にお披露目するのが叶うかどうか……」
「義父上」
「ん。何かな?」
「実はもう一人、お会いしたい人物がいるのです」
「ほう。それは誰じゃ?」
娘は深々と下げていた頭を上げると、義父となった男の顔を見て、ゆっくりと口を開く。
「織田様の御用商人、浅田屋大山源吉」
娘は囁くようにその名を告げた。