27話 「窮鼠」
尾張国内にて、織田家中の家臣団と御用商人が対立しているとの噂が、公然の秘密と言わんばかりに広まっていた。
その中身は以下のようなものである。
――武乱怒事業なる大きな役割を果たし、織田様に目覚ましい貢献をする御用商人たちに、織田家中の者たちは大いに嫉妬している。
また、御用商人たちも大した働きなく士分というだけで自らを見下す織田家中の者たちを快く思っていない。
国主織田上総介が御用商人たちを庇いつつ、両者の衝突を抑えているがため、未だ表立った衝突はない。ないが、それも時間の問題である。
特に、柴田佐久間らの御用商人に対する悪感情凄まじく、両名がこのまま大人しくしている筈がない。
御用商人たちも両名を警戒し、この二人を何とか失脚させられぬかと策謀している。
などと、町人共が訳知り顔で、ここだけの話だと斯様な噂を得意げに語り出す始末となっていた。
この事態に際し、織田上総介は自らの名で触れを出す。
――近々聞こえてくる噂は全くの事実無根。織田に敵意ある他領の謀である。
噂を信じて、軽挙妄動に走るべからず、と。
問題が噴出するは、尾張国内だけに留まらぬ。
なんと、尾張と三河の御用商人、この両者の間に軋轢が発生したのである。
尾張商人は、有松で武乱怒という稀なる名声、品質を有す産物を生み出したは、自分たち尾張商人だという自負がある。
故に、三河の協力は理解しても、尾張三河の御用商人が武乱怒事業で同列に扱われるは納得いかぬとの不満を発露。
三河商人は、武乱怒事業においてどちらの貢献が上ということもなし。互いが事業の両輪である、と主張。
にもかかわらず、居丈高な尾張商人の傲慢さは度し難いと怒る。
尾張三河、両御用商人の間に走る軋轢。そして、下の軋轢は次第にその上へと伝播するものであったのか?
傍目に、織田上総介と松平蔵人佐の仲が、次第に悪い方向へと傾いているように映っていった。
そんな折のこと、三河の関にて尾張の商隊が締め出されるという事件が発生する。
といっても、これは不幸な行き違いによる錯誤であったのだが。ここ最近の情勢を鑑みて、織田側は松平に厳重に抗議。再発の防止を要請した。
受けて松平側は、素直に非を認め、織田に詫びると共に再発の防止を誓った。
普通ならば、これにて一件落着。……のはずが、そう容易く終わらなかった。またもや噂が飛び交う。
――実はこの一件、錯誤ではない。織田に常々不満を持っていた松平が、一種の意趣返しにと、悪意を以て織田の商隊を締め出したのだ。
そんな風説が両国で実しやかに流れたのだった。
多方面で都合の悪い噂が蔓延するを厭うた織田上総介は再度触れを出す。
――ここ最近の悪意ある噂は、先日の言通り織田松平への他領からの攻撃である。
国内に敵の間者が潜り込み、流言飛語をばら撒くものなり。
故に信長は、ここに監査奉行所を新設し、間者の捕縛に全力を尽くすものである。
その触れの直後、織田上総介はまず洗い出すは身内からと、織田家中での大規模な聞き取り調査を実施する。
ただこれは、実際に間者を見つけ出すことを期待したものではなかった。
そう、一種のパフォーマンスである。
不都合な噂から、人々の耳目関心を逸らす為の見世物。そういった性格の強い、組織の設立と行動であった。
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――くそ、今川子飼いの商人からの連絡がない。何故だ?
まさか、まさか見限られたのか? 何故だ! 何故なのだ!?
くっ、……織田家に出仕したものの、出世の芽はいっかな出る兆しが見えぬ。
ばかりか、成り上がりの商人にすら見下されかねない始末。いや、殿の中では実質的に下に置かれておろう。
このまま織田にいても未来はない。
そう思い、思い切って今川の申し出に乗ったというに! 今川にまで見限られたというのか!
まだある。問題はそればかりではない。
殿の音頭で結成された監査奉行所。これの調べが日に日に厳しくなっておる。
万に一つ、私の寝返りが明るみになれば……。恐ろしいことだ。私まで、あの愚かな青木と同じ末路を辿るというのか!?
それだけは、それだけは何とか回避せねば。
……足が付く前に、織田を出奔し今川に逃げ込めばどうか?
されど、認め難きことだが、どうやら今川に見限られてしまっておるようだ。
今、今川に走っても、相手にされぬだろう。命は拾えるかもしれぬが、未来の展望はない。
なれば、なれば! 何か、何か手土産を用意すればどうか!?
今川が両手を広げて迎え入れてくれるような、そんな手土産を!
手土産には何が最適か? ……決まっておる。忌々しい御用商人たちの中心に立つ男。武乱怒なる奇天烈な商売を始めた大山源吉。あの男の首だ。
大山の首を差し出せば、今川とて私を無碍には扱うまい。
手土産は決まった。ならば、後は手筈を整えるだけ。
丁度良い機会がある。風の噂によれば、先日完成したばかりという新有松織の新意匠。これの殿へのお披露目を兼ねた献上として、近く大山が登城してくるという。
どこぞ、大山が通る道の途中で待ち伏せて、襲撃をかける。それで仕留めるだけよ。
だが警戒すべきこともある。確か、大山は小癪なことに腕の立つ用心棒を何人か雇い入れたはずだ。それら、用心棒に守られた大山の首を獲る必要がある。
であるなら、こちらも人数を揃える必要があろう。
私と、弟たち。それから、何人かならず者たちを揃えるか。
……銭がいるな。
ふん、まあよい。卑しく銭儲けに勤しむ商人が標的なのだ。
死体の懐か袖口を漁れば、御釣りが出るほどの銭袋が見つかるだろうよ。
思えば、分を弁えず増長する商人など、目障りで目障りで仕方なかったのだ! この事態はあるいは天の配剤か。
くくっ、あの忌々しい商人を葬り、かつ私の未来が開ける。正に一石二鳥ではないか!
大山を切り伏せる。その未来を夢想すれば、ああ、気が昂るばかりよ!
ははは、目に物見せてくれるぞ、大山源吉! 覚悟しておれ!
木戸を締め切り月の光も遮った暗がりの中で、私は大いに笑って見せたのだった。