12話 「祝言」
いよいよ、娘の祝言の日が訪れた。
今、大橋家一行は、輿入れのために大山家に向かっていた。
ワシは藤が乗っている輿を横目に見ながら、物思いに耽る。
出立前、白無垢姿の娘の姿を見て、ワシは感慨を覚えた。が、それと同時に、拭いきれぬ不安も覚えたのだ。
娘、藤の顔の造りは、おおむね妻のそれに似通っていた。
美姫と名高い妻に似たのだ。大変結構なこと。
されど、唯一点、大き過ぎる目だけは、ワシに似てしまった。
ワシの場合は構うまい。何せ、男だ。
やれ、大橋の当主は目力がある。凄味がある。などと、まだ好意的な受け取られ方をした。
実際、交渉事で、この目力が役に立ったことも少なくない。
弊害と言えば、道ですれ違った童が、ワシの顔を見て泣き出すくらいか。
……それはそれで、何とも弱り切ってしまうが。
だが、その程度の、詰まらぬ悩みである。
しかし、女人である藤は違う。
小さな頃から、ぎょろ目、ぎょろ目と呼ばわれ、どんなに辛かったろうか?
どうしてワシに似てしまったのか? 不憫でならないし、ワシがこんな目をしていたばかりにと、自責の念に駆られた。娘に申し訳が無かった。
娘はそれでも、中々気立ての良い娘に育ってくれた。
ただ一点の気掛かりは、丁度年頃の見合う男と相対する時だけに、娘が見せる卑屈さであった。
言うまでもなく、それは自身の容姿から来るものに相違なかった。
そのような時には、普段の快活さが鳴りを潜め、引っ込み思案になってしまうのだった。
そんな様を見る度に、私は藤の将来を危ぶんだ。
唯でさえ、女人の美醜の評判は、婚期を左右しかねない。
その上、美点である気立ての良さも、年頃の男の前では鳴りを潜めてしまう。
これでは、嫁の貰い手がないではないか。そんな不安が常に頭の中にあった。
そして藤は、私以上に自身の婚姻の困難さを自覚し、そして恐らく半ば諦めていた。
自身を必要以上に着飾ることに興味を示さず。料理や裁縫にも無頓着だ。
逆に、商いという、女人の幸せとは無関係の物事に興味を示したのは、つまりそういうことなのだった。
あの、津島巡りという悪癖こそ、その最たる例であろう。
ワシは、その悪癖に反対の声を上げこそすれ、強くは言えなかった。
それは、娘に対する後ろめたさからだ。
次第に、それが娘の慰めになるのであればと、黙認するようにさえなった。
この頃には、私の中にも諦めが芽生え始めていたのであろう。
されど、そんな折、降って湧いたように、藤の縁談が舞い込んだのだ。
縁談を持ち込んだのは、私の妻の弟であり、そして尾張国主である織田上総介様であった。
縁談の相手は、あの桶狭間で噂になった新進気鋭の若手商人。
財力、実力、将来性、どれとっても申し分ない。その上、織田様の覚えもめでたいという。
ワシは一も二もなく飛びついた。これを逃せば、これに勝る縁談など来よう筈もなかった。
そして、縁談が既定路線になった後、将来娘婿となる若者、大山源吉と共に、新たなる制度『楽市楽座』の導入のために奔走することとなった。
源吉なる若者は、中々見どころのある男であった。気持ちのいい若者であった。
共に苦楽を越える度、仲間意識も芽生えてきた。
すると、またもや、後ろめたさが鎌首を持ち上げる。
共に困難に立ち向かった仲間に、騙し討ちをするのは如何なものか、と。
ワシは、ついに耐えきれなくなって、正直に源吉に白状してしまった。
ワシの告白に、源吉は、『では、祝言前に一度会ってみましょう』と言った。
そこで、娘の津島巡りに合わせて、源吉が娘と会うことになった。
いよいよ二人が顔を合わせる当日、ワシはやきもきしたものだ。
いざ、源吉が娘に会って、何を思うだろうか? ワシに何を言ってくる?
まさか、破談にはなるまい。いや、本当にそうだろうか?
やがて、ワシの前に姿を現した源吉はこう言った。
――『娘さんとお会いしました。きっと、大丈夫だと思います』、と。
ワシは怖れていた言葉が出てこなかったことにホッとする。
同時に怪しんだ。源吉は無理をしていないだろうかと。
もしそうなら、源吉には申し訳ないことだ。
それに、源吉の我慢の上で成り立つ夫婦生活が、果たして上手くいくのかと不安に思う。
やはり、気が晴れぬまま、祝言当日を迎えるに至ったのだった。
輿に乗った藤の周囲を、大橋家の参列者たちと共に歩む。
いよいよ、源吉の家が見えてきた。
古式に則り、門火が焚かれ、輿入れを出迎えてくれている。
輿から降りた藤を、大山家の出迎え人が案内していく。
我々は藤とは別口で、祝言の間へと案内される。
祝言の間に通されると、既に大山家中の主だった者たちが座している。
我々は、『これはこれは』『今日はおめでたい日で』などと、ありふれた挨拶を交わす。
そうして、我々も座ると、今宵の主役が現れるのを待った。
晴れの日だ。心中の不安を表に出さぬように努めながら、黙して時を待つ。
すると、襖がすっと開かれる。白装束に身を包んだ藤が姿を現す。
伏し目がちに、そろりそろりと現れた藤は、上座に静かに座る。
座った後も、伏し目がちに、更には瞳を閉ざしてしまう。
その大きな目を、衆目に晒さぬようにだろう。
ワシは、ああと、呻きそうになる。
何故、娘は晴れの日に、こんな思いをしなくてはならないのか。
私は心中で、そのように嘆く。
それでも幸いだったのは、大山家側の人間たちが、この新婦の振る舞いを不自然に受け取らなかったことだろうか。
どうも彼らは、新婦が極度の緊張下にあるらしいと、そう判じたようであった。
そして、続いて、新郎である源吉が姿を現す。
ゆっくりと、藤の座る上座へと近づいていく。
藤はそっと、少しだけ顔を持ち上げる。ちらりと、盗み見るように、新郎の顔を見上げたのだが。
はて、と言わんばかりに小首を傾げると、藤は二度三度、瞬きを繰り返す。
そして訝しげな表情を隠さずに、少しと言わず顔を持ち上げて――
「ああああああああああ!!!!」
そんな驚愕の声を上げた。
ワシは頭を抱えそうになる。
どうして、津島で会った御仁が、大山源吉なのだと伝えなかったのか?
いや、それは、源吉が言わなくていいと言ったからだ。つまり、源吉が悪い。
大山家側の参列者は、新婦の奇行と、次いで新婦が露わにした顔に、驚きを表す。
静かなどよめきが、祝言の間に起こる。
ええい! どうするのだ!? ワシは源吉を睨み付ける。
ワシの視線の先、藤の視線の先で、源吉が柔らかく微笑む。
そうして口を開いた。
「そんなに驚かれて、どうされたのですか? むしろ、驚きの声を上げたいのは、私の方なのに。そう……」
源吉は一拍置いて、言葉を続ける。
「なんと、美しい姫君を妻に迎えたのかと、ね。……貴女こそまさしく、日の本一の美姫と言えましょう」
その仰々しすぎる言葉に、誰もが毒気を抜かれる。
皆、暫し呆然とした後、取り敢えず式の進行を見守ることにしたようだった。
なんとか、先程の奇行は誤魔化せたかと、ワシは胸を撫で下ろす。
そう、何もなかったかのように、式が進行していく。
朱塗りの銚子と杯が、新郎新婦の下に運ばれてくる。
そうして、式三献が始まる。
まず小さな杯に酒が注がれる。
その一つの杯を新郎新婦が順繰りに口を付ける。
次いで、中ぐらいの杯、大きな杯と、同じことを繰り返していく。
三々九度の盃だ。これを飲み交わすことによって、夫婦の契りを交わすのだ。
うーむ。少し、藤の所作が固いが、向かい合い酒を飲み交わす二人の姿は、傍目から見ても良い雰囲気である。
そうして式三献が終わると、新郎新婦始め、参列者たちの前に食膳が運ばれてくる。
晴れの日に相応しい、雑煮と酒であった。
参列者たちが新郎新婦に言葉を掛けるのは、ある程度食事が進んでからが常であった。
皆、まずは自分の食膳に箸を伸ばす。
ワシも取り敢えず、雑煮に箸を伸ばしてはみるが、どうも喉を通るとも思えぬ。
仕方なく箸を置くと、ワシは杯を手に取った。
さりとて、その中身を飲み干すでもなく、杯を持ち上げたまま上座の様子を窺う。
上座では、丁度源吉が、藤に何やら囁いたところであった。
藤は顔を朱に染める。そして、少しして何事か言い返す。
……悪い雰囲気ではない、な。
暫く様子を窺っていると、源吉が藤との距離を詰め、二人寄り添うように、ぴったりとくっ付きあう距離で座る。
恥ずかしそうな様子を見せる藤。
源吉は、そんな藤の手にそっと己の手を添える。
藤は目を白黒させる。衆目が無ければ、またもや奇声を上げていただろう。
さっと、顔全体を朱に染める。そして俯いてしまった。
ただ、俯く直前、本当に一瞬だけだが、確かに嬉しそうに微笑んだのだ。
ワシはその表情を見て得心した。ワシの心配は全て杞憂だったのだと。
源吉に任せておけば、きっと藤は大丈夫だ。そう思う。
どっと、肩の荷が下りたような心地であった。
ワシは上座から視線を離すと、手に持つ杯に口を付ける。――美味い! まるで天上の甘露のようだ!
酒とは、こんなに美味いものだったろうか。
ワシは一杯目を飲み干すと、続けざまに二杯目を注ぎ、またも飲み干す。
ああ、美味い。今宵は、なんと幸せな夜だろうか。
一杯、一杯、もう一杯。どんどん杯を重ねていく。
妻が、ワシの袖を引き、小声で窘めてくる。
ああ、されども。こんなにも幸せな夜に、こんなにも美味い酒があるのだ。
飲むのを止めることなど出来ようか?
更に飲む。飲む。一杯、一杯、また一杯…………。
****
ふと、目が覚める。……知らない天井じゃ。ここはどこだ?
ワシは身を起こす。ずきりと頭が痛んだ。
ワシは頭を押さえながら、記憶を遡る。確か、ワシは娘の祝言に立ち会い、そこで酒を飲んでいたのだ。
そう、その幸せな気分に浸ったまま……。
瞬間、肝が冷える。
あの幸せな時間は、夢であったのではないか? そんな疑問が脳裏を過ったからだ。
あの時間が夢ではなかった。それを確認したくて、見知らぬ部屋の中に視線を走らせる。
すると、妻の顔が目に入った。
美しい。そして、余りにも恐ろしい微笑みが。
「あら? お目覚めになられたのですね?」
そんなことを口にして、妻は私の方に歩み寄ってくる。
まるで、背筋に氷を当てられたかのような心地だ。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
駄目だ。逃げなくてはならぬ。だが、体が動かない。
「旦那様、昨晩のことは覚えておいでですか?」
昨晩? 一体何があったと? いや、ワシは何をしたのだ?
早く、早く、思い出さねばならぬ。
だが、頭は空回りするばかりで、何事も思い出せない。
ああ、妻がもう、すぐ目の前に……!
ワシは……一体何を…………?