04
きらめくシャンデリアが華やかに着飾った一同を見下ろすここは、とあるホテルで執り行われている立食パーティー会場である。
一般層が『絢爛豪華なホテルで催される、夢のようなパーティー』と言われて想像するそのものを具現化したような、ハイソサエティな空気が漂う場だ。和やかに談笑し合う客たちは皆一様に美しく着飾り、それをもてなすスタッフにしても、仕草一つ一つが洗練されている。
無粋で無駄なものはいっさい存在せず、このまま何事も無ければ、穏やかにパーティーは進行していくに違いない。この会場内には、何事も起きないことを確信している者しかいなかった。
―――ただ一人、千歳ひとみはその輝かしい場で、どうしても心からの笑みを浮かべられずにいた。
無論、父に連れてこられたパーティーで、学校で友人たちと机を並べているときのように楽しい時間が過ごせるわけではない。誰もが名を聞いたことのある企業の社長や重役、名だたる銘家の令嬢令息が集まるここは、社交の場。心にもない世辞からの腹の読み合い、時には大人げない嫌味が飛び交い、ひとみはかりそめの笑みを浮かべてそれを受け流すことの方が多かった。
だが、今日はいつも以上に心が重い。ため息とともにグラスを取り落としそうになったのを、何とか律した場面が何度もあった。
「ひとみお嬢様、顔色がよろしくないようですが…?」
会話をしていた婦人に声をかけられて、ひとみは己の視線がつい床に向いていたことに気が付いた。慌てて顔を上げて、硬直していた顔の筋肉を微笑みの形に練り上げる。一見して作られたとわかるほど不自然な表情を、相手も奇妙に思ったのだろう。心配する色合いを浮かべた婦人は「大丈夫ですの?」とおずおずとこちらに問いかけてきた。
ひとみは、今度こそ自然な笑みが浮かべられるよう努めて、雰囲気を壊さぬように謝罪する。
「…え、ええ。申し訳ございません。少々疲れているようで」
「まあ、お嬢様は学生さんですものねえ。少々お休みになられたほうがよろしいんじゃないですか?」
「いえ、大丈夫です。お心遣い、ありがとうございます」
いまだ気遣わしげな婦人と、二言、三言言葉を交わし、ひとみはその場を立ち去る。彼女の言う通り、確かに今自分は華やかなるこのホテルに相応しくない表情をしているだろう。婦人にはああ言ったが、このままでは自分はこのパーティーでお荷物にしかなるまい。外の空気でも吸って、少々休んだほうがいいのかもしれない。
ひとみは今度こそため息を空気に落として、ゆっくりと会場を後にした。無論その際にスタッフに一声かけるのを忘れない。
何度かこのホテルには足を運んだことのあるひとみだったので、廊下から見晴らしのいいテラスに出れることは把握済みである。パーティー会場の騒がしさを背後に感じながら、火照った体と頭を冷やすためには夜の空気がちょうどいい。
テラスには人の気配は無く、少々寂しさも感じられたが、街の明かりを見渡せる絶景のスポットはひとみの疲れ切った心を多少だが癒してくれた。
ロマンティックなネオンの輝きをぼんやりと見つめながら、心地よい冷たさの空気をため息で震わせる。憂鬱な気配が美しい夜景に混じってしまった気がして、またしてもひとみの心は曇った。
(どうして、あんなことになってしまったのかしら…)
己の胸の中にわだかまるのは、ここ数日の出来事の、一連の流れである。あれは、誰も悪くなかった。自分も含めて、悪意を持って行動したものなど、一人もいない。だからこそ悔やんでも悔やみきれず、ひとみは悩んでしまうのだ。
今一度憂鬱さを肺の中からしぼりだすように空気に散らす。はあ、と小さな音が耳に届いた―――その時だった。
「千歳生徒会長」
「え?」
このホテルでは呼ばれることのないはずの役職で呼ばれ、ひとみはぎょっと目を見開いて振り返る。が、そこに立っていた三人の人影にその疑問はすぐに氷解した。
「竜ヶ崎さん…。沖川くん、竹松くんも…」
「こんばんわ、ひとみさん。良いパーティーですわね」
そう言って微笑んだのは、ひとみと同じくマリアンヌ学園に通う顔なじみの令嬢、竜ヶ崎美奈子だった。そばには彼女の未来の部下である沖川蛍一郎、竹松梅之進も控えている。三人とも見慣れた制服ではなく、この場に相応しい礼服をまとっている。
美奈子は焼肉チェーン店を経営する竜ヶ崎家の一人娘であり、いわゆる成金であるのだが、とても気さくで明るく、楽しい人だ。裏の読めない社交慣れした人間よりも、ずっと信用の置ける人物であると、ひとみは認識している。
(そうだ、竜ヶ崎さんたちも、パーティーに来るって言ってたっけ…)
先日そんな会話をしたことを思い出して、ひとみは慌てて彼女に微笑みかけた。
「ごめんなさい、私、少しぼーっとしていたみたいで。こんばんは、竜ヶ崎さん、沖川くん、竹松くん」
「こんばんは、千歳生徒会長」
「生徒会長、今日も綺麗っすね!」
梅之進がおっとりと、蛍一郎が軽い調子で挨拶を返す。
この二人も非常に個性的で、ひとみは美奈子、蛍一郎、梅之進のトリオを非常に好ましいと思うと同時にうらやましいと思っていた。お嬢様と将来の部下という枠組みに捕らわれずともにいる姿は楽しそうで、三人でいると彼らはとても生き生きとしている―――ここでこの本音を部下二人が聞いたら世界の終わりが唐突に訪れたような顔をされるに違いなかったが、ひとみにはわからぬことだった。
「千歳生徒会長、本日はお話があってきました」
綺麗にドレスアップしている美奈子が、その華やかさに相応しい口調と笑顔でひとみへ話しかける。その内容に、はて、改まって話すことがあっただろうか?と「なんでしょう?」と小首を傾げ聞く。令嬢は粛々とした態度で、一度目を伏せて、ゆっくりと口を開いた。
「千歳生徒会長、わたくしたちは先日から貴女の周りを嗅ぎまわっておりました」
「…はい?」
「い、いえいえ、実はナナちゃん…いや、榊原さんから聞いたんすけど、ネズミに困ってたんすよね」
「それで僕たち、何か会長のためにお手伝い出来ることはないかなあって」
聞き違いかと思った美奈子の言葉をひとみが聞き返す前に、慌てて蛍一郎と梅之進が言葉を注ぎ足す。違和感を覚えずにはいられなかったがそれよりも、蛍一郎が言ったことの方が重要だった。
ひとみは許されるものなら顔を青くして、ぎくりと体を強張らせていただろう。しかし社交の場と校内の演説で鍛えられた笑顔の仮面は外れることはなく、目の前にいる令嬢たちもそれ悟った様子は無い。
生徒会室にネズミが出て、持ち物をかじられてしまった。それはあの時メールに入ってきた情報による動揺を誤魔化すための嘘だった。「ネズミ?」と、つい人の目のある場所で呟いてしまって―――ああ、まさか、噂になっていたなんて。後悔するとともに、一拍だけ心を落ち着かせる時間だけ貰って三人に謝罪した。
「…そのことを聞いたんですね。でも、ごめんなさい。ネズミはどうやら私の勘違いだったみたいで…」
「いいえ、千歳生徒会長、勘違いではありませんわ」
言葉を遮るように伝えられて、ひとみは「え?」と目を瞬かせる。戸惑う己を気にせず、柔らかなまるでいたわるかのような口調で美奈子は続ける。
「千歳生徒会長、貴女は随分前から、お父様の経営なさっている病院に、自主的にお見舞いに行っていたようですわね」
「え、ええ。患者さんに少しでも元気になってもらいたくて」
「ご立派な心がけです」
ひとみは父の経営する病院に入院する患者に、お見舞いとともに花を届けたりしている。元来子供好きなこともあり、時には小児科の子供たちの遊び相手になってあげることが主だった。
点数稼ぎだの将来への布石だの、入院患者へのお見舞いに関しては嫌味を言われることの方が多かったひとみは、美奈子の賛辞に少しだけ微笑んで「…ありがとう」と礼を述べる。無論彼女に嫌味のつもりはないだろうから、ちょっとだけ卑屈になった己の内心が伝わることは無かった。
(でも結局、大きなお節介だったのよね…私がお見舞いに行かなければ、翔太くんは…)
ふと脳裏に浮かんだ愛らしい少年の面影が、ちくりとひとみの胸を刺すように痛めつけたが、今は感傷に浸る時間では無い。再度話し始めた美奈子の声に、耳を傾ける。
「千歳生徒会長は、梅之進にあるお花を入院患者さんに持って行こうと相談なさったのですよね」
「あの時生徒会長は、百合の花のことで僕に相談をしました。でも僕は百合の花は香りがきつくて、お見舞い用には向かないって…」
「そう、でしたね…」
その時のことを思い出してひとみは言いよどむ。まさか気づかれてしまったのだろうか?さっと胸に過った予感は、果たして的中していた。梅之進がゆっくりと、こちらの真意を掴むように口を開いたのだ。
「百合の花の香りは、ネズミが嫌う香りだと、僕は本で読みました」
「…!!」
「ひとみさん、もしかしたら、貴女はその百合の香りで、ネズミを…病院に出たネズミを除去しようとしたのではありませんか?」
ずばりと言い当てられ、ひとみは咄嗟の一言を繋ぐことが出来ない。しかしそれでも何とか笑顔だけは取り落とすことはせず、訝しげな声色を心がけて美奈子へと言い返す。
「何のことでしょう?私は百合の好きな患者さんに楽しんでもらおうと思っただけです。想像だけでそんなことを言われては困るわ」
流石に病院にネズミが出たと噂を立てられては不衛生だし、聞こえも悪い。不用意なことを口にした美奈子に対し、つい口調が厳しくなるのも仕方のないことだった。だが目の前の令嬢は毅然としたひとみの態度を物ともせず、いいえ、とゆっくりと首を横に振った。
「ネズミ騒ぎがあったのは、生徒会室ではありません。千歳総合病院の方です」
「竜ヶ崎さん、もういいわ。それ以上は聞きたくない」
「生徒会長、聞いてください。数週間前、病院ではネズミを見た、という報告があった。それを聞いたのは千歳生徒会長、貴女だったのではありませんか?」
会場に戻ろうと歩み出すひとみの背中に、きっぱりとした美奈子の声がかかる。聞きたくはない。恐らく、美奈子は、ひとみの心を揺さぶるような言葉を持っているからだ。この場から早く逃げ去りたくて、足早にヒールを鳴らす。
声はいまだに、ひとみに追従してくる。
「貴女はこれが患者さんの耳に入る前に、何とかしなくてはならないと思った。百合の花を用意して、無論それだけではなく徹底して院内のネズミを駆除した」
「…」
「騒動も落ち着いたころ、貴女が予想もしていなかった事態が起こりました。安原先生の甥御さん…翔太君です」
ぎくり、と今度こそ己の両肩が跳ねたのを、ひとみは自覚した。まさか聞くはずもないだろう名前が、この場で出てきたせいだった。らしくもなく間抜けに目を大きく、棒立ちになるという醜態をさらしてしまい、慌てて取り繕おうと、背後を振り向く。美奈子たち三人組は、先ほどと変わらぬポジションで、こちらを見つめていた。
真っ直ぐな美奈子の目が怖い。槍のように鋭く彼女の視線がひとみを貫きながら、酷く澄んだ声で言葉を紡ぐ。
「翔太君は安原先生のお母様…つまり彼にとってのお婆様のお見舞いにいらしていたそうですね。その時、貴女と出会った」
「それが、なんだと言うの…?」
「安原先生が言っていました。千歳生徒会長が翔太君の相手をしていたから、とても助かったと。それに二人は、とても仲がよさそうだったと」
「…」
ひとみの脳裏に、己に笑いかける翔太の元気な笑顔がふと浮かんだ。美奈子の言うとおり、少年と己は病院で出会い、遊ぶようになった。もともと小児科の子どもたちと触れ合うことの多かったひとみである。翔太少年の素直さも相まって、仲良くなるのは早かった。
だが―――、それもひとみの早計のせいで、全て壊れてしまった。数日前から少年は少しだけ元気が無いように見えた、が、その当時、彼の祖母の容態が悪くなってしまい、そのせいだろうと決め付けていた。数日後彼の祖母は無事回復し、退院へと向かうこととなる。それで翔太の元気な笑顔は、戻ってくると思っていたのだが…間違いだった。
目を閉じれば最後に見た少年の泣き、怒った表情がいまだにこちらを責めてくる。
無意識のうちに唇を噛み締めてしまったひとみに、美奈子が慰めるような声色で続けた。
「千歳生徒会長…翔太君は、貴女のことを気遣っていましたよ」
「…え?」
「悪かったのは、自分だったと。規則を破ったのは自分だったのに貴女を責めてしまったと」
「そんな…!」
悪いのは、翔太の様子がおかしいことに気付いておきながらも、深く追求しようとしなかったひとみだ。自分を責める言葉が口から出そうになるひとみを遮るように、美奈子は続ける。
「翔太君は病院にペットのネズミ…ハムスターを連れてきていたと、告白してくださいました」
「……」
「勿論、悪戯心からの行動ではありません。彼は、仲良くしてくれた貴女に紹介したくて、こっそり友達を連れてきていたんですね」
そんなことまで、知っているのか。一体どうやって調べたのだろうかと訝しく思うが、翔太から直接聞いたような彼女の口ぶりに、ひとみは何も言い返すことが出来ない。変わらずに真っ直ぐにこちらを突き刺す令嬢の目から顔を逸らし、静かに頷くしか出来なかった。
「だけど、ここで翔太君が予想もしなかった出来事が起こります…」
「ハムスター、逃げ出しちゃったんすよね…」
美奈子の言葉を引き継いだ蛍一郎に、ひとみは今度は頷くことも出来ずに、そっと目を閉じる。その通りだった。己が翔太少年の元気が無いと感じた日、彼は大切な友達であるハムスターをこっそり病院に連れ込み、そして誤って逃がしてしまったのだ。
病院内でネズミの姿を見た、と看護師から己と父の耳に入ったのは、その翌日のことである。無論自分たちはそのネズミが少年の大事な友達だとは知る由も無い。入院する患者たちが不安に思わないうちに、原因を駆除しようとするために、様々な策を講じた。
梅之進の言った百合の花も、そのうちの一つである。食品を扱う食堂や売店の周りに、ネズミの嫌う香りの放つ花を置いてなるべく害獣が近寄らないような環境を作り上げていた。
「…翔太君は誰にも言えなかったのよ。盲導犬以外の動物を院内に入れるのは禁止されているから…」
「ええ、貴女にも、ご両親にも相談できなかった」
「私がそのことを知ったのは、ネズミ駆除の業者さんとお話しているときだったわ」
観念したひとみはつい先日起こったことを語り始める。美奈子たちは黙って聞いていた。
ネズミが出たと聞いたその日に既に駆除業者には連絡をし、数日後には徹底的に調べて貰った。しかし院内には最初の目撃情報以外には目立った被害は無く、業者の男性も「恐らく、外に出たか、既に死んでいるかしているのでしょう」と、報告の最後に己を安心させるように結んでくれた。
刹那の安堵。しかし、その安堵はすぐに壊れ果ててしまう。業者との会話を話を翔太少年に聞かれてしまったのだ。駆除されたネズミというのが自分の友達であると思い込んだ少年は、激しくひとみを責め立てた。
「翔太君、泣いてたわ…。あの子はくるたびにハムスターを探していたのに、私はそれに気付くことも無かった」
「でも…それは、会長のせいじゃないですよ…」
「わかってる…誰のせいでもないわ。でも、だからこそ…」
どうして気付けなかったのか、とひとみは己を責めることをやめられないのだ。ひとみが翔太の様子に気付いて、ともにハムスターを探していれば丸く収まったかもしれないのに、と幾度考えたかしれない。後悔しても、遅すぎることだった。
しばらく、無言の時が過ぎる。冷たい風が、ひとみの体を撫でていく。悲しみに捕らわれそうになる頭を僅かに冷やされ、一拍置いてゆっくりと視線を上げた。
竜ヶ崎家のご令嬢は、いまだ真っ直ぐにひとみを見つめていた。
「千歳生徒会長、悲しむにはまだ早いですわ」
視線と同じく真っ直ぐな声が、夜風を揺らす。「え?」と首を傾けると、美奈子はきびきびした口調で後ろに控えている部下たちの名を呼び、何事か指示をする。蛍一郎と梅之進は二人連れ立って、テラスから去っていく。
何かをするつもりなのだろうか?疑問が尽きないひとみの前で、美奈子が視線をこちらへ戻して、言った。
「病院でネズミ駆除時の話を聞いて、私は疑問に思いましたの。ここでもやはり、何かが荒らされた形跡が無かったからです。ですよね」
「え…?ええ。一通り調べてみたけど、変わった所は無かったように思ったわ」
「それは、おかしいことなんです。ハムスターだって生きています。生きている以上は何かを食べて排泄をする。それならば何かしらそういった形跡が無いと」
確かにその通りだと思うが、ひとみは美奈子が何を言いたいのかわからない。そういった形跡が無いということは、翔太のハムスターが既に死んでしまっている、という証拠になるのではなかろうか?表情で雄弁にそう語ってしまったのだろう己に、令嬢はゆっくりと首を振った。
「逃げ出して数日で息絶えてしまうなんて、よっぽどのことが無い限りありえませんわ」
「え、でも…」
「ハムスターは誰かに保護されていたのです」
告げられた一言に、はた、と動きが止まる。その瞬間、美奈子がにっこりと笑った。
「あれだけ愛らしいハムスターですもの。一人きりでいたら動物好きなら面倒を見てあげたくなってしまうに決まってます」
「あれだけ…え?竜ヶ崎さん…?」
件のハムスターのことを知っているような口ぶりに、ひとみはまさか、と言う予感を高まらせずにはいられない。そしてそれを裏付けるように、美奈子の部下たちが小さなケースを持って、テラスに戻ってきた。ごくごく何処にでもある虫かごのようなケースの中には、灰色の毛並みを持った小さな生き物がくりくりとした目でひとみを見ていた。
「看護師さんの一人が、ご自宅に連れて行って面倒を見ていたようです。事情を話したら快く渡してくださいました」
「―――!」
ひとみは両手で口元を覆う。まさかこんなことが…!言いたいことは沢山あったが、口の動きが、心がそれに追いつかない。ぽろりと一粒、涙が頬を伝った。