幾千の献身
ばかじゃないの、そう、真剣に思った。
指にあらんばかりの力をこめて、目の前の彼女の長いスカートを握り締める。
そうすると、静かに立つ彼女はいつもの優しげな笑みを僕に向けて、口を開く
「ごめんね、」
謝るくらいなら、もっと僕の気持ちも考えてよ。ねぇ、ダリア。
優しいんでしょう?それならどうして僕には優しくしてくれないの、ねぇ、何故僕が傷つかないようにしてくれないのさ。
「なんでなの、ねぇダリア」
「ごめんね」
――これが、私の生き方なの
僕が責めると、ダリアはいつもこう言葉を零して悲しげに笑うだけだった。
それを、一体何回繰り返してきたことだろうか。彼女はごめんねと言うだけで、他人のことは考えても彼女自身の幸せだけは、どうしても考えてはくれなかった。
ダリアに幸せでいて欲しいという、僕の願いでさえも、叶えてはくれない。
「私はずっと、ずっと幸せよ。貴方がずっとそばにいてくれて、それだけで」
「僕は嫌だよ、ダリアが幸せにならなくっちゃ。…献身で、人は幸せにはなれないんだから」
「…幸せって、なんでしょうね?カスミ」
「幸せは……、」
カスミ、と僕には少々可愛らしすぎる名前と共に耳入ってきた疑問符。
幸せ、とは。
「僕の幸せは、ダリアが辛い思いをせずに楽しく暮らしていること。…だからきっと、愛する人の楽が幸せじゃないかな」
「…そうね、私もそう思うわ」
「なら、どうして僕の幸せは考えてくれないの?…ダリア、君はもう」
長いスカートを掴んだ手を見てみると、掌に小さい桃色の花びらがいくつかついていた。
地面を見ると、似たような花びらがいくつもいくつも地面に落ちている。
掌についた花びらをポケットに入れながら立ち上がり、少し上の彼女の瞳を見つめた。
「ねぇダリア」
「なにかしら?」
「―――表情、変わらないね」
優しげに微笑んだ顔。
それは先ほどから一ミリたりとも動いてなどいなかった。…いや、動かせないの方が正しいのかもしれない。
もう彼女には、それとあと二つ三つほどの表情しか残されてなどいないのだから。
僕の言葉に彼女はやはり微笑んでいて、でも、瞳の奥では悲しそうだった。
「もう、皆人にあげてしまったから。この顔と、それから怒りと―――」
「ダリア」
「?」
名前を呼びながら、彼女の両頬を包んだ。かつてはたくさんの表情があった顔。
明るい笑顔、拗ねた顔、呆れた顔に悔しげな顔。彼女は誰よりも表情が豊かで、美しくて、きらきらと輝くように綺麗だった。
幾千もの表情は、僕の大切な宝物だった。でも彼女は、そんな美しい表情たちをどんどん分け与えていってしまって。
感情を失ってしまった人、そんな人がこの世界には思わぬほどありふれている。そんな人たちに、僕たち"花"は表情を分け与える。
そのなかでもとりわけダリアはたくさんの表情を持ち、そして美しく優しくて―――
「おねがい、」
僕の傍から、消えないで
そんな願いだって虚しく、ただ彼女は悲しげに笑うだけだった。
この表情は、いつ失われてしまうのだろうか。それはきっと、予期せぬほど、近い未来なのだろう。