空の水筒はそのままで
朝。鳥の鳴く声と差し込んだ陽光に瞼が刺激され、意識は覚醒した。
こういう目覚めは、気持ちの良いものらしい。文庫本によくある描写だが、その主人公達の感性がどれほど世間一般のそれに近いのか、俺は知らない。大西教諭曰く、売れている文庫の多くは読者が感情移入をするから売れているのだという。ならば、売れている本の主人公は世間一般の感性に近いという事だろうか。
別に、寝る間を削ってでもやりたいと思うことが無い俺は、寝るのが早い。だから目覚めも、すっきりしているほうだと思う。
そういえば、昨日一昨日と連続で、水筒の中身が水だった。今日は気を付けるべきか。
水でも構わない、とは、思う。しかし、贅沢を知った生き物の定めか、可能であれば味気の無い水では無く味のあるのものほうが良い。忘れないよう、先に準備をしておくか。
一人暮らしだからか、それとも他の皆もそうなのか、目覚めると同時に動き出す人間は普通なのだろうか。文庫の主人公の中には異なる者も居るようだが、しかし、判断基準というのが難しい。
少なくとも、ひとつ、はっきりしていることがある。
俺は、異常だ。
神野や大西教諭が俺の面倒を見ているというのに、俺は、入学当初から何も変わっていない。特別進学科でなら学べると思ったことも、結局学べず、その事に対してなんの感情も抱かなかった。
キッチンの前に立ち、目に着いた包丁を見る。
包丁の刀身は曖昧に俺の顔を映し出していて、その先端は鋭く尖っている。例えばこの包丁を、自分の手首の当てたらどうなるだろうか。
一人暮らしで誰かに発見されることの無い俺には、死、以外あり得ないだろう。ならば、俺はこの包丁を恐れるのが当然の感情なのではないのか? 日常的に持ちすぎている物だから、なにも感じないというのはあるかもしれない。しかし、その刀身を実際に手首に当てて、確かめてみる。
痛みはあった。だが、恐怖は無かった。
もう少し切り込めば俺は死に至るかもしれない。
それでも、辛くは無かった。
「なにをしているんだ。俺は……」
呟きながら包丁を置き、自らの愚考を咎めるように、大きめの絆創膏で傷口を締める。
やはり、嫌悪はなかった。
「さて」
キッチンの下の棚を漁る。普段ならばそこにインスタントコーヒーの袋があるのだが……。
「買い忘れた、のか」
中にはなにも無かった。
まあいい。俺は別に、水でも構わない。
水筒の中に水道水と氷を入れ、忘れないように鞄に入れようとする。
……いや、これなら、水筒を持っていく必要が無いな。なら、荷物が増えるだけだから、置いていこう。
そして、水筒をもう一度洗い直して棚にしまってから、いつもと同じ朝食の支度を始めた。




