空の水筒を揺らす音
「宗司。変わった事はあったか?」
朝、大西教諭が家庭科室の扉を開けながら言った。
「変わった事。日常通りで無い事ならありました」
俺は答え、読んでいた文庫本を閉ざす。
「ほお、その変わった事とは?」
身を乗り出す大西教諭。こういう行動は興味を抱いたときにするものらしいが、いったい何に興味を持ったのか。俺には解らない。
「昨日、この場所に女子が来ました」
名前まで言う必要は無いだろうから、そこは省く。大西教諭が何を求めているのかが解らない以上は、蛇足を避ける必要があるだろうと判断したためだ。
「神野じゃないのか?」
「いえ、違います」
「で、どうしたんだ?」
「手作りクッキーの手伝いをする事になりました」
「ここでか?」
「はい。ここでです。部活の一環として俺が監督をする、という事であれば、本来許可が降りないであろう特別教室の使用許可も降りるでしょう」
「まあ、確かにそうなんだが……その手作りクッキーというのは、まさか好きな人に渡す、とかか?」
「そのようです」
「……」
「どうかなさいましたか?」
「いや、今時そんな子が居るのか、と、驚いた。俺の代でも危うかったぞ、なんだその天然記念物」
確かに、時代錯誤感は否めない。それにわざわざ自分の手で作る事に拘りを持つというのも俺には解らない考えだ。しかし、彼女は作ると言ったのだし、俺に時代だのなんだのは関係無い。いや、関心が無いと言うべきか。
「驚いた、と言えば、昨日、俺も驚いた事がありました」
言うと、大西教諭が目を輝かせながらさらに身を乗り出す。
「なに!? 本当か!」
そこまで驚く事なのだろうか。きっとそうなのだろう。俺自身、驚いた事にさえ驚いて、動揺してしまったぐらいだ。
「何がお前を驚かせたんだ!? 参考までに聞かせてくれ!」
これが参考になるのか、という疑問を感じつつ、話して何か変わるとも思えず、結果、差し障りないよう話す事に。
「初対面の女子に、泣きながら足にしがみつかれ、許しを請われました」
「……お前、何をしたんだ?」
「物品奪還の依頼を遂行しました。女子はその犯人だったのですが、少し気になる事を言っていたから、尋ねていたんです。結果、泣かれました」
「それは、まあ、普通なら驚くわな……」
遠い目をする大西先生。窓の外の林を見ているのか、その先にある住宅地の光景を思い浮かべているのか、それさえ解らないほど遠い目だ。
「しかし、俺にとっては普通ではありません」
答えると、大西教諭は苦笑し、外から俺へと視線を戻す。
「そうだな。ああ、良い事だ」
良い事。本当に良い事なのだろうか。
解らない。だが、きっと良い事なのだろう。
「それで、その驚かせてくれた礼に、クッキー作りを手伝う事にしました」
「ああ、さっきの話と繋がるのか。少し説明が足りなかったから、他の人と話すときは気をつけろよ? 念の為な」
「解りました」
そうだな、と、自分の発言を思い返す。確かに、説明が足りていなかった。自分が理解しているからといって、相手も理解しているとは限らないという事を失念していた。
「しかし、また面倒なもんに乗ったな。楽しそうでもあるが……」
「面倒だ、とも、楽しそうだ、とも、俺は思いません」
頷いて俺は、昨日教室に置き忘れ、一晩中空のまま放置され、さっき回収してきた水筒に手を伸ばす。中にまた水を入れるため、机の上に置いておいたのだ。
しかし、視線も向けずに取ろうとしたからか、水筒は俺の手の中には入らず、指先に触れて床に落ちた。
カコン、という空洞音が響く。
「……?」
水筒が落ちた。現象としてはただそれだけだ。だから、おかしな事はそこじゃない。
――俺は今、何故横着をした?
気になったのは一瞬で、拾い上げる仕草と入れ違いに、胸から落ちた疑念は床に弾けて消えた。




