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Qお礼と言われて真っ先に思い浮かぶものと言えば?Aフルーツナイフ!

 雪菜に見捨てられた私は仕方ないから放課後、図書室に寄った。俗に言う「おおブルータス、お前もか」状態だ。現状を一人でなんとかするには文庫の力が必要だ。今ならシェ―クスピアさんの四大悲劇の主人公全員と友達になれそうな気分だった。


 ちなみに某イカロスさんとは今も健全にお付き合いさせていただいております。私達、超仲良し。なんなら「共に堕ちよう」とかイケメンボイスで言ってくれるレベル。なんでだよ。一緒に成功しようよ。


 墜落(ついらく)もとい堕落(だらく)を良しとしてくる脳内イカロスさんに抗うべく、手に取ったのは女子力向上のための必須アイテム、料理本だ。でも、人が結構居たからその場で読むのは気が引けて、借りるだけ借りて図書室から出た。


 お菓子作りは乙女の基本。二年前のチョコレートの時はそれを相手に食べてもらう前に事件が起きちゃったからどうとも言えないけど、かなり苦戦した。化粧同様、乙女の道は険しい。


 家で読んでお父さんやお母さんに「うちの近くにはクリニックがあるから安心ね」って笑われるのはもう嫌だから、学校で人気の無いところを探して、読んで、家庭科室を借りて練習しよう。この学校に家庭科室を使うような部活は無かったはずだし、割と自由な校風だから、大西先生辺りに相談すれば許可は下りると思う。


 そうと決まれば下見もしよう。


 私は、(はや)る気持ちを抑えて家庭科室へ向かう。




 この学校は、円の字形の校舎だ。


 真ん中にある横線の一階に職員室とか事務室とかそういうのがあって、その上の階には三年の教室がある。左右の縦線が一年二年の教室で、それに挟まれた奥の横線が特別棟。真ん中の縦線は、三年生や職員がラクして特別棟に行くための渡り廊下だ。


 私が今居る特別棟は一階二階が特別教室になっていて、三階は特別教室を使わない文化部のための部室エリアだけど、一番奥は音楽室になっている。音響設備に結構特別な環境が必要だからだろうけど、構図としてはひとつだけあぶれた特別教室、って感じで少し寂しい。だから極力近付かない。


 家庭科室はニ階の隅っこにある。


 円の字からは奥なんて無いだろ、とは思うかもしれないけど、この特別棟は最近増築された物で、渡り廊下と二年生の側からは行けるけど、一年生側からは行けず、一年は必ず渡り廊下から行かないと行けない。学校も半端な増築をするものだ。


 そしてそのせいで、特別棟には奥というものが存在する。一年校舎側。そっちが奥。


 ちなみに特別棟の廊下から見る窓の外は大変殺風景だ。裏庭というにはあまりに狭い道と、物置小屋。そして、深い林とそこに行かせまいとするためのフェンス。私から言わせてもらえば、あのフェンスに意味なんて無い。あんな怖いところ、行きたがるやつの気が知れない。仮に居たとしたら、簡単に越えられる。


「……」


 放課後。一人でここに来るのは初めてだ。


 もう夕方で、日も沈み始めている。しかも立地が立地なだけに、この特別棟には夕日は差し込まない。さらに、どうやら二階を使っている部活動は無いらしい。暗い。大変不気味だ。もう帰りたい。


 でも、ここまで来て引き下がったら私の女子力はどうなる? 今より女子力が落ちたら、私はいったいどうなる?


 考えたくもないから、借りた料理本を目一杯抱きしめる。


 しかし、


「あれ?」


 不思議な事が起きた。特別棟一階の最奥、つまり家庭科室の電気が点いているのだ。


 消し忘れ? もしくは、誰かが居る。


 願わくば前者であって欲しい。花嫁修業は誰かに見られてはいけないのだ。多分。


 おそるおそる近づいて、小さな窓から中を見る。明るい。廊下とのギャップが半端じゃない。


 でも、人の姿は見えない。


 確かめるため扉を開ける。横にスライドして、顔を入れる。


 すると、居た。


 しかも、見覚えがあるやつだった。


(あの人は……昨日の謎の男!)


 そうだ、私をいじめたやつだ!


 あれ、私っていじめられたの? いやいや私はいたって健全ですよいじめなんて受けてません。ええそうですとも記憶にございません。


「来たのか。なんだ珍しいな、かん……」


 その男は文庫を読んでいたけれど、何かを言いかけながら顔を上げて、止まった。


「……昨日の……俺に用、というのは無いか。ここに居るなんて知らないはずだからな。では神野か? それも無い。あいつに用があるならメールか大西先生伝えのはず……つまり、この教室の用があるのか」


 男は冷静に分析を開始する。少しは驚いて欲しいものだ。


「し、失礼しましたー」


 ゆっくりと扉を閉めようとしたら、


「待て」


 男が止めた。


「俺はこの教室を勝手に使っているだけだ。お前が使いたいのなら俺が場所を変えるのが妥当だろう」


 立ち上がる謎の男。やっぱ背、高っ。


「いやいや、下見に来ただけだから気にせずにっ」


 なんかこのまま消えたり消えられたりしたら気まずくなりそうだったから、私は中の入って扉を閉めた。


「そうか。別にどうであろうと気にはしないがな」


 当たり前のように言う謎の男。言葉の通り彼は既に文庫へと視線を戻している。いや少しは気にしようよ男女二人きりなんだし、先に居たのは俺だーっていう優越感とか無いのかな。私だったらあるけど。


「じゃあ、ちょっと失礼しまーす」


 さっさと下見を済ませて帰ろうと思って中に入る。下見といってもただ、こんな設備があるんだー、とかって呆然と眺めるだけだから、どちらにせよすぐ終わるだろうけどさ。


 さっそく私がその作業に入りつつ男のほうを気にかけてたんだけど、彼は私の存在を本当に気にしていないらしい。一瞥もくれない。こういう時女子力が高かったら、きっと反応も違ったのだろう。ねぇ、私、ここに居るよ? 居るんだよ?


「そういえば」


 ふと、男が口を開く。独り言、といった感じではない。という事は、私に話しかけてる? 私の存在が認知されたぞ! 私の女子力の勝利だ!


「昨日の礼をまだちゃんとしてなかったか」


 見ると、男はちゃんと私に視線を向けていた。


「れ、礼……?」


 それは、まさか、お礼参り的な意味でのお礼?


 だとしたら、女子力云々と浮かれていたさっきまでの自分を絞殺してやりたい。期待させんなよ! 期待すんなよばかやろーう!


「ああ、礼だ。とはいえすまんが何も準備が無くてな」


 男は言いながら、足もとにあった鞄を漁りだした。当然だ。常にお礼参りの準備が整っている人は学校になって居ない。今頃、皆きっと刑務所だ。


 だけど、人を始末するのにはフルーツナイフ一本でもことたりるみたいなんだよね。


 ということは今、咲川沙希恵十六歳に死亡フラグ立ちました?


 冷や汗が頬を伝う。風が外の林を揺らす音までもが耳に届いて、少し鬱陶しかった。


「これでいいか?」


 男が差し出してきたのは一本のナイフ! では無く、まだ開いていない缶コーヒーだった。


「はい?」


 毒入りとかかな? 飲めってことかな?


「安心しろ、ブラックは舌に合わないから、割りと甘口だ」


 男から敵意は感じない。でも、ブラックってつまり真っ黒って意味だから、結構危険なものなんでしょ? 甘口ってことは痛覚的なダメージは控えめなのかしら。


「苦手なのか? となると今は本当に手持ちが無いんだが」


 首を傾げる謎の男。なんなのこいつ、私をどうやって始末したいの?


「えっと、ご、ごめんなさい!」


 こうなれば先手を打て、だ。私は勢い良く頭を下げる。


 か、勘違いしないでよね! 東条君に告白するまでは死にたくないだけなんだからねっ!


「なんのことだ?」


 しかし、謎の男は不思議そうに言った。


「なにかを勘違いしているようだな。俺はお前に謝罪なんて求めていない。さっきも言ったように、礼がしたいと言ったんだ。感謝、という意味での礼だ」


「はい?」


 顔を上げると、相変わらずな無表情の男がこっちを見ている。やっぱり、敵意なんかは感じない。


「えっと……」


 となると、彼の言ってる事が本当なら、私は聞かなければならない。


「……なんのこと?」


 お礼をされるような事も、記憶にございません。






「俺は一戸いちのへ。二年G組だ」


 男は名乗った。私の勘違いを解くためには、まずちゃんと互いの認識をはっきりさせるべきだろう、との事。激しく同意だった。


「私は咲川沙希恵。二年A組ね」


 胸をドンと叩いての自己紹介。なんかこういうのって、お見合いみたいで少し楽しいよね。私は東条君一筋だけど。


「そういえばさっき、神野先輩の名前言ってたよね。知り合いなの?」


「ああ、世話になっている」


 へえ、という事は、相談役としては本当に良い人なんだなー。


 私は一戸君の正面に座って、右手を上げる。


「質問、いいですか?」


「構わないが、先に勘違いを訂正しなくてもいいのか?」


 あ、そうだった。


「えっと、一戸君は私にお礼がしたいって言うけど、はっきり言って昨日のあのやり取りの中で感謝されるようなことがあったとは思えないの。だから、なんのことかなー、と」


 上げていた手を下ろし頭を掻く。そうすれば少しは活性化するかな、なんて思ったけど、もちろんそんなはずが無くて、やっぱり思考は空振りをした。


「そうか、そうだな、確かにそうかもしれない」


 一戸君は謎の納得をして、


「昨日、俺は咲川の言動に驚いた。確かに驚いたんだ。そのことにも驚いたし、それで混乱している自分にも驚いた」


 ぶっちゃけ何を言ってるのか解らなかった。


「咲川は俺を驚かせた。なんと言えばいいのか、おそらく感謝はしていないと思うのだが、そうだな、その驚かせてくれた事に礼がしたかったんだ」


「つまり、驚きたかったって事かな?」


「そうだな。そうなのだろう。驚く、という感情を確かに感じ、礼をしなければと思ったのだから、驚きたかったのかもしれないな」


 変わった人だなあ、と思った。


 驚くってそんなに良い事なのかな。知的好奇心を揺さぶる驚きとはまた違う驚きだし、そんなに良いものとは思えない。


 しかし、本当に、表情が動かない人だなー。顔の筋肉どうなってるんだろうか。なんというか、落ち着きすぎてる感じ?


「しかし、どうやら咲川はコーヒーが苦手らしいな。今の俺はそれ以外持っていないし、明日になれば用意出来るが、礼というのは何が喜ばれるのだ?」


「いやあ、別に要らないんだけど……」


「その要らない、は迷惑だから要らない、なのか、遠慮から来る要らない、なのか」


「遠慮かな?」


「なら遠慮はするべきじゃないだろう。貰えるものは貰っておく、というのは得で、逆は損だろう。それに、こういう時は遠慮するほうが失礼だ、とも言われているらしいしな」


 なんで伝聞調(でんぶんちょう)? つまりはお礼がしたいって事でしょ?


 はっきりいってむずがゆいし、感謝されているという感覚が無いからへんな感じだけど、


「自分が喜ぶものをあげたらいいんじゃない?」


 プレゼントの基本だと思う。何をあげたらいいのか解らないときの最終手段だけど。


 でも、


「それが解らないんだ」


 淡々と、一戸君は当たり前のようにそう言った。


「はい?」


 うん、今の、どういう事かな? つまり、自分に欲しいものが無いって事かな? 禁欲さんなのかな?


「あまり高価だと重かったりするから、お値段的にも気持ち的にも、手軽なのがいいよ。形のあるものに限らず、さっきみたいに飲み物とかさ。そういうのがベストだと思うけど、行動で示すっていうのもありだよね」


 お礼についてここまで教える必要があったのかは不明。ただ、一戸君は何故か、私の一字一句をメモに書き留めていた。……これ、なんて羞恥プレイですか?


「成る程、そういうものなのか。ふむ。また、すべき礼が増えたかもな」


 なんなのこれ、今、本当にどういう状況?


 一戸君はそのまま私を置いて一人の世界へダイビング。なにかぶつくさ言いながら、メモ帳に何かを書いたり見たりめくったり。忙しそうなメモ帳だ。


「ところで咲川はさっきここに下見に来たと言っていたな。何をしていたんだ?」


 いきなり聞かれ、一瞬焦った。でも、そんなにおかしいことじゃないはずだし、正直に答える事に。


「クッキーを作ろうと思ってるんだ。その練習。家だと両親がうるさいのなんのって感じだからさー」


「目的は?」


 そこまで聞きます? 普通は聞かないでしょ乙女の領域ですよ。だから


「好きな人に渡すためっ」


 言えちゃう私は乙女じゃない? いえいえこれも個性です。


 関係無いけど、個性って言葉、便利だよね。精神衛生上とっても優しくて。


「成る程。それは定番だな。まさかとは思うが咲川は不器用か?」


「ええと、まあ、人並み以上には……」


「不器用なんだな。随分使い古されたイベントのような気がするが」


 ほっとけ自覚はしてる。


「丁度良い。それを手伝う、というのはどうだ?」


 一戸君の言葉が、まるで天使の囁きでした。


「……え?」


 思わず聞き返す。そんな都合の良い展開は、ねえ?


「これでも料理は出来るほうだ。だから、その好きな人に渡すというクッキー作りの指導をするんだ。さっきの礼にな。その手に持ってるのは料理の本だろう? なら、指導役も必要なんじゃないか?」


 心を見透かされたようでなんか気持ち悪かった。でも、


「それは、流石に……、迷惑じゃない?」


「迷惑とは思わない。俺は普段からここに居る。そのついでにもなるからな」


「それなんだけど、なんでこんな所に居たの? 部活の一環なら、なにをする部活なの?」


 最初にしたかった質問だった。でも、


「感情について調べる部活だ。名前はまだ無い」


 さらっと言って、


「では、練習は明日からでいいのか? 使う材料とかは解っているのか?」


 なんか遠足前の父親みたいになってるけど、今、結構大事そうな事流したよね。


「ねえ、感情ってどういう事? なんか随分と難しい感じじゃない?」


 なぜか興味が沸いてしまった。


「さして難しいとは思わないな。自分のためにやってる事だ」


「ふーん」


 つまり、神野先輩同様、人の心が知りたいみたいな感じかな?


「それで、どうするんだ? クッキー作りに協力する事で借りを返したいのだが」


「いや、私本当に結構不器用だから、私の指導は簡単じゃないよ。だから、もっと手軽なのでいいって」


「不器用なら余計に指導が要るのでは?」


 うう、正論最強説健在。


「でも、面倒でしょう?」


 情けなすぎて涙が出てきた。隠すように少し俯いて上目遣いで様子を伺う。


 でも、


「別に、面倒とは思わない」


 一戸君は言った。


「こういう時は素直に甘えておくべきだ、と、大西教諭なら言うだろう。困っているのだろう? 咲川は俺が知らない事をひとつ教えてくれたから、これでおあいこだ」


 正直何の事か解らなかったけど、ここまで言ってくれるのを断ったら逆に失礼だ、という言葉を思い出し、素直に頷いた。

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