Q酔いが回って困った時は? Aもっと酔えば良い。
「一戸君!」
家庭科室の扉を勢い良く開け放つ。
居ない、なんて可能性は、始めから頭に無かった。
だって彼は、初めて会った時も、ここに居たから。
いつもここに居るって、言っていたから。
斜陽も差し込まない、静かで寂しい空間で、彼はポツンと、一人で本を読んでいた。好きでも無いはずの本を、当たり前のように、じっと。
彼は私が立てた騒音に驚く事もなく、私を一瞥してから、本を閉ざした。
「来たか」
そう言って立ち上がると、足元にあった鞄を持ち上げ、
「昨日言った通り、お前が持ってきていたのとは違う材料を揃えてきた。念のためネットで適正かどうか調べてみたが、どうだろうな、そもそもクッキー作りでそこまで苦戦する事を、誰も想定していなかったようで、曖昧な返事しか無かった。試してみないと解らない」
机の上に並べられていく材料達。そのどれもが、市販に売られているようなありがちなもものはずなのに、どうしてだろう、なにか、特別なものに見えた。
「なん、で……」
昨日の事をまるで無かったかのような振る舞いに、一瞬呆けてしまう。
彼は材料を出し終えて、本を読んでて凝ったのか、首を鳴らす。
「昨日は済まなかった。気を遣う、という行為を、どこか踏み違えていたのかもしれない。だから、昨日の事については俺の責任だ。しかし俺には感情が無い。そして感情の無い謝罪など、受け取っても迷惑だろうからな。行動で示す事にした。この材料はその気持ちの変わりだと思ってくれ」
なんだそれ、と、笑いそうになってしまった。それがどういう意味での笑いなのか、自分でもよく解らなかった。
気持ちも足りず行動にも移せなかった自分への自嘲? それとも、謝罪に気持ちは込められていない、と自ら暴露した一戸君のある意味での素直さに対する呆れ?
感情は魔力だ。神野先輩はそう言った。
その通りだと私は思った。
でも、だとしたら彼は、感情の無い彼は、いったいどうやって、足りないマジックポイントを補っているのだろう。
知りたい、と、そのまま歩み寄りそうになってしまう。
だけど、それじゃ駄目だ。全然駄目だ。
ここで流されたら、いつもと同じだ。
私は彼に、謝りに来たんだから。
「い、一戸君!」
これは、追試だ。
試験の時は、目の前に立つことすら出来なかった。私はただの臆病者だ。それは今も変わらなくて、やっぱり、口は簡単には動かなかった。
「なんだ?」
私が今抱いてる感情はなんだろう。
一戸君がいままで通りで居てくれているから嬉しいのかもしれない。
でも、だとしたらそれは甘えだ。
彼の優しさに縋り付いたら、私はまた、変われない。
「き、昨日は、ごめんなさい!」
荷物を落としながら、頭も下げた。空気まで一緒に沈んだみたいな重さがずっしりとのしかかってきて、また上げるのには苦労しそうだ。
でも、
「気にするな。俺は、なんとも思っていない」
予想通りの彼の返答が、私の心臓を貫いた。
この表現は便利だ。誰かを好きになる瞬間でも、傷つく瞬間でも使える。
心臓を貫いた。
それはつまり、致命傷を受けたってことなのに。
どうして、そんな傷を、恋の始まりみたいに使うのだろう。
解らなくなって、胸が痛すぎて、本当に、頭が上げられなくなった。
――恋は死だ。
誰かがそんな解釈をしたから、きっと、そんな表現が生まれたんだ。
だって、これが、こんなものが、そんなに素晴らしい物のはずがないから。
「ねえ、一戸君」
頭を上げられないまま、口を開いた。
彼は相変わらずの口調で「なんだ?」と聞いてきて、やっぱりその調子が、私を安心させる。
そして私は、彼にどんな感情を抱いているのか、ようやく自覚した。
私は、流されやすい人間だ。
雪菜はそれを心得ていてくれているから、たまに私を炊きつけて遊んでいるみたいだけど、私自身それは自覚していて、流される事を嫌だとは思わないようにしていた。
私は経験から学ぶ愚者だ。歴史から学ぶのが賢者だとどこかの偉人は言うけど、私の歴史は黒歴史ばかりで、なんの役にも立たない。どちらから学んでも私は愚者。それはもう決定事項。
なら、私は何から学べばいいの? どうすれば私は成長出来るの? 変われるの?
その答えはどこにも無い。
私の経験には、どこにも。
だから私は、変われない。
経験から学ぶ私は、経験に無い事は学べないから。
そうやって諦める事が出来たなら、どれほど楽なんだろう。
何かを欲しいと思わない、というのは、どれだけ傷付かないでいられのだろう。
きっとそれは素晴らしい事だ。
なにも求めていないなら、決して傷付く事は無いはずだから。
だから私は、彼を、羨ましいと思ったんだ。
感情の無い彼を、感情が多すぎる私は、羨んだのだ。
今、私を動かしている感情。それは嫉妬だ。
「――一戸君の馬鹿」
「?」
一戸君は何も言わない。私はただ、床とにらめっこしたままだ。
「一戸君はドジだ。間抜けだ。一戸君のお母さんは出ベソだ。えっと、他には、あの、その……、だ、大魔王の手下、だ」
その後もひたすら、自分でもよく解らない事を言い続けていた。
憂さ晴らしの八つ当たり、なんかでは無い。
彼を怒らせたかった。
感情の無い彼に感情を抱かせて、私と同じ舞台に立たせてみたかった。
そんな事には、なんの意味も無いのに。
「どうやら、また怒らせてしまったようだな」
変わらない口調。
彼は、怒らない。
こんなに言われて怒らないで済むのだから、やっぱり、感情が無いっていうのは便利だ。
そう思った分だけ、私は惨めになっていくのに。
「……違う。……違うよ」
私は、怒ってなんかいない。ただ闇雲に、一戸君に怒って欲しかっただけだ。
勝手だ。私はやっぱり、駄目な人間なんだ。
「私は、一戸君が羨ましい……。感情が無いって、ずるいよ……」
気付けば、私の声は震えていて、瞼はいつもの三倍くらい、重くなっていた。
失敗を引きずらないで生きていける。苦しまずに頑張れる。嫌なものなんて無い。誰かや何かを好きになる事も無いから、心が致命傷を負う事も無い。
そんなの、反則だ。
「ふむ、そうか、成る程」
そしたら彼は、やっぱり平坦な口調のまま、言うのだ。
「感情とは、そういうものなのか。そういう捉え方もある、と思えば、それはなかなかに興味深い」
顔を上げたら、一戸君の表情はいつも通りなのに、なにかが違うように見えた。
「お前の感情は人一倍変化するようだな。ともすれば、人一倍変化しない俺とは相反する関係にある、という事だ」
考えるような仕草。でも、言葉に迷いは無くて、まるで最初から言う台詞が決まっているみたいに思った。
「ならばこういうのはどうだろう。他人のフリ見て我がフリ直せ、とは逆の意味になるが、お前は俺を見て、感情が動かないというのがどういう事かを学ぶ。そして俺は、お前を見て感情そのものを学ぶ」
その提案が何を意味しているのか、よく解らなかった。
でも、
「俺は感情に興味が沸いた。だから、俺に感情を見せてくれ。変わりに俺が感情を抱かないというのがどういう事かを教えられる保障は無い。そういう次元の問題では無いからな」
しかし、と、彼は続ける。
「なんにせよ、行動しなければ変わらないだろう。心の無い俺が羨ましいというのなら、お前はそうなるように努力をするべきだ。そんなお前にとって、悪い提案では無いと思うぞ」
その言葉が伝えようとした本当の意味に、多分私は、気付いた。
動きすぎて不安定な私の心を、彼は試している。
本当は謝りに来たはずの場所でこんなやり取りをしているのだから、相当酷いと思う。
私は、だからこそ、めんどくさい人間だ。
雪菜みたいに気心の知れた人間にしか見せる事が出来ない本性。それが、このめんどくささ。
だって、さっきまで嫉妬していたはずの動かない心というものが、今では怖いのだから。
彼は言葉を控えているけど、何も感じないという事はつまり、心が死んでいると言っても過言じゃない。
怒らない。苦しまない。好きにならない。嫌いにならない。喜ばない。関心を持たない。
そんな心で見た世界は、いったいどれだけ無色なのか。
その無色の世界は、どんな居心地がするのか。
踏み込むべきか、踏み込まないべきか。
彼の甘言に乗れば、私はどうなるだろう。
私は――
「その誘いには、乗れない、かな」
――私の人生に、意味が無くなる。それだけは、確かだ。
彼の人生に意味が無いと言いたいわけじゃない。でも、それでも私は、
「私は東条君が好きだもん。この気持ちがいつか私を傷つけるとしても、私はこの気持ちを大事にしたい。私は、恋は、人生に必要なものだと思うから」
めんどくさくてごめんなさい。
でも、これが私なんです。これが本当の私なんです。
気分屋で心変わりが早くて、優柔不断なのにどこか頑固で。
全部が私です。その全部が私自身です。
経験から学んでも歴史から学んでも愚者になるのなら、私は、『今』から学ぶしかない。
「そうか。解った」
残念そうな様子は全くないのに、私はごめんなさいと一言添えた。
一戸君は「いいさ」と付け足して、
「そう言うだろうとは思っていたからな」
聞き取れないくらいの声量で、何かを呟く。
「?」
なんて言ったのか解らなくって、聞き直そうとした時だ。私の胸ポケットからいきなり音楽が鳴り始めた。
「つおお!?」
思わず浮き足立つ。でもそれがすぐに携帯だと解って、取り出した。
雪菜から、電話だ。
そういえば、雪菜を教室に置いてきてしまっていた。もう二十分くらい経っている。先に帰るよ、みたいな内容だろうか。
「ちょっとごめん、電話来たから、出るね」
そう断わりを入れて、操作する。
「もしもし? ごめんね雪菜、今日は先に」帰ってて。
そう言い終えるより先に、雪菜が遮った。
『ごめん沙希恵。私、あんたにとんでもないことした』
重たい口調だった。いつも冷静な雪菜からは想像も、出来ないくらい。
「えっと、どうしたの?」
斜陽の入りこまない家庭科室。そこは嫌に静かで、
『東条君ね、神野先輩と、付き合ってるんだって』
いつの間にか最大音量になっていた携帯から放たれたその言葉が、鼓膜を破いてしまいそうで。
携帯を持ったままの手から力が抜けて、そのまま落とさないのが精一杯だった。
東条君が神野先輩と付き合い始めたのは、数日前の事らしい。
さっき教室に神野先輩が現れたのは、今日は部活が休みの東条君を迎えに来たからで、告白をしたのは東条君から。東条君は、一年の頃から神野先輩の事が好きだったのだそうだ。
その話を、私が居なくなってからの教室で聞いたとか。
どうして私がそんな話を普通に聞いていられたのか、よく解らない。普段の私なら、すぐにでも取り乱してしまいそうなのに。
『私が無神経だったわ。てっきり委員長は、恋愛沙汰にあまり興味が無いから、誰とも付き合わないんだと思ってたの。それなら、あんたにも可能性はあるって思ってた。……でも、そうじゃなかった。委員長には、ずっと好きな人が居た。だから誰とも付き合わなかった……。なのに、私はあんたを炊きつけて……』
「大丈夫だよ、雪菜。雪菜は全然悪くない。雪菜は私の背中を押してくれたじゃん。そんな人を責められるはずがないし、それに、ほら、私ってば中学の時から失敗ばっかだったし。もう慣れたみたい」
笑いながら答えると、電話越しの雪菜は黙った。多分、私が強がって無理してるんじゃないかと疑ってくれているんだろう。
そうじゃないんだ。私は本当に、平気だった。
「それにさ、感情って、大事だと思うんだ! さっき神野先輩が言ってたみたいに、感情は魔力なんだよっ。」
力を込めて、私は言う。これ以上、雪菜に心配はさせないために。
「つまり、たくさんいろんな感情を抱いていれば、いつだってなんでも出来るようになると思わない? 恋が私をここまで行動させてくれたように、失恋にもなにかの力はある、ってさ!」
マジックポイントが尽きなければ、魔法は使えるのだ。そのマジックポイントを補充する感情が、私にはたくさんある。今はまだ使いこなせないけど、いつかそれが、すごい力になると思うから。
だから、
「悲しみは人を優しくするって言うでしょ? なら私は、この経験を活かして、人に優しくなり、なおかつ、行動力を上げて、女子力も向上させるのだ! 今はちょっと辛いけどさ、でも、そのうち大丈夫になって、勢い余ってレベルアップしちゃうって寸法ね!」
まあ私ってば策士。今なら諸葛亮孔明さんとも友達になれそうだ。
いつもより暗い家庭科室。一戸君が無言のまま、私の言葉を聞いていた。なにこれなんの羞恥プレイ? 私そんなアウトローな趣味はありません。
でも、これは私の無計画が呼んだ事なわけだし、一戸君になら、聞かれても平気かな、と思った。
「だからさ、大丈夫だよ、雪菜」
握っていた拳から、力が抜けていく。その様はまるで、敗北を知った残留兵みたいな気分だ。
これから始まるのは逃亡戦。退き口って言うんだっけ? 家庭科室の退き口。うん、良い響きだ。
『……いつの間にそんな成長したのよ、あんた』
静かに、どこか悲しそうに、雪菜は言う。
私はなんとなく、家庭科室の天井を見た。
点滅しているライトがひとつ。だからいつもより暗かったのか、と、今になって気付く。
「そうだよ、これでも大人になったの」
少なくとも、中学の時よりは。
私は、達観した考え方とかを聞くと、大人だなあ、って思う。
じゃあその達観した考え方ってどんな考え方なのかっていうと、例えば東条君が言ってた正論みたいなものだ。
こうだから、こうするべきだ、とか、こうしなきゃいけない、とか、そんな感じの事だ。自分の感情を押し殺して、社会とか、その場に適応しようとする。その能力は、大人には不可欠だ。
人はいつか、感情を押し殺せるようにならないといけない。
学生のうちは、勉強が嫌いだからって、逃げ出すことも出来る。でも、私のお父さんみたいに、頭部の風通しが良くなる程のストレスともいつか戦わないといけなくなる。
だから、逃げられるのは今だけなんだ。
これもきっと、貴重な体験だ。
『……あんたは、それでいいの?』
その問いに、一瞬の迷いが生まれた。
感情を殺せるようになるには、私にはまだ時間が掛かるかもしれない。
でも、少しずつ、そういうふうにならなくちゃいけない。
そうしなきゃ、生き難いから。
私みたいな不器用はさっさと辛い事に慣れないと、とてもじゃないけど、生きるのが辛すぎるから。
大人にならなくちゃいけない。
諦めや挫折の集大成。達観の頂点。
それが、大人のなるっていう事なら。
「いいんだよ、これで」
私だって成長する。
無理なものは無理だって、諦める事なら今でも出来る。
これは、成長だ。
だから、悪い事じゃない。
『……解ったわ。なら、もうこの事については何も言わない』
雪菜はそう言って、電話越しにも届く程大きな、ため息をついた。
『その変わり、来週の土曜日、一週間絶食覚悟のバイキング、一緒に行くわよ』
「うん、ありがとう。絶対に行く」
それくらいのご褒美が無いと、やってらんないよ。
『私はもう帰るけど、あんたはどうする?』
「あー、うん、私はもう少ししたら帰るから、先に帰ってて」
『解った。また明日ね』
「はい、また明日」
そして、その電話は終わった。
通話の終了を告げる電子音が耳に痛い。でも、それがなんとなく心地良くて、そのまま数秒、聞いていた。
「なにかあったのか?」
ずっと待っていてくれた一戸君は、どうやらあまり聞かないようにしてくれていたらしく、そんな事を聞いてきた。
聞かれてもあまり気持ちの良い事じゃなかったから、やっぱり無関心は優しさの一種だ、と、私はさらに強く、そう思う。
「神野先輩に先を越されちゃったみたい」
話が重すぎて肩が凝った。伸びをして筋肉を伸ばしながら私は答える。
「私の好きな人、うちのクラスの学級委員をやってる東条雄大って人なんだけどさ、その人と神野先輩が付き合い始めたんだって。これで私の恋は終了。夢心地の乙女タイムは制限時間付きだったみたいだね。これで、クッキー作りも必要無くなっちゃった」
伸びをし過ぎて背中が痛くなった。猫背になりながらなんとか椅子に座って、背中をさする。
「ありがとう一戸君。これで君との関係もお終いかな。私としてはまだ友達として居たいけど、一戸君は私に興味無いもんね」
彼には感情が無い。だから当然、そういう事になる。
「そうだな。ああ、お前に興味は無い」
予想通りだったから、今更傷つく事も無い。
というか多分、これ以上胸が痛くなる事なんて無いだろう。
人が辛かったり悲しかったりしても笑っていられるのは、心がいくつもあるからだ。
学校用の心、家用の心、授業中用の心、友達と居る時用の心。
だから、それらをしっかり分別している人ほど、どこかで嫌な事があっても、違う場所では割り切れる。
人の心は、傷ついてもいいようになっている。少なくともどれかひとつが死んでしまっても、問題無く生きていけるくらいには。
私の心は今ひとつ死んだ。でも他の心は生きている。
死んだ心は苦しまない。
だから、私は平気だ。
「じゃあ、さよならだね」
平気な私は、平気な素振りで立ち上がる。
「そうだな」
その言葉に背中を押されて、家庭科室を出た。
寂しい廊下を一人で歩く。死んだ心を引きずって、ずるずると。
あー、重い。しかもなんだかむしゃくしゃするし、胸が痛い。すっきりしたい。
死んだ心のスペースは空になってしまう。多分、その空白が嫌なんだ。
だから、何かで埋めないといけない。穴があったから入る。故に我有り。
私は空気に酔っている。しかも酷い酔い方で、数日に渡って飲み続けたもんだから、二日酔いが酷い。頭が割れそうだ。酷すぎて泣きそうになるくらい。というかもう泣いてる。
でも、私は知っている。
二日酔いの治し方を、私は知ってる。
お父さんが休みの日によくやってる。
迎え酒。
二日酔いの最中に酒を飲むという蛮行だけど、それは本当に二日酔いを治めてくれるらしい。
酔い直す事で、あくまで、一時的に。
でも、それでいい。構わない。
酔い続ければいいのだ。この頭痛や苦しみから逃げる手段、それは、過ちを重ねる事。
……明日だ。
明日、やってやる。
一年と少し振りになるだろうか。昇天のバレンタイン以降気を付けていた行為を、明日、解禁する。
――もう一度、黒歴史を、刻んでやる。
それで、この空虚が埋まるなら。




