Q私の望みはなんでしょうか。A走る事。暴走、迷走、奔走、疾走。なんでも
最低のファイナルアンサーの後も、いつも通りの授業だった。
いつも通りの昼休みを挟んで、いつもは楽しい体育の授業も何故か保険の座学になった。こんなに晴れてるのに、勿体無い。
いつも通りのホームルーム。東条君が挨拶を仕切って、大西先生が一日の終わりを告げる。
「ねえ、咲川さん」
でも、いつも通りじゃない事が起きた。
いつもならここで、雪菜と一緒に帰る算段を着ける。ここ最近は私に用事があって出来なかったけど、その用事も無くなってしまったから。
だから声をかけてくるのは雪菜だと思ってたんだけど、私に声をかけてきたのは、雪菜の声じゃなかった。
顔を上げると、ほんのりと茶色がかったパーマ入りの短髪と、少し照れた様子で弄っている細いのに弱そうには見えない指が最初に視界に入ってきた。多分、直接目を見る事が出来なかったから、そんな変な所から見てしまったのだろう。
東条雄大。
このクラスのホームルーム委員で、人気者で、私が想いを寄せている人。
「と、とと東条君!?」
うひゃあ! と情けない悲鳴を上げながら、椅子ごと後ろに倒れてしまった。……痛い。
「ちょっ、大丈夫!?」
「あんた、なにやってんのよ……」
東条君と雪菜が同時に手を差し伸べてくれる。ここで雪菜の手をとってしまう辺り、私は完全にただのチキンです。ちなみに無農薬だけど、食べれません。そう考えると『ただの』では無くなっちゃうかな。いや、『無料の』って書けばそれはそれで……私はそんなに安い女じゃないからね!?
「ごめんごめん、ぼーっとしてた」
誤魔化すために頭を押さえながら笑うと、大丈夫そうだと判断したらしい東条君も一緒に笑った。雪菜だけが呆れたように嘆息している。
「いやあ、びっくりしたよ。なんというか、中学以来に見た。椅子ごと転ぶ人」
爽やかに笑うもんだから、そんな皮肉じみた言葉もかっこよく見える。恋は盲目と言うけど、そんなもんじゃない。恋は耄碌だ。人をボケさせるから。
「中学の時もよくやったんだよね。なんでだろう。この前も階段で転んじゃってさあ」
なんとかいつも通りを装うけど、言った後に、あ、これ墓穴じゃね? と気づく。そのまま入っていいですか。穴があったから入る。故に我あり。黒歴史を積み重ねるとこんな事が平気で言えちゃう。
「沙希恵、落ち着きなさい」
雪菜に叩かれた。うん、そうだね、混乱し過ぎた。
頭を冷やすため、痛みを堪えるふりをして深呼吸する。
その間に雪菜が、
「で、どうしたのよ、委員長」
「浜崎さんって僕の事そんな風に呼んでたっけ」
困ったように苦笑して、それはさておき、と、さっそく軌道修正する東条君。
「なんか今日一日元気が無かったみたいだからさ。授業の挨拶の時も、結構響く声で挨拶してくれてたのにそれが無かったから、体調悪いのか、って思ったんだけど。大丈夫?」
その優しさが、心に矢を突き刺す。なにこれ致命傷じゃない? このまま死んでも悔いは無さそうな所が余計に怖い。
いや、ちょっと待て私。
「私、普段そんなに声大きい……?」
「うん、割と」
その恥ずかしさが、心に槍を突き刺す。なにこれすごく痛い。このまま死んだら怨霊になってしまいそうだ。
「まあ、他の人の声が小さいだけかもしれないけどさ。挨拶仕切ってる僕としては、元気が良い挨拶してくれると助かるし、嬉しいから」
弁解するような優しい口調でそう言って、東条君は私の前の席に座った。
「でも、体調悪いというより落ち込んでるようにも見えたからさ。心配になって声をかけてみたんだけど、迷惑だったかな」
そう言う東条君は、なんとなく、どこかが、誰かに似ているような気がした。というより、誰かの真似をしているような、そんな違和感があった。
東条君は優しい人だ。これは、一年の時から変わらない。でも、無闇に踏み込んだ事はしない人だった。漫画とかアニメに出てくる万能で行動力のあるクラス委員では無く、どちらかと言えば癒し系な感じだったと思う。
「そーなのよ」
私が答えられないでいると、変わりに雪菜が答えた。
「この子、今落ち込んでるさ。私はもう見捨てたから、東条く……もとい、委員長が相談に乗ってあげて」
「いいけど、なんでわざわざ言い直したの?」
苦笑して頭を掻く東条君の仕草が、妙に可愛らしく見えた。
「そんなことより、相談よ、相談」
言いながら、雪菜は楽しそうに私と東条君の間で頬杖を着いた。腕相撲とかの審判みたいなポジションだ。
「ちょ、ちょっと待って雪菜、これはいったい」なんの罰ゲーム?
そう聞こうとしたら、雪菜は人差し指を私の唇に立てた。お黙り、みたいな威圧感は無く、むしろ優しく、諭すように、
「追試よ、つ、い、し」
何が言いたいのか、すぐに解かった。
雪菜はきっと、解かっていたのだ、私があの休み時間の問題を、間違えるって。
いや、間違えたんじゃない。解き方は解かってた。でも、その答えに辿り着くほどの実力が、勇気が、私に無かっただけだ。
だから、追試。
そうだ、これは、さっきの続きだ。
「で、どうしたの、咲川さん」
その呼び方に、壁のようなものを感じた。
でも、今はその壁が丁度よくも感じる。
「あのね、東条君、私、好きな人が居るの」
だから、私は、本人の前で、本人に対して、そんな事が言えた。
「そりゃ、高校生だからね、当たり前だよ。もしかして、恋の相談? だったら僕より適任が居るけど」
その提案に、私は固くなった首をなんとか、横に振る。
「恋の相談では無いの。その好きな人にプレゼントをしようとして、でも一人じゃどうしようも無かったから、ある人に、手伝って貰ったんだ」
「……へえ。それで?」
東条君の相槌は、簡単なものだった。その前に何かを言いかけてたようにも見えたけど、何かを思い出したかのように留まっていた。
誰かの真似をしているような違和感が、さらに膨らむ。
「その人は、私にすごくよくしてくれた。とっても気遣ってくれて、とっても優しく、真摯に、私に協力してくれてたの」
東条君は頷くだけで、次は何も言わなかった。
聞きに徹している。そんな様子が、はっきりと伺えた。
「でも、私ね。自分が上手くいかなかったからって、その優しさが、嫌になっちゃったの。協力してくれた人に、優しくしてくれた人に、酷い事を言った」
自分で実際に言葉に出して、どこまで最低な事をしたのか、実感する。ああ、冷静に分析してみたら私、こんなことしてたんだ、と。
ふいに、昨日のクッキーの味がまた、浮かび上がってきた。
口の中が乾く。じゃりじゃりした異物感が喉まで込みあがってきて、そのまま吐きそうになった。
でも、なんとかこらえて、続ける。
「その優しさが、辛い時もあるんだ、って。勝手だよね。優しさを求めたのは私なのに。なのにそんな事言って、逃げ出しちゃって……それだけでも最低なのにさ、まだ、謝れてないっていうのが、もっと最低だ……」
相談の体で、いつのまにかただの愚痴になっていた。
なのに、東条君は、優しく微笑む。
「意外だな」
呟いた言葉は、とても優しかった。優しすぎて惚れそうだ。もう惚れてるけど。
「女の子って、自己嫌悪とかそういうの、嫌いな人が多いって思ってた」
「え?」「は?」
思わず、雪菜とハモってしまう。というか雪菜、若干素が出てたよ。
「いや、ほらさ、なんというか、ガールズトーク? そういうのが耳に入ってくるとさ、結構な割合で誰かの悪口なんだよ」
え、そうなの? ガールズトークというものを実演したことが無いから解からなくって、なんとなく雪菜のほうを見てみた。そしたら苦々しい顔をしている雪菜と目が合って、何故か、頷かれた。ああ、そうなんだ。ガールズトーク、恐るべし。
「でもさ、そういうの、言い方はなんだけど、興味本位で盗み聞きしてるとさ、たまに思うんだよね、それ、本当にその人が悪いの? って」
ガールズトークを知らない私には解からない台詞だった。でも、変わりに雪菜が相槌を打つ。
「それは正直、聞いてる側も思ってるわ。いや、それはあんたが悪いでしょ、って言いたくなる時もあるもの。でも、そこは乙女の団結力。悪く言うと傷の舐め合いかしらね。正論なんて要らない、とにかく同意してもらって、共感してもらって、同情して欲しい、っていうのが強いかも。だから傍から聞いてると、非常識に思えることもあると思うわ。そうやって憂さ晴らしして、男子みたいに暴力には走らないようにしてる、って言えば、少しは納得してもらえるかしら」
その表情はやけにどんよりしていた。ここらへん、顔が広いと苦労しそうだ。沢山の人に気をつかわないといけない。少なくとも私には難しそうだ。
「でも男子って、正論とか、好きそうじゃない?」
なんか、その話に興味を持ったらしい雪菜が身を乗り出していた。
対する東条君も、どこか楽しげだ。
「まあ、好き、というより、頼ってる、って感じはあるね。男ってさ、やっぱり、人より強くありたいって気持ち、強いから。そうなると、少し真面目な話しをする時とかさ、どんな事を言ったら一番かっこいいか、とか、一番強く見えるかっていうのを考えちゃうんだ。そこで出てくるのが正論になるんだよね。正論が一番強い、トランプのキングみたいなものだから」
成る程、となるとガールズトークに参加出来ない私はどちらかというとボーイズトークに向いてるのかしら、と思っていた時期が私にもありました。私は正論なんて言えないからね。両方無理。え、これってもしかしてぼっちの入り口?
「そう考えると、咲川さんの傷を舐める係……いや、この言い方は無し。咲川さんを慰める係はもう浜崎さんが居るから、僕が正論を言う、って流れが理想なのかな?」
あ、成る程、話が脱線したと思ってたけど、こう繋がるんだ。正直少し驚いた。流石はクラス委員、まとめるのが上手い。
「そんな感じかしら。だから、男子にも話を聞いてみて貰いたかったのよ」
雪菜はニコッと微笑んでそんなことを言っていたけど、どうだろう、本当に狙っていたとは思えない私がここに居ます。
「だけど、正論と言っても、僕だってまだ高校二年生だ。高校生が語る正論なんてろくなものじゃないし、道がひとつじゃないのと同じように、正論だから本当に正しいとは限らない」
それに、と、東条君は少し言いにくそうにしながらも、間を空けてから続けた。
「正論は、間違えた人に対しては凶器だよ。自分が悪いって気づいてる咲川さんにとっては、もしかしたら傷を増やすだけかもしれない。だから、正論はあまり、薦めたくない」
それを優しさと言うべきか、甘さと言うべきか、私には解からなかった。
でも、どちらにしても、同じことだ。苦味は苦しみで辛味が辛さなら、甘味が優しさだ。つまり甘えだ。
私は、昨日のクッキーとコーヒーのせいで、今、むしょうに甘いものが食べたいのだ。
だからこそ、ここで甘えたら、多分本当に、私は終わる。
「東条君。……正論で、お願い」
怖かった。
この上なく逃げ出したかった。
「うん、解かった」
でも、この回答は間違えられない。追試の後の再追試なんて用意されていない。そう言い聞かせて、決まってもいない覚悟を差し出す。
「はっきり言って、本当に、咲川さんの行為は最低だと思うよ」
それは本当に、私の胸に突き刺さった。
「育ててくれた親に対する反抗期とは違う。親は子供を育てないといけない。でも、そうじゃないならただの他人だ。知人という名の他人。友人という名の他人。兄弟という名の他人。他人なんだから、本来なら優しくする義務なんて無い。義理なんて無い。それなのに手を差し伸べてくれた人に、君は冤罪を被せて糾弾した」
返す言葉も無かった。
正論は最強のキング、というのは、全くもってその通りだと思った。
最低の在任たる私にとって、それは耳を塞ぎたくなるような言葉の羅列。
痛い。
心が痛い。
「君は、その人にちゃんと、謝るべきだよ」
そうだ、謝らないと。今更でも、謝らないと。
でも、どうしてだろう、体が動かなかった。
彼の言葉は理解出来た。納得もした。
なのに、なんで、この体は動かない?
私の体は、肝心な時にはいつも役立たずだ。
「そうすればさ、もしかしたらまた、協力してくれるかもしれないでしょ? さっき、一人じゃなにも出来ないって言ってたよね。ならなおさら、謝るべきなんじゃないかな。その人のためにも、咲川さん自身のためにも」
そうだ。その通りだ。
きっと、一戸君は、謝ればまた協力してくれるだろう。……と、思う。これも、私の甘えなのかもしれないけど。
でもやっぱり、私の体は動かなかった。
その時だった。
「――はあい、んじゃまあここでキングを打倒出来る唯一のカード、ジョーカー様のお出ましだぜい」
教室の入り口から、そんな声がした。
聞き覚えのある声。一度聞いただけでも頭から離れなくなるような、魔性の声が。
神野唯姫の登場だった。
「「か、神野先輩!?」」
私と東条君が声を揃えた。後ろで雪菜が「さいあく……」と、小さく呟く。
「呼ばれず現れがしゃがしゃーん、でお馴染みの神野唯姫の登場シーンといえば、やっぱり写植はふんだんに使われてて欲しいと願いつつ颯爽と現れて、自然な動作でサッキーの隣に座ってみよう」
全く自然ではないけれど……。
「神野先輩、いつから聞いてたんですか?」
ふと、頭を抱えながら東条君が言う。どうやら知り合いらしい。
「正論はキング、辺りかなー」
言いながら、神野先輩は自然な動作で鞄からお菓子を取り出し、広げた。そこを自然にしてどうするのさ。
「というか、どうして神野先輩がここに居るんですか?」
神野先輩は三年だ。普通こんなところは通らない。だから、なにかの用事があったのだろう。
神野先輩は当然のようにお菓子を頬張り、
「自由人だからねー、別名宇宙人とも言うけど、特殊電波は受信してないぜっ」
キラ、と語尾に星マークが付きそうな勢いでウインクしながら、雪菜にお菓子を差し出す。後半何を言ってるのか、理解出来た私が嫌になる。
「で、なんで沙希恵の隣に座るんですか」
敵意剥き出しにしつつお菓子は貰う雪菜。隙がありませんね。
「言ったっしょー、この子は私が貰い受けるって。たしか、去年の春くらいに」
「三日前ですけどね」
「二人ともなんで覚えてるの?」
神野先輩は間違えてたけど、多分わざとだろう。
神野先輩は雪菜に、そんな事は言わずにー、ね、義母様、と言いながら、さらに雪菜にお菓子を渡す。
雪菜は「娘はやらん」とか言いながらお菓子を受け取ってた。私は雪菜の娘だったのかー、なんて思えるはずもなく、
「さっきの、ジョーカーって、どういう意味ですか?」
そんな事を聞いて、話を逸らした。
そしたら神野先輩はふふ、と笑って、私にお菓子を渡しながら東条君に顔を近づける。そのままキスでもしそうな距離だ。東条君は顔を赤らめながら下に逸らした。
「――正論なんてクソくらえだ。これが、ジョーカーだよん」
そして、東条君の口に無理矢理お菓子を詰め込む。ちょ、この人なにやってんの!?
東条君は慌てて身を引き、詰め込まれたお菓子を急いで租借する。
でも、噛み終えて反論する前に、神野先輩は続けた。
「サッキーはその人に謝るべきだ、だって? そんなこと、本人だって解かってるさ。顔を見れば一発。でも、じゃあなんでそれをしないのか。答えは簡単あら不思議、マジックポイントが足りないからさー」
立ち上がり、演説でもするかのように堂々と、両手を広げて彼女は続ける。
「――感情は、魔力だ」
中二病でも患っているのかな、と思ったのはその出だしだけだった。
「行動するには必ず魔力が必要さねって話だぜ。自慢には高慢が、嫌悪には怒りが、差別には偏見が必要不可欠。告白には好意が、冒険には勇気が、蛮行には忘却が、掴むには手が、歩くには足が、話すには声が。無ければ話になりません、ってね」
誰も、何も言わなかった。
彼女の言葉は、本当に、魔力が込められている。そう感じる程に。
「では、謝罪に必要なものってなんだろうねー。なんでっしゃろと言ったほうがかわいいかな? でもぶりっ子は嫌いだから却下ね。とにかーく、謝罪には罪悪感かい? いいや違う。罪悪感は自己嫌悪に必要な魔力だ。謝罪じゃない」
まるで、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
罪悪感は自己嫌悪を産む。謝罪に必要な魔力じゃない。
その通りだと、思ってしまった。
「なら、謝罪には何が必要か。勇気かい? 勇気は冒険の書に記されてるからお門違いだ。というか勇気はなんにでも必要だし。愛? 優しさ? 罪の自覚? オールノーだ。謝罪に必要なのは、義務感。それ一択」
一瞬、思考が止まった。
義務感? なんで?
「どういうことですか?」
私も雪菜も唖然とする中で、東条君だけが、身を乗り出した。
もっと聞きたい、もっと知りたい、知的好奇心に促されたみたいに、なにかにとりつかれたみたいに、真っ直ぐに。
「あっちゃー、いけないミスをした。自分でどうにかしなきゃとか、ミスはしちゃいけないっていう義務感があったら、その人は謝罪をするだろう。でも、どうにかしようとか、そういう事を思わない人は大抵、責任転嫁するよねー。謝罪は上っ面だけに済ましてさ」
私も気づけば、彼女の言葉に聞き入っていた。
「仲好しのあいつと喧嘩しちまったぜ。でも、喧嘩したからにはそれなりの理由が互いにあったはずだ。譲れないものがあったはずだ。どちらかが妥協すれば万事解決? じゃあ妥協したほうはなんで妥協した? こいつの言い分を理解しなきゃ、その義務感があったからじゃないのかい?」
多少の無理矢理感が気にならないのは、彼女の話し方がその隙を与えないからか。なんにせよ、間違っている、それは違う、そう思っても、反論しようとは思えない。
「最低の発言をして、相手を傷付けた。なら、なんで謝るのかな?」
そこで突如、神野先輩の独壇場は終わった。
間が開く。これは、君らに聞いているんだよ、と、言外に伝える空気。
「相手を傷付けたのだから、謝るのは当然です」
答えたのは東条君だ。口調が少し辛そうだったのは、今現在正論役に回っているから、本心とは別の発言をしての事かもしれない。
しかし神野先輩は答えた。
「当然だから。うん、正論だねえ。じゃあ、それが常識だから謝った、という行為に、その謝罪に、いったいどんな感情が宿るのかなん? それは本当に、心からの謝罪? いんや違う。それは、そうしなければならないから謝ったという義務感から来ているし、正論でもあるから一見正解だ。でも、そんな謝罪で誰が喜ぶ? 精々、部下弄りが大好きな上司くらいでしょー。しかも、その謝罪は相手を見ていない。見てるのは常識を語ってる社会のほうだ。感情を向ける相手を間違えている」
そうしなければならないから、謝る。確かに、そんな謝罪なら欲しくない。
だってそれじゃあ、なにも解決出来てないから。
「正論はね、人の感情を無視してる。人が機械のように決まったものであることを前提に作られている。だから、こういう哲学的な話が少しでも入ってくるとごらんの通り、正論が入ってくるだけで、その回答が酷く冷めたものに見えてしまう」
心を無視してるなんて、感情を無視してるなんて、そんなのが正解だなんて、思いたくない。
成る程確かに、神野先輩はジョーカーだ。正論を打倒する、唯一の力。それが感情。
「あ、感情をそれっぽい音で逆から読むとジョーカーみたいになる、ってのも味噌だぜ」
それは言わなくていいことだと思った。神野先輩、寒いです。しかも全然ならないよっ。
「いいかい、謝罪に必要なものは、ただひとつ。とっても単純。どうしても謝らなきゃ、という義務感なんだぜ」
話が振り出しに戻った。
当たり前の事過ぎて、少しの間、理解出来なかった。
「と、い、う、わ、け、でえー。今からサッキーに、その魔力を注入してやろーう」
言いながら、神野先輩は私に顔を近づけた。
さっきの東条君との距離より近い。吐息が耳に触れ、そして、
「――一戸宗司は、今この瞬間も、家庭科室に居るぜ。しかも、いつもより多い荷物を持って」
気付いたら、私は立ち上がっていた。
「さ、沙希恵?」
「咲川さん、どうしたの?」
雪菜と東条君が聞いてくる。でも、時計を見たらもう、下校時刻から三十分も経過していた。
だから、これ以上はダメだ。少しでも早く、行かないと。
「ごめん、二人とも。私、行かなきゃ」
もう、教室の出口以外は見えなかった。
荷物を鞄に詰めていたら、雪菜がその手を止めた。
「行くって、どこによ」
「一戸君のとこ」
つまり、家庭科室だ。
「謝るの?」
「うん」
もう、迷っている暇は無い。
だって、彼が私を待ってるんだから。
行かないと。行って、謝らないと。
ああ、確かに、これは義務感だ。
私は、絶対に、一戸君に謝らないといけない。
だって、そうしないと、失ってしまうから。
あんなに優しい人との繋がりが、切れてしまうから。
だから、行かないといけない。
「ありがとう、雪菜、東条君。神野先輩も、ありがとうございます」
私は、走って教室を出た。
――彼の優しさを、失くしてはいけない。




