空の水筒で隠し事
――無差別な優しさが、辛い時もあるんだよ。
彼女が言った言葉を、何度頭の中で繰り返しても、意味を理解する事は出来なかった。
理解しなけれなならない、という使命感はある。だが、それを追求しようという貪欲さが働かない。
俺には感情が無い。それは、過去にトラウマがあって、心を殺した、というようなものでは無い。もともと人より、感受性が弱かった、というべきだろうか。
最初の頃は、誰もそれを気にしなかった。小学生の中学年の時ぐらいから、変化が始まったのだ。
神野曰く、感情が無い人間には理性や知性も伴わない。知識や力を身につけても、それを振るい、時に制限して、操っているのは感情だ。故に、身に付けた知識や体力を自らの意思で自在に操る事が出来ているのなら、そこには必ず感情が存在している。という事らしい。
畢竟、俺には少なからず感情は存在している。しかし、感情が育つべき幼少期から既に好奇心などの欲求が弱かった俺は、そのまま感情を育てることなく精神的成長期を終えてしまったのではないか。だから、感情が弱いのでは無いか。という結論に至った。
だが、体の成長とは違い、心の成長は成長期を過ぎても変化する。医師からは病気では無いと診断されたのだから、心は必ず動く。努力次第で、自分が感情と思えるものを味わえる時が来るはずだ、とも、神野は言っていた。
神野は、人の心に興味を持っている。そして小さい頃から感情に敏感だった彼女は中学生の内に哲学も学び始め、いつからか、人の心を掌握したい、という願望を持つようになったとか。その真偽は、本人から聞いた話だから解からない。
そして、他人の心をよく知る彼女を、大西教諭が俺にあてがったのだ。
それが神野との出会い。つまり神野は、本当の意味で、慈善活動みたいなものでこの部活に顔を出しているというわけだ。
だが、しかし、俺に、感情を知りたいという欲が、そもそも無かった。
大西教諭には一年の頃から世話になっているが、悪く言ってしまえば、大西教諭が勝手に大騒ぎして、現状を作り上げたみたいなものなのだ。
別に面倒だとも思わないから言われた通りの事はこなすし、神野と大西教諭が口を揃えてなんとかするべきだと言うから、きっと感情とは良いものなのだろうとは思う。
それでも欲しいと強く思わないのだから、おそらく、俺は一生このままなのだと、思っていた。野球選手になりたいと思わずに、惰性で野球を続けている人間は決してプロ野球選手にはなれないのとは違う。中には天才というものも居て、もしかしたらなりたいと思っていなくてもなれる人間は居るかもしれない。
だが、俺はその前の段階で止まっている。野球を始めてすらいないのだ。
きっかけさえない。興味も無い。それは完全に無関係である事を示している。
だから、俺は一生このままなのだと、そう思っていた。
にも拘らず。
俺は先日、咲川が泣きながら許しを請うてきた時に、確かに、驚いたのだ。
その時は自分が驚いているんだ、という実感さえ無かったが、息が詰まり、心臓が止まったかと錯覚してしまうのはただ事ではない。そして確認してみたら、俺は驚いていたと言うじゃないか。
その事にさえ、驚いた。
ああ、そうか、成る程。これが感情か。そう思った。
神野と大西教諭が言う通り感情を知る事は良い事なのだとするならば、俺はあいつに恩を返さなければならないだろう。恩を返すのは、例え自分が感謝を実感していないとしても、それが常識だから。
さらに、その好機まで訪れた。
咲川のクッキー作りの指導をする、という事になり、これしかないな、と思った。
その行程の中でいったい、なにが彼女を傷つけたのだろうか。
解からない。
何故彼女は俺を優しい人だと言ったのか。
解からない。
優しいというのは良い事ではないのか? 自分が感情を知らない分、何が人を傷つけるか解からない。だからこそ、最大限の気遣いはした。いったい何が間違えていた?
解からない。
そもそも、感情とは良いものではなかったのか? ならば何故、彼女はあんなにも苦痛を伴ったような表情で、涙を流していたのだ?
解からない。
「考えても無駄だな」
一人、いつもの放課後の家庭科室で、いつもより荷物の多い鞄を漁り、なんとか文庫本を取り出し、開いた。これには感情についてこと細かく書いてあるため、感情を知るには丁度良いらしい。
結局、解からない事は解からないのだ。知りたいとさえ思わない現状、俺は未来永劫今まで通り、さっきの答えを知る事は無いだろう。
だが、ひとつだけ解かった事がある。
彼女は俺を優しいと言ったが、それは大きな間違いだ。
優しさとはいわば愛から派生するものだろう。
しかし、無関心は愛には成りえないのだ。そこにイコールは成立しない。
ここまで考えておきながら、どうでもいいか、と思っている自分が居る。
焦りも、怒りも、罪悪感も、自己嫌悪も、欺瞞も辟易もなにも感じない。
「しかし、今日は遅いな」
無意味な事を呟いて、水筒に手を伸ばす。しかしそれは、咲川のクッキーの味を誤魔化すため必要以上に濃くしたコーヒーが入っている。苦すぎて、単体では飲めなかった。
そそっかしいな、とは思う。あんな事があったのだから、咲川がここには来ない、と考えるのが妥当なのだろう。おそらく。多分、きっと。
何故だろう、と考えた。心理的な面において、俺に解る事は殆ど無い。どこかで見聞した内容をそのままトレースするしか俺には出来ない。
その結果、ひとつの答えが導き出された。
俺は先日、物事をめんどくさいと思った事が無いのにも関わらず、ひとつの横着をした。そして今、俺は粗相を起こし、自家撞着に陥っている。
それに理由があるとしたら。
きっと俺は、咲川と会うという事を、楽しみに感じていたのだ。




