Q恋のアルコール度数っていくつなんだろう。A120%だ(良い声)
家庭科室を支配していた白煙も落ち着き、私が教室の隅で『壁に向かって体育座りごっこ』をしている内に、一戸君が小麦粉の赤ワイン漬けを処理してくれた。本当にごめんなさい従順な犬になりきってますので許して下さい。
「大丈夫か?」
やさしい声が、恥ずかしすぎて火照った体を余計に熱くする。
「だいじょーぶだわん。わたしはいつでもだいじょーぶだわん」
このまま機械になってしまいたい。そうすれば何も感じなくて済むのに。
「もう少しで片付けが終わるから、休んでいろ」
あまりの気遣いに惚れてしまいそうだ。私は東条君一筋だから、一戸君の事はご主人様と呼ぼう。
「だいじょーぶだどん。もーいっかいあそべるどん」
「いや、今日はもうやめておけ。あと、まさかとは思うが、酔ってるのか?」
そんなことは無い私は酔ってなんかいない。ただ少し体が火照って頭がぼーっとしてるだけだ。それにしても私の渾身のネタが通じないなんて、一戸君は冗談が通じない人なんだ。
「わたしは犬のおまわりさんだから、悪いことしたわたしを捕まえないといけないのです。だから酔ってません。だわん」
あ、壁さんこんにちわ。どうしてこんなに近くに居るんですか? 私の事が好きなんですか? ダメですよ私は東条君一筋ですから。べー、だ。
「……酔っているようだな」
後ろでカチャカチャ音がする。なんの音だろう、解んない。一戸君も何を言ってるのかな。私酔ってないよ。
ところで壁さん、どこかに悪い人見かけませんでしたか? 私は犬のお回りさんなので、悪い人を捕まえないといけないのです。ちなみに悪い人の特長は私です。
「そのまま休んでいろ」
その言葉が、私なんて要らないよ、と言っているみたいで、胸に刺さった。
「……うん、そうだよね……」
納得する。不器用で頭の悪い私には、やっぱり、こういう事は向いてないんだ。
「なにがだ?」
なんの気なしに聞いてくる一戸君。一戸君は良い人だ、だから言っても平気だろう。
「私ね、中学三年の時、バレンタインでね、金刺君に告白したくてね、チョコ作りを頑張ったんだ」
金刺君。柔道部をやってて、運動神経とか、体格とか、がっちりしてて、男らしくて、かっこよかった金刺君。
「雪菜がいっぱい手伝ってくれて、へたっぴだったお菓子作りもちょっとだけ上手くいってさ、何回も失敗したけどさ、食べてもらっても恥ずかしくないようなチョコが出来てさ」
市販のに比べたら全然だったけど、私の中では最高傑作で、やった、出来た、私にも出来たって、雪菜と一緒に喜んだ。
「だから、絶対落としたりしないように、落としちゃっても平気なように、硬いケースに入れてさ、いざ渡すぞーってなったらさ、そのチョコで、金刺君を殴っちゃった」
「……は?」
「『突きです。剥きあってください』って言ったんだって、私。全然覚えてない。でも、気づいたら、お腹を抱えて、金刺君、倒れてた。渡そうとした勢いで、鳩尾にドーン! だったって……」
緊張しすぎて目の前が真っ白だったけど、目撃者がたくさん居たから、そこから広がった噂を聞いたんだ。
「『昇天のバレンタイン』って、私の中学では、すごく有名な伝説。あまり目立たない女の子が、運動部の男の子に果たし状を突きつけて、不意打ちで勝利して、ってことになってるの」
「……それは、驚くべき事体だな」
そう言う一戸君に、驚いている様子は無かった。
だからだろうか、これを聞いてなにも感じないなら、何を言っても平気だと思った。
「私、ダメダメなんだ……一人じゃ何も出来ない。そのくせなにかやりたがるから性質が悪い。しかも周りを巻き込むなんて最悪だ。一戸君には迷惑かけちゃったけど、ありがとう。あとは私一人で頑張るから、もういいよ」
途中から、自分でも驚くくらいすらすらと言葉が出た。私の本音だったからだと思う。アドリブで話してこんなに噛まずに言えた私、すごいと思う。
そのとき、ぶわあ、と、なんだか焦げ臭い匂いが広がった。
「焦げてしまったか」
一戸君が冷静に何かを言って、その後、ゴリゴリと硬い物を噛む音がした。
見ると、キッチンの上にはオーブンに入れていた鉄板が。一戸君の手には黒い塊が握られている。
「……?」
なにをしてるのか、一瞬解らなかった。
でも彼が私のクッキーを食べているんだと気づいて、ハッとする。
「ダメだよ、それ、ぜったい体に悪い」
すっごい焦げてるし、多分、卵の殻もまだ入ってる。
でも、一戸君はゴクンと飲み込んで、
「ああ、確かに失敗だな」
冷徹に、そう言った。
「今指摘しても、覚えていられないだろう。酔いが覚めるのを待つのもいいが、どうせまだ練習が必要なのだ。指摘は明日でいいな」
彼はあんな、見ただけで不味そうなクッキーを飲み込んだのに、私のほうはその言葉も飲み込めずに居た。もういいって言ったのに。
一戸君はクッキーを乗せたお皿を置いて、続けた。
「そうだな、あとは感想も言うべきか。味見した結果、『食べれなくは無かった。練習すればなんとかなるだろう』といったところか」
淡々と言う一戸君は、それが当たり前のように、それが常識だとでも言いたげに、
「もう少し頑張れ。協力はする」
と、本格的な片付けを始めた。
どうして? そんなことも聞けないほど、頭が働かない。
私は膝を抱いていた腕を解いて、ゆっくり立ち上がる。
「迷惑じゃ、ない?」
どうして私は、こんなに臆病なのか。
「迷惑とは思わない」
どうして私は、こんなに意思が弱いのか。
「嫌じゃ、ない?」
どうしてこの人は、こんなに意思が強いのか。
「嫌だ、とは、思わない」
どうしてこの人は、こんなに優しいのか。
「私は、とってもめんどくさい人間だって、雪菜が言ってた。私もそう思ってる。……それでも?」
ああ、私、酔ってるんだな。そう気付いた。
「ああ、それでも俺は、面倒だとは思わない」
私は、空気に酔っている。
頷いたのは、私の意志じゃない。この空気が、そうさせたんだ。
そんな私はきっと、いつか、これの二日酔いで痛い目を見る。
お酒を飲んだら二日酔いが待ってるって知っていながら、私は空気に流されて酔ってしまう。それでもいいって思ってしまう。
――恋のアルコール度数って、いくつなんだろう。
無理してでも飲んでしまう、その強烈な魔性をもったお酒には、いったいどれほどの二日酔いが待っているのか。
そんな事はまだ、知りたくも無くって。
だから私は、もう一度頷いて、ついでにもう一回強く頷いて、一戸君と一緒に、片付けをした。




