1-1 唐突に死ぬ日常
一話投稿でございます。
ジリリリ、ジリリリ。
けたたましい音で鼓膜が刺激され、強制的に脳が覚醒する。
さすがに耳元数センチで炸裂した音には眠気も耐え切れなかったのか、どこかへと退散していた。
くそ、ちくしょう。
そんな悪態をつきながら、結衣はごそりとベッドから上半身を起こした。
夢だった。どう考えたってそうだ。
喋る本なんて聞いた事もないし、なによりあの日自分は財布をクラスメイトにとられたのだ。だから、財布なんて持っているはずがない。
頭の中でそう呟きながら、結衣はベッドから降りて制服に着替える。
何度も切り裂かれ、その度に黒い糸で縫い直した、黒い制服。多少魔法に対して耐性があるように計算されて編みこまれたその制服も、素人の手縫いで修繕されたせいでその加護を一切失っている。
たとえ魔法に耐性があっても、鋏で切り裂かれればあっさりと断ち切られるのだ。
一部がボロボロになった黒い布を制服として身に纏い、鏡の前に立つ。
寝癖を直す手間を惜しんだ髪は、柔らかなウェーブの所々に癖っ毛が出来ている。どんよりと濁った光を宿す瞳はその端正な顔立ちを仄暗く染め上げ、希望などもうどこにもないと言わんばかりの表情だった。
「……おはよう私、今日も屑っぽいね」
毎朝の自嘲の挨拶は今日も好調だ。
ちなみにこれまでに発せられた朝の挨拶には「おはようございます糞やろう」「よーし、今日も苛められるぞー」「どうしてまだ死んでないの?」「うわ、超不細工だね」などがある。
人様に見られれば全速力で頭の心配をされる状況だが、幸い親は無関心なので彼女の行動には気づいていなかった。
朝の儀式とも言えるようなそれを終え、灯川結衣はそれで支度を終えた。
昨日は快晴だった。夢で見たような雨ではなかったし、本屋にも寄っていない。
家に帰ってきてからのことは良く覚えていないが、基本的に学校で使うものは鞄だけだ。命に関わるような悪戯を防ぐための、結衣の最後の砦。
それだけを携え、結衣は部屋から出て行く。
木造の階段を下りて洋風の一階に着くと、すぐにリビングの椅子に腰を落ち着かせる。
二階と一階を繋ぐ階段はリビングのすぐ横に位置していて、椅子も降りてきてすぐに座れるほどに近い場所にあった。
目の前にはただ焼いただけのトーストと安い牛乳が入ったコップ。
小遣いだけは厄介払いでもしているつもりなのか、常に多めに供給されている。
おかげで、結衣のIDカードには常に六桁の残額が残されていた。
しかし、彼女は普段IDカードを持ち出していない。
徒歩でも十分学校には通えるし、何よりIDカードなんてものを持っていけば、好き放題使われた挙句に割られるのがオチだ。
二〇八〇年辺りから実用化されだしたIDカードは今や一人一枚が所持する、いわば身分証明書と財布、その他カード類を全て統括したような存在だ。
もちろん現金もあるが、もっぱら使われるのはこのIDカードにチャージされた方の金だ。
電車もバスも、コンビニの会計ですら今はこのID支払いになっている。
そんな中、結衣の住む地元の町はまだ辛うじて現金が使える店が幾つか点在していた。
そういった環境に加え、学校が家から近く徒歩で通学できるという状況でもなければ、彼女のIDカードは今頃残高が零になっていたことだろう。
「はい」
チャリン、と一枚の硬貨が投げられる。
テーブルを跳ねた五〇〇円硬貨を無言で手に取ると、流れるようにポケットへ。
昼食代だ。尤も、これもいじめグループの食費に消え去り、昼は水で胃袋をごまかすことになるだろうが、それもいつものことだ。
結衣の体は、もうこの生活を続けて数年になるせいか、あまり食事を取らなくても体力が持つようになっていた。
母との会話はない。
ただ機械的に食事を出され、それを数分で平らげて、行ってきますの一言もなく学校へ向かう。
それだけの日々だ。
父は結衣が学校に行くよりも早く会社に出かけてしまうため、滅多に会わない。最近では記憶の中の父の顔もおぼろげになるくらいに。
「ご馳走様」
コップの中の牛乳を飲み干し、席を立ってリビングから出る。
振り向く音はしない。母親はずっとキッチンに向かいきりで、結衣に関心を向けることはない。
ありがたい、とも思うが、同時にどうして、とも思う。
前者は、それによって自分が苛められていると言う惨めな事実を知られずに済むという子供心で。
後者は、関心があれば苛めの事実を打ち明けて、何とかできたのではないかというあてもない希望だ。
どちらも果たされないifの未来であると分かっているから、だからこそそんな思いを抱いてしまう。
盾代わりの鞄を持って家を出ると、すぐに大通りに直面する。
父の仕事は良く知らないが、とりあえず大通りに一軒家をうん十年ローンで建てられる程度の安定した収入はあるのだろう。自分の帰る家がなくならない点では、結衣は父に感謝していた。
大通りを学校方面へ歩いていく。幾つかの店はまだシャッターを閉めているが、時間は七時を回ったところだ。仕方ないだろう。
うんざりするような春の日差しと共に、学年的には中学三年になった結衣は大通りを歩いていく。
二二〇八年現在、世界は魔法と科学、二つの文明に支えられて成り立っている。
科学は利便性を向上させ、魔法は今まで見なかった方面へのアプローチを可能としたことで魔法文化を浸透させ、それが科学にも発展の兆しという恩恵を与えていた。
なにより、長年人間達が夢想としていた魔法が現実に光臨して、はいそうですかと無関心でいられるほど人間は夢を捨てていなかったらしい。
今では人間の中に存在するエネルギー『魔力』を引き出す術も確立し、それによって動かすエコロジーな乗り物も幾つも開発された。
生憎と結衣はそれを使えない。免許はもちろんのことだが、魔力が引き出せないのだ。
だから学校の選択授業はほとんど魔法の関係ないものを選んでいるし、筆記試験は極力いい点を目指している。クラスのいじめっ子連中よりも頭はいいと自負していた。
しかし、それはいじめの原因でもある。
なぜ魔力が引き出せないのか、魔法の専門家にも話を聞いたが全く不明だった。
結局、生まれてからこの方、結衣はずっと傍で魔法を使われながら、それを苛立たしげに眺める日々が続いたのだ。
そして、それは今も解消されていない。
魔法に傾倒した社会ではないが、一〇〇年の間に世界には魔法が浸透した。
そのなかで魔法が使えないという事実は、結衣に落ちこぼれのレッテルを貼り付けるのには十二分な理由になってしまっていたのだ。
そんなことを悶々と考えながら、大通りを抜けて緑道へ入る。
科学技術の発達と共に地球規模の緑化活動は大きく進み、そこに魔法が現れたことで、緑化は更に進んでいる。
右を向いても左を向いても、魔法魔法魔法。
「もう子供じゃあるまいし」
大体、魔法があったからなんだって言うんだ。
魔法があったってそれですぐにお金が出るわけでも、人間関係が上手くいくわけでもない。
所詮はその程度のものだ。結衣の認識では、魔法というのはその程度だ。
だがしかし、そうは行かないのも世の常だ。現実社会というのは、得てして持たざるものに厳しい。
緑道を抜け、息苦しくなるほどの緑の回廊から目を離し、
「──え?」
世界が、移り変わっていた。
異常だ。
空はどんよりと垂れ落ちるように雲が掛かり、日光はことごとく遮られている。
さっきまで気味悪くなるくらいに青々と茂っていた木々は枯れ落ち、大気は淀み本当の息苦しさを感じさせた。
「なに、これ……!?」
ぞわりと鳥肌が立つのを感じながら、そこで結衣は見た。
コンクリートを砕き降り立った、それを。
黒い騎士の鎧に身を包んだ、吐き気を催すような魔力を撒き散らす何かだ。
人型ではあるが、その大きさは結衣の二倍はあるだろう。
「ォ、ォオオ……」
底冷えするような声が、甲冑の奥からくぐもって響く。
瞬間、結衣は踵を返した。
学校は前方だが、どう考えてもこの騎士もどきを回避して学校に駆け込むことは出来ないだろう。
だから、結衣の選択は逃亡だった。
パンと牛乳しか入っていない胃袋は、揺すられても大して問題ない。全力疾走には十分すぎる条件だ。
スカートは比較的短く、走るのに邪魔にはならない。
どこへ向かえばいいのかは分からないが、とにかく逃げなければいけないことだけは分かった。
轟ッ! と背に風が迫る。チラリと後ろを振り返り、
「────ッ!」
声にならない悲鳴が上がった。
すぐに視線を戻し、疾走を続ける。
剣だ。
鋭い銀の光を放つ大振りな剣が背中寸前に振り下ろされていた。
この現代において、剣というのは儀礼的な物質だ。
実際に使われるものは精々が小振りなナイフ程度で、それ以上に大きな剣の部類に入る刃物は包丁か、あるいは魔法の儀式に使う儀礼用刀剣でしか見たことがない。
しかし、この剣は明らかに鋭く砥がれた両刃の西洋剣だ。人を切るために作られた。
──逃げなければ。
全力疾走しながら、しかし、と続く思いが頭を占める。
しかし、どこへ逃げればいいのか。
ズドン、ドカンと背後でコンクリートを叩く音がじりじりと迫っている。
音は明らかに周囲の家々にも響いているが、人っ子一人出てくる気配はなかった。明らかに異常だ。
頼れる人間がいないのなら、自分で何とかするしかない。
魔法が使えたら、何とかできるのだろうか。
国連に認められた一級魔法師、魔法使い達の憧れ。彼等なら、この程度造作もなく退けられるだろう。
彼等は単体で一つの戦争を武力による完全制圧で終結させることが出来る実力の持ち主達だ。
そんな思考を走らせて、吐きそうな嫌悪感が結衣を襲った。
魔法だと、そんなものが使えてなんになる。この化け物染みた奇妙な鎧相手に魔法が使えたとして、それでこれから逃れられると?
──確かに無理だ。だが私を使えば、可能だぞ?
音が止んだ。
まるで、すべてが停止したような錯覚に襲われ、結衣は荒く呼吸をしながら走り続ける。
その彼女の耳に、声は届く。
頭の中に、響くようにして。
──契約を結んだのだ、逃れられるはずがない。手を伸ばせ、そうすれば助かる。
「誰なの……っ!」
息を切らせながら、結衣が言った。
その言葉に、言葉は応える。
夢の中と同じ、冷たく冷静で、歓喜に満ちた皮肉気な声音で。
──私の名は『ネクロノミコン』。貴女と契約を結び、写し世に再び写りこんだ幻だよ、主様。
さあ、手を伸ばせ。
その声に、抗いがたい誘惑を感じた。
かっ、と脳髄が煮えた湯に浸けられたような熱を感じ、目玉を抉り出すように目蓋を剥き瞳を開く。
背後の気配はまだある。
止まっているだけだ。おそらくもう少しも持たずに動き出すだろう。
ならば、どうすればいいのか。
どうしなければならないのか。
──答えなんて、決まっている。
魔法なんて下らないし、魔法がどれほどいい物なのか、使えない結衣には知ったことではない。
少なくとも一〇〇年以上前は人間に魔法という力はなく、なくたって世界は回っていた。
だが、この背後に迫る異形がその『魔法』に類する何かなのなら、同じ力でなければ滅することは出来ないだろう。
たとえ科学技術で倒せるとしても、では高校一年生に過ぎない結衣にどうしろというのだ。
ならば。
ならば、
「手を伸ばせば、助かるんでしょうね……!」
──無論、無論無論! さあ伸ばせ、掴み取れ! そして存分にその鬱屈した精神を振るうがいい!
聞けば聞くほどにイラついてくる女の声が、頭に響く。
自然と、手は伸びた。
ゆっくり確かめるように手が前へ伸ばされ、そこへ本が現れる。
黒い本だ。
銀の装飾が施されたそれを、結衣は躊躇いなく掴み取った。
もう、どうにでもなってしまえ。そんな自暴自棄に似た心境だった。
このまま逃げ続けても、間違いなく殺される。これが遊園地のアトラクションかドッキリでもない限り、それはどうしようもなく明白だった。
かと言って、殺されてやるのは癪だ。一体何のために、いじめを耐え忍んでここまで生きてきたのか、まるで分からない。
指先が本に触れた瞬間、視界が明滅する。
電流でも流されたかのような不快な感覚。体内に何かが流入するような、おぞましい感覚が全身を駆けずり回っている。
──なるほど、確かに良く馴染む! 鬱屈し埋没した負の精神、まるで鍛錬されていない素人そのものの肉体! まさしく私に相応しい主だ!
「五月蝿い……! 早く、何とかしなさいよ……っ!」
苛立たしげにそう言葉を吐き出すと、脳内で喚く言葉は笑うように変わる。
──よろしい! では片手を掲げろ! 既に私の一端は主様のものだ、叫び唱えろ、それが力になる。
言葉通りに動いた腕は、ゆっくりと背後の騎士へ狙いを定める。
まるで時が止まったかのように刃が振り上げられたところで停止している騎士を見ても、結衣の心には何も浮かばない。
むしろ、思った。
憎いと。自分をこんなことに巻き込んだことも、魔法に携わる者が自分を傷つけようとしたことも。
結衣は魔法が嫌いだ。
だから、本当はこんなこともしたくない。
それでも、やらなければ死んでしまうから。
「……死んじゃえ────!」
直後、掲げられた結衣の掌から、闇色の閃光が解き放たれる。
何事か、そう思う間もなく、
放たれた閃光が、光の奔流となって騎士の上半身を消し飛ばしていた。
四メートルはあろうかという巨体が半分に抉れ、地響きを立てて倒れる。
それはゆっくりと暗い青色の光に変わっていき、大気へと溶け出すように消滅していく。
僅か数秒の間に行われたそれが終わった後、残っていたのは一枚の紙だった。
「なに、これ……?」
不信そうに数枚のそれを拾い上げると、また頭の中に声がした。
──良くやった、他の連中よりも先に手に入れたな。
喜色が滲み出ている声に、結衣は今度こそ思う。
なんだこれは、と。
この異常になってしまった世界で、結衣は心から疑問を感じていた。
最初からクライマックスだぜ!
どうしよう、展開が急すぎる。
加筆修正したいけど、文章がこれ以上浮かばない。大変だ。
感想お待ちしております。




