第58回 黒刀・烏
アルバー大陸にあるのどかで小さな名の無い村。そこに、ワノールの姿があった。長かった黒髪はバッサリと切り落とされ、顔の傷と右目の眼帯が目立つ。知っている者が見れば、髪形が変わってもすぐにワノールだとわかるだろう。
そんなワノールは、家の横で小さな畑を耕していた。始めたばかりなので、まだ土も荒々しい。鍬で力強く地を耕すワノールは、額から汗を薄らと滲ませる。彼是、二・三時間は耕していた。その為、ワノールは汗をタオルで拭い木陰に腰を下ろす。
「畑仕事と言うのは、腰に来るな……」
畑仕事をして初めて気付く。農民達の仕事の辛さを。今までは騎士として、魔獣と戦う事ばかりだったが、こうして畑を耕すと色々と気付く事があった。そして、自分の使えていた王がどれほどまでに国民を苦しめていたのかを、改めて理解したのだ。
汗をタオルで拭い木陰で休むワノールに、長く伸ばした黒髪の女性が微笑みながら歩み寄ってくる。その女性にワノールは軽く右手を上げ、微かに笑みを浮かべ声を掛ける。
「ウール。どうしたんだ?」
「あなたが、疲れているんじゃないかと思って」
ウールと呼ばれた女性は、右手に持った籠を胸の位置まで上げる。
ワノールの隣りに座ったウールは、その籠の中から弁当箱を取り出した。二つある弁当箱の一つをワノールに手渡し、もう一つを膝の上に乗せる。色鮮やかに盛り付けされた弁当を食べるワノールは、笑みを見せた。ウールもそんなワノールの顔を見て微笑み、楽しそうに話をしていた。
楽しい会話をしているなか、ウールが何かを思い出した様に口を開く。
「そういえば、昨日あなたに小包が届いてましたよ?」
「小包? 誰からだ」
「さぁ? どちら様でしょうか?」
首を傾げ、すぐに笑みを浮かべながら答えた。不思議そうな表情をするワノールは、眉間にシワを寄せ、いつもの様に難しい表情をする。この村に帰ってきて、ワノールがこんな表情をするのは、初めてだった。
「どうかしましたか? 眉間にシワ寄せて」
「いや……。俺に小包なんて、誰だろうと思ってな」
笑みを見せるワノールに、ウールも微かに微笑んだ。だが、この時ウールは分かっていた。ワノールが、また戦いに行かなければならないと。その為、少し悲しい目をしてワノールを見据えていた。弁当をおいしそうに食べるワノールに、また暫く会えなくなるのだと。ワノールはそんな事とは知らず、ウールに何度も笑みを見せた。
――夕暮れ。畑を耕していたワノールは、一通りやる事を終えタオルで汗を拭きながら畑を見回す。まだまだ、畑には程遠いと、ワノールは小さくため息を漏らした。少々腰が痛むが、気にせずワノールは家へと足を進める。家に着くまでに、服に付いた土を払い除けていた。そして、疲れを見せない様に、家に入る。
「ただいま」
「お帰りなさい。あなた」
明るい笑顔を見せるウールは、夕食の準備をしていた。農具を玄関に立てて置くと、ワノールはそのまま椅子に腰を下ろす。そして、昼間にウールの言っていた事思い出し口を開く。
「ウール。俺に来ていた小包はどこだ?」
その問いに手を止めるウールは、振り返り手を拭くと「チョット待っててください」と、笑顔で言う。そして、そのまま部屋に入っていき、縦長の細い箱を持って出てくる。その長さは丁度ウールのつま先から胸の位置まであった。ワノールの脳裏に妙な光景が蘇る。レイストビルでフレイストと別れた時の事が――。
なぜ、そんな記憶が蘇ったのかは、分からない。だが、その瞬間、その箱の中身がなんなのか、大体の予測が付いていた。
「ウール。やっぱり、後にしよう」
「えっ? でも……」
「俺は、風呂に入ってくる……。すまんな」
「……いいえ。それじゃあ、これは、ここに置いておきますね」
ウールは微笑み箱をテーブルの上に置く。それに見向きもせず、ワノールは風呂場へと向った。ワノールの背中を寂しそうな瞳で見据えるウールは、何も言わずに夕食の準備を再開する。
暫くして、ワノールが風呂から上がって来た。すでにテーブルには沢山の料理が並んでいる。いつも以上に豪勢な料理の数々に、ワノールは怪訝そうな表情をしながら椅子に腰を下ろす。そして、黙々と夕飯を準備するウールの顔を見据え口を開く。
「今日は、どうかしたのか?」
ワノールの言葉に手を止めるウールは、振り返り笑みを浮かべ、「どうもしませんよ」と答える。その不自然な笑みに首を傾げるワノールは、ふとテーブルの脇に置かれた包みに目をやった。すると、開かれた形跡があり、それを見た瞬間に、ワノールは怖い顔をして怒鳴る。
「お前! これを見たのか!」
「ごめんなさい……。でも、あなた、こうでもしないと、中身を見ようとしないでしょ?」
「な、何を言ってるんだ! 俺は――」
「あなたは、逃げてるだけよ」
ワノールの言葉を遮りウールがそう言い放った。言葉を失うワノールに、ウールは続けて言う。
「まだ、やる事が残っているんでしょ? あなたが、やらなきゃいけない事が……」
その言葉に拳を握るワノールは、目を伏せ静かに口を開く。
「俺に……やれる事はない……」
「いえ、あなたにしか、出来ない事があります。あの方達も、あなたを待っているはずです」
優しい口調で微笑むウールは、ワノールの右手を優しく握る。ウールの目を見つめるワノールは、眉間にシワを寄せ、複雑な表情を浮かべていた。そんなワノールにウールは優しく言う。
「あなたも、すでに分かっているのでしょ?」
「それは……」
「それに、黒苑の事は気にしなくてもいいんですよ」
「だが、あれは、お前の親父さんに……」
申し訳なさそうな表情を見せるワノールに、ウールは優しく首を左右に振る。
「父が黒苑をあなたに託したのは、正義を貫いて欲しいからです。砕けたのは、仕方ない事なんです。だから……気にしないで下さい」
「そうは行かない……。俺は、お前の親父さんと約束した。黒苑でお前を一生守ると……」
「なら、この先、あなたはどうやって、私を守ってくれるのですか? 黒苑はすでに無いのに……」
「そ、それは……」
口篭るワノールに、微笑むウールは箱を開く。箱には細長く布に包まった何かがあった。ワノールの鼓動が高まる。こんなに胸が昂るのは、黒苑を受け継いだ時以来だった。
そして、ウールがその布を静かに捲る。布の下から出てきたのは、黒い柄に黒い鍔に黒い鞘。石突きと鯉口は金色の金具に包まれ、目立っていた。柄頭には銀色の装飾がされている。艶やかで美しい剣をワノールは握った。その瞬間に、体中に衝撃が駆け巡り、鼓動が更に早まる。
「これは……」
「黒刀・烏と、言うそうですよ」
「黒刀……烏……」
「はい。私も、見るのは初めてですが、父は烏を真似て黒苑を造ったと、以前に話してました」
「それじゃあ……」
「はい。これが、黒苑の元となった剣です。父が認めた剣です。きっと素晴らしい剣ですよ」
ウールが微笑む。息を呑むワノールは、ゆっくりと右手で柄を握る。鞘を握る左手をそのままに、右手をゆっくりとスライドさた。金属の擦れる音が僅かに聞こえ、鞘から静かに黒い刃が姿を現す。全てが黒く艶やかに煌き、刃こぼれ一つ無い。とても、人が造ったとは思えぬ程美しく、心を惹きつけるものだった。