第50回 策は幾つも
静かに睨み合うティルと魚の化物。
摺り足でジリジリと間合いを詰めるティルは、天翔姫を軽く握りなおす。静かに呼吸を整え、右足を前に出し距離を測りながらキッチリ魚の化物の右手を見据える。いつでも反応できる様に、常に膝は曲げられていた。
距離約十数メートル。ここから、射程距離に一気に飛び込んで斬りかかっても、きっと刃は鱗に弾かれる。いや、その前に射程距離に飛び込んだ瞬間に、あの槍が飛んで来るだろう。そうなれば、一撃与える前に射程外に弾き飛ばされるか、傷を負う事になる。どちらにしても、射程圏に飛び込む前に、あの槍をどうにかしないといけない。
汗がスーッと額から流れ、鼻筋を通り過ぎる。喉がゴクリと動き、コートの裾が僅かに靡く。動こうとしない魚の化物は、ティルの方を見据えてまま不適に笑う。
「クックックッ。間合いでも測っているのか? 残念ながら、それは無駄に終わる!」
魚の化物の右手が引かれ、槍の刃が魚の化物の腰の隣りに並ぶ。上半身が軽く捻られ、左腕を引くと同時に、円を描く様に両肩が回る。そして、引かれた右手が槍を勢い良く突き出す。鋭く風を裂く音と共に、柄が伸び刃がティルへと向う。
柄の伸びるスピードが、先程よりも早く、ティルは驚き咄嗟に天翔姫でそれを防ぐ。刃音が響き、ティルの体は仰け反る。一方、伸びた槍の柄はすぐに元に戻り、続け様に二撃目が突き出された。
「くっ!」
体勢の整わないティルは、そのまま地に手を着き後方に飛び退く。それを二回繰り返し、体勢を整えたティルは、天翔姫を構えなおす。その三十センチ前方では、槍の刃が地面を抉り、破片が辺りに散らばっていた。
「良くかわせたな」
地面から槍の刃が抜け、柄が元の長さに戻る。呼吸を整えるティルは天翔姫の柄の先にあるボタンを押し、ボックスに戻した。不適に笑みを浮かべる魚の化物は、「死ぬ事を選んだか」と、呟き右手を引く。槍の切っ先が真っ直ぐにティルの体に狙いを定め、勢い良く突き出した。
その刹那、ティルはボックスのボタンを押す。ボックスは金属音を奏で、ライフルの形へと変る。その瞬間、魚の化物の目の色が変った。
口元に笑みを浮かべるティルは、向ってきた槍の刃を右にかわして、銃口を魚の化物に向けたまま引き金を引いた。
――轟く銃声。辺り一体が一瞬静けさに包まれた。
血が点々と緑の草の上に落ちる。
「残念だったな」
その声と同時に、更に血がボタボタと傷口から滴れる。その傷口には鋭利な刃物が未だに突き刺さり、その切っ先から真っ赤な血が毀れる。
「グフッ……。な…何故だ……」
ティルの右脇腹に刺さった槍の刃が抜け、スーッと魚の化物の左手に戻る。地面へと崩れ落ちるティルの体のその横で、伸びきった魚の化物のもう一本の槍が右手へと戻っていく。
「クックックッ。不足の事態に備えて、幾つモノ手の内を潜めておく。それが、戦いの基本だ」
魚の化物は両手に伸縮自在の槍を持ち、不適に笑みを浮かべながら地に伏せるティルを見据える。ティルの放った弾丸は、魚の化物の脇腹を数センチ横に逸れ、その後ろに聳える大木に大きな銃創を残していた。
苦痛に表情を歪めるティルは、右手で傷口を押さえる。ドクドクと血が流れ出るのが手に伝わる。呼吸を整えるティルは、表情を歪め真っ直ぐに魚の化物の方を見据え、左手にはライフルへと変った天翔姫が握られていた。
「うっ…くっ……」
「動くと、苦しくなるだけだよ」
体を起そうとしたティルにそう忠告する。だが、その忠告にティルは耳を貸さず、傷口を押さえたままゆっくりと立ち上がった。傷口は結構深い。これでは、剣を振るう事も出来ないし、あの槍をかわす事も出来ないだろう。ズキズキと疼く傷口に、ティルは顔を顰めよろめく。
不適に笑みを浮かべる魚の化物は、よろめくティルの方へとゆっくり足を進める。完全に油断し、槍すら構えずにいる。そんな魚の化物を目にしたティルは、顔を伏せたまま僅かに笑みを浮かべ、地面に倒れこんだ。
「クックックッ。力尽きたか? すぐに楽にしてやろう」
横たわるティルの頭の上に立つ魚の化物は、右手に持った槍を振り上げた。
「死ね!」
振り上げた槍が振り下ろされた。鈍い音が響き、鮮血が飛び散る。だが、それはティルの血ではない。魚の化物の血だった。ティルの左手に握られた天翔姫の銃口が、魚の化物に向けられ、振り下ろしたはずの右腕が魚の化物の後方に、槍と一緒に地に落ちる。
「グッ……。き、貴様!」
鼻筋にシワを寄せ怖い顔をする魚の化物に、僅かに顔を上げるティルは、弱々しく笑みを浮かべると、「策は……幾つも張り巡らせる……もの……だ」と、述べて地に倒れた。怒り狂う魚の化物は、左手に持った槍を振り上げ、勢い良くティルの頭に突き立てる。だが、甲高い金属音が響き、槍の刃はティルの頭を貫く前に止められた。
「くっ! 死に底無いが!」
魚の化物の視線の先には、渦浪尖を突き出すカシオの姿があった。右膝の震えは止まり、痛みも無い。それどころか、さっきよりも体が軽い位だった。その為、軽く笑みを浮かべ、魚の化物の槍を弾き、ティルの前から遠ざからせると、渦浪尖の切っ先を向け言い放つ。
「完全復活! ここからは、全力でお前を殺しに掛かる! 油断してっと、気付いた時には、あの世に言ってるぜ!」
笑みを零すカシオに、怒りの表情を見せる魚の化物は、鋭く左手を突き出す。風を裂く音と共に、槍がカシオに向って伸びてくる。その槍の刃に合わせる様に、カシオは渦浪尖を突き出す。三又に分かれた刃同士が、激しくぶつかりあい、刃音と共に火花を散らした。弾かれた魚の化物の槍は、すぐに元の長さへと戻り、カシオもすぐに渦浪尖を引き二撃目に備える。
カシオを睨み、奥歯を噛み締める魚の化物は、体を反転させると、そのまま湖へと逃げる様に飛び込んだ。その理由は分からないが、カシオは『しめた!』と思い、ゴーグルを掛け魚の化物を追って湖へと飛び込む。
澄んだ泉の中は、地の底まで見える程綺麗で、滑らかだった。その為、とても泳ぎやすく、カシオは物凄いスピードで魚の化物の背後に迫る。すると、魚の化物がクルッと反転し、カシオの方に体を向けた。カシオはスピードを落とす事無く魚の化物に向っていくが、カシオは急に方向転換し、魚の化物から距離を取る。
「クックックッ。気付いた様だな。あと少しで、串刺しだったのに」
「俺はそんなにバカじゃないし、そんな簡単に串刺しにされる気も無いね」
軽やかに渦浪尖を回すカシオは、真っ直ぐに魚の化物を見据える。その背後には無数の槍が切っ先を向けて壁に突き刺さっていた。あのまま突っ込んでいれば、カシオは間違いなく、あの無数の槍に突き刺さっていただろう。
ブクブクと泡だけが水面に向って上がっていく。カシオも魚の化物も動く気配は無い。様子を見ているのか、それともなんらかの策なのか、二人は対峙したままだった。