第48回 射程距離
波紋を広げる泉の水面。その中央には、魚の化物が立つ。両足の裏は完全に水面に張り付き、沈む事さえない。
波はぶつかり合い飛沫を上げ消滅する。その水飛沫が、風に乗りバルドの方へと飛んでくる。だが、バルドはそんなものを気にせず、真っ直ぐに魚の化物を見据えた。ヒラヒラと数枚の木の葉が二人の間を舞い落ちる。ゆっくりと落ち逝く木の葉が、水面に触れ波紋が広がると同時に、バルドと魚の化物が動き出す。
右手に持つ双牙を分離し、刃の長いナイフを右手に、刃の短いナイフを左手に持つ。風の矢が安定しないと分かった為、接近戦で蹴りをつけ様と考えたのだ。
一方、魚の化物は、水面を蹴りバルドの方へと一直線に向ってくる。そして、右手を引き一気に槍を突き出す。三又に分かれた刃がバルドに向って伸びる。が、バルドと魚の化物の距離は、その槍のリーチよりも長く明らかに届くはずが無かった。
「自分の武器の射程距離も分からないのか……」
首を振り呆れ果てるバルドの姿に、魚の化物の口元に笑みが浮かぶ。その刹那、魚の化物の槍の柄がバルドに向って伸びる。それには、バルドも驚き反応が遅れ、三又に分かれた刃の右端がバルドの右腕を掠めた。
「――クッ!」
僅かに飛び散る鮮血。赤い雫が宙を舞い、表情を歪めるバルドは後方に飛び退く。雫が地に落ち王冠の様に弾ける。飛び退いたバルドは、その場に左膝をつき魚の化物を睨む。伸びた槍の柄が、一瞬で縮み元の長さへと戻った。
「クックックッ。他人の武器の射程距離を知っているつもりでいるからそうなるんだ。この世の常識など、ある様で無いものなんだよ」
不適に笑う魚の化物の正論に、バルドは自分自身の失態に奥歯を噛み締める。右腕の傷は衣服の下に隠れているが、血はドクドクと確実に流れ出ていた。その証拠に傷口付近は真っ赤に滲んでいる。
「我が槍は、伸縮自在。この泉から出ずとも、貴様を簡単に始末出来る」
「本当は……怖いんだろ?」
「何だと?」
バルドの言葉に怒りを滲ませる魚の化物は、僅かに声が震えていた。微かに笑みを浮かべるバルドは、静かに立ち上がり二本のナイフを構える。引き攣った笑みを見せる魚の化物は、ゆっくりと水面を歩み、波紋を広げながら地へと足を踏み入れた。芝を踏みしめる音が静かに聞こえる。
これで対等に戦えると、思ったバルドだがその考えは甘かったと、すぐに気付かされた。
「我を侮辱した罰は、死のみ。貴様の命、捧げて貰う」
「……フッ。戯れご――ッ!」
ザクッと、短音が痛みと同時に耳に届く。声にならない程の痛みに、表情が引き攣るバルド。何が起こったのか、未だわかっていなかった。ただ、自分の体から力が抜け、自然と両膝が地に落ちたのは分かった。
「う…ううっ……」
ナイフを握る力が弱まり、手からナイフが落ち、バルドはその手で腹部を触る。その手が冷たく細長い金属製のモノに触れた。そして、それが左横腹に突き刺さっているのを理解した。その途端、バルドは吐血する。苦しそうな咳と一緒に。
「クックックッ……」
血を吐くバルドの姿を見て不適に笑う魚の化物は、バルドの左脇腹に刺さった槍を引く。ブシュと、音をたててバルドの左脇腹から刃が抜けた。縮む槍の刃に付着したバルドの血が、宙に散る。刃を抜かれたバルドの左脇腹は、血が栓を抜かれた様に溢れ、衣服を赤く染めていた。
「弱いね。あ〜あ……弱い。悲しい事だね」
「うっ……ブッ……」
もう一度バルドの口から血が吐き出された。そして、左脇腹を押さえたまま前かがみに倒れる。血が流れ出るのを、体に感じるバルドは、もう動く事も出来なかった。きっと、ここで死ぬのだと脳裏に一瞬浮かび上がり、意識は遠のいた。
横たわり血を流すバルドの方へと、足を進める魚の化物は、槍を振り上げる。その槍はバルドの頭に刃を向けており、振り下ろせばその頭蓋骨を貫くだろう。だが、それをする前に足音が聞こえ、そこに視線を向けた。
「おい! ティル。もっとゆっくり歩けよ。お前、まだ本調子じゃないんだからさ!」
「黙れ! 俺はもう大丈夫だ」
「嘘付けよ! 足元フラフラだって!」
そんな声と同時にティルとカシオの二人が茂みから姿を現す。そして、ティルと魚の化物の視線がぶつかった。目付きが鋭く変るティルは、腰にぶら下がる天翔姫に手を掛ける。
すると、魚の化物が不適に笑いながら言い放つ。
「クックックッ……。貴様等、この弱き者の仲間か。クックックッ」
その言葉にティルの視線は魚の化物の足元に横たわるバルドに向けられた。
「バルド!」
叫ぶと同時にティルの視界が揺らいだ。まだ、先程のダメージが残っているのだ。右膝を地に落としたティルは、左手で頭を押さえて、軽く首を振る。そんなティルの様子に不適に笑い始める魚の化物は、バカにした様に言う。
「クックックッ……。その体で何が出来るんだ?」
「クッ……ふざけ――」
ティルがそこまで言った時、横をカシオが通り過ぎた。何も言わず黙って。膝をついたままのティルは、カシオに問う。「どうする気だ」と。すると、カシオは真顔で渦浪尖を取り出し答える。
「バルドが心配だ。さっさと終わらせる」
「待て……。奴の力量も分からないんだ。二人で――」
「大丈夫! 俺一人で何とかする。大体、その状態で戦われると、正直足手まといになるだけだから」
渦浪尖のボタンを押す。筒は伸び、三又の刃が姿を見せる。それを軽く回したカシオは、そのまま腰を低くし、渦浪尖の刃を魚の化物の方に向け構えた。
嬉しそうに笑みを浮かべる魚の化物は、一歩カシオに近付くと不適に言い放つ。
「クックックッ。貴様、良い物を持っている。我のコレクションにしてやろう」
「偶然。俺もお前をコレクションに加えてやるよ。魚拓のな!」
そう叫び地を蹴る。不適に笑う魚の化物は、槍を構えるとカシオに向って突き出す。柄が勢い良く伸び、刃がカシオに迫り来る。だが、その刃はカシオの僅か横を通過し、そのまま伸び続ける。
驚く魚の化物。それもそのはず、初めて伸びる槍を初見でかわされたのだから。伸び続ける柄の横を駆け抜けるカシオは、射程圏に入ると右足を踏み込み渦浪尖を突き出す。しかし、その刃は魚の化物には届かなかった。いや、届いてはいたのだ。だが、刃を魚の化物の鱗が弾き返したのだ。その瞬間、二人の視線がぶつかり合い、魚の化物が不適に笑みを浮かべた。
「残念」
その言葉と共に、魚の化物の体が柄に引かれ、右足の膝がカシオの顔を捉えた。顔面を強打したカシオは、背中から地面に叩きつけられる。
「グフッ!」
「カシオ!」
元の長さに戻った槍の刃を木から抜く魚の化物は、体を反転させ倒れているカシオを見て笑う。
「クックックッ。我が体は硬き鱗で覆われている。貴様の槍の刃は届かん。しかし、何故我の伸縮自在の槍をかわせた」
「……ざけんなよ」
微かにそんな声が聞こえる。跪いたままのティルは、いつもと違うカシオの声に目を細めた。怒りなのか、憎しみなのか分からないが、何か夥しい殺意をカシオから感じた。
静かに体を起すカシオは、奥歯を軋ませ勢い良く立ち上がる。そして、すぐに魚の化物の方に体を向け、渦浪尖の切っ先を突き出した。
「その槍は親父の槍だ。返してもらうぞ!」